第36話 遠吠えの夕方、迷い犬と境界
夕方の匂いは、昼の続きを静かに畳む。
火鉢の赤い匂いが薄くなって、代わりに煮込みの匂いが部屋の角に溜まる。
布が光をやわらかくして、音を丸くしてくれる。
丸い音は、胸の奥の糸をほどきすぎない。
私は椅子の上で息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、胸の内側を一度だけなでる。
それだけで、夕方は「終わりへ向かう形」になる。
父は鍋の前で、同じように吐いた。
「ふー」
湯気がゆらり、と揺れた。
近い揺れ。刺さらない揺れ。
父が短く言う。
「よし」
その「よし」で、家の中が整う。
整うと、外の音が来ても受け止める場所ができる。
……なのに。
外から、遠い音がした。
「うおーーん……」
犬の遠吠えだ。
遠いのに胸の奥に触ってくる音。
音が長いと余白が生まれる。余白が生まれると、怖さが入りやすい。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は鍋の火を弱め、耳を澄ませた。
父の顔は変わらない。変わらない顔は、私の胸を落ち着かせる。
もう一度、遠吠え。
「うおーーん……」
今度は少し近い。
近い音は数じゃなく“気配”になる。気配は形がないから怖い。
私は胸元の紐に触れた。
小さな木片――言葉の木札。刻まれた短い言葉。
だいじょうぶ。
握りしめたくなって、指の力を抜く。
落ちないくらい。落ちないくらいで持つと、痛くない。
父が短く言った。
「……外が騒がしい」
その言葉が出た時点で、父の中ではもう“対応の形”ができている。
父は急がない。急がないのに迷わない。
そのとき、戸口の方から音が重なった。
こつ、こつ、こつ。
小さい足音が複数。
複数は“数”になる。
数になると胸の余白が広がる。
布の壁の向こうから、声がした。小さいけれど焦っている声。
「お父さん! いる!? ……あのね!」
ミーナの声だ。
明るい声は好きだ。けれど焦りが混ざると音が尖る。
別の子の声も重なる。
「犬が……!」
「噛むかも……!」
「追いかけてきた……!」
言葉が増える。増えると怖さも増える。
息が浅くなる。
「……ふ、」
切れかけた。
父の声が落ちる。低く、短い。
「……止まれ」
誰に言ったのか分からない。
でも“場”に落ちる言葉だ。落ちると外の声が一拍だけ静かになる。
父は戸口へ向かった。
扉は大きく開けない。結び目を指で確かめ、隙間だけ作る。
「……ここまで。中には入らない。声は小さく」
外で、子どもたちが慌てて言い直す。
「……うん」
「……ごめん」
「……ちいさく、する」
父は続けた。
「……順番。前に出るのは一人」
順番。
その言葉が落ちると、数が形になる。形になると余白が縮む。
ミーナが小さい声で言う。
「わたし、せんとう……」
父が頷いた。
「……用件だけ言え」
ミーナは息を吸って、吐いた。
「……ふー」
吐けている。息が吐けると、言葉が尖らない。
「……犬がね、道の角にいて……近づくと、うなって……」
「……こわくて、帰れない子がいる」
“帰れない”。
その言葉が胸に落ちる。
帰れないのは怖い。
戻る場所が遠くなる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が短く聞いた。
「……場所は」
ミーナが道の方を指す。
「……あっち。坂の下の、石のところ」
父が頷いた。
「……分かった。お前たちは、ここ」
ここ。
ここがあると線ができる。線ができると落ちない。
父は私を振り返った。
柔らかい目。押してこない目。
「……ルミシア」
呼ばれる。呼ばれると返せる。
「……るみ」
父が頷く。
「……家にいるか。来るか」
選ばせる言葉だ。
選べると、怖さは全部にならない。
私は短い石を置く。
「……いく」
父が短く言った。
「……半歩。父の後ろ。触らない」
半歩。後ろ。触らない。
形が小さい。小さい形なら持てる。
父は外へ出る前に、布の壁をもう一枚重ねた。
家の薄さを、外へ持ち出さないための準備。
そして腰の袋から、細い紐をひとつ取り出した。
縄じゃない。太くない。
細い紐は“縛る”より“目印”に近い。
扉が少し開き、外の匂いが細い線になって入る。
土。風。木。
そして――獣の匂い。湿った毛の匂い。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父の背中の影に重なる位置で、外へ出た。
半歩だけ。父の後ろ。
足の裏が土に触れる冷たさが、胸を少し忙しくする。
忙しくなる前に、吐く。
「……ふー」
子どもたちは戸口の線の外に列を作っていた。
列は形。形は安心。
父が言った。
「……動くな。追うな。石を投げるな」
投げるな。
その言葉があるだけで事故は減る。事故が減ると胸が落ち着く。
ミーナが小さく答えた。
「……うん」
父は歩き出す。私は半歩後ろ。
道の端を歩く。端を歩くと余白が減る。
坂の下へ近づくと、遠吠えは聞こえなくなった。
代わりに低い唸りが風に混ざっていた。
「……うぅ……」
短い音は刺さるときがある。
刺さる前に、吐く。
「……ふー」
石のところに、犬がいた。
大きくはない。
でも毛が汚れていて、背中の線が尖って見える。
目がこちらを見て、動かない。
冷たい目じゃない。
疲れている目だ。
疲れた目には、怖さと同じくらい、助けが混ざる。
……助け、という言葉が胸に浮かんで、慌てて息を吐いた。
「……ふー」
助けたい、は温かい。
でも温かさが急ぐと手が出る。手が出ると犬は怖がる。
怖がられると、胸が刺さる。
父は犬から少し距離を取って止まった。
飛びかかれない距離。
近づかないことで、犬にも線を見せる。
父は声を低くして言う。
「……止まれ」
犬に。
でも声は場にも落ちる。
犬の唸りが少し弱まった。
父は剣に触れない。
触れないことで、空気を硬くしない。
父はゆっくりしゃがんだ。
しゃがむと体が小さく見える。小さく見えると押されない。
父が短く言った。
「……怖いか」
犬は「うぅ」と言った。
言葉じゃない。でも返事だ。
父が頷く。
「……分かる」
押しつけない“分かる”。
ただ、そこに置く。
父は袋から小さな布包みを出した。
中は乾いたパンの欠片。匂いだけが先に行く。
父は投げない。
投げると犬が驚く。驚くと走る。走ると騒ぎになる。
父は地面にそっと置いた。
犬の正面じゃない。少し斜め。逃げ道を残す位置。
逃げ道があると、相手は噛まない。
父が言う。
「……食え。奪わない」
犬が鼻をひくひくさせる。
一歩、前へ。……また止まる。
止まる犬は警戒している。
警戒は普通だ。普通と言えると、怖さは全部にならない。
私は父の後ろで、木札を胸に当てていた。
だいじょうぶ。
息を吐く。
「……ふー」
犬がパンへ近づく。くわえる。食べる。
音が小さい。小さい音は刺さらない。
父は犬が食べている間、動かない。
動かないことで“安全”を見せる。
しばらくして、犬の唸りが消えた。
消えても犬はまだこちらを見ている。
確認だ。確認は悪いことじゃない。
坂の上から、子どもたちの声が遠く聞こえた。
「……どう?」
「……だいじょうぶ?」
声が増えると犬が驚く。
驚くと唸りに戻る。
父が振り返らずに言った。低く、小さい声。
「……静かに」
遠くの声がすっと引っ込む。
ミーナが指示したのが分かった。
“形”が、子どもたちにも移っている。
父は次に、地面へ細い紐を置いた。
すっと伸ばして、石の前に線を作る。
犬と私たちの間の線。
跨げない線じゃない。けれど、見える線。
父が言った。
「……ここから先へは行かない」
犬に言っているようで、私に言っている。
そして空気に言っている。
線が見えた瞬間、胸の奥が少し楽になった。
線があると、息を保てる。
父が私を横目で見る。
“ここでいい”の合図。
私は頷いた。
頷きは軽い。軽いと絡まらない。
犬も紐の線を見る。
首を少しかしげる。
分かる線は争いを減らす。
父はもう一つ言葉を落とした。
「……追わない。囲わない。触らない」
触らない。
その言葉が指先を守る。守られると動かなくていい。
……でも胸の中で小さな衝動が動く。
撫でたい。
“かもしれない”が生まれる。
かもしれない、で手を出すと相手は怖がる。
怖がられると胸が刺さる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は犬へ、もう一つだけパンを置いた。
置く。渡す。押しつけない。
犬は食べ、食べ終えると背中の線が少し柔らかくなった。
柔らかくなると、こちらの空気も柔らかくなる。
父はゆっくり立ち上がった。
急に立たない。驚かせない。
父が言う。
「……ここは寒い。水もない」
犬は黙っている。
でも耳が動く。聞いている証拠だ。
父の視線が少しだけ私に寄る。
押さない。選べる余白を渡す。
私は胸元の木札に触れ、息を吐いた。
「……ふー」
短い石を置く。
「……みず」
生活の単語。生活の単語は刺さらない。
父が頷く。
「……汲む」
父は一人で家へ戻らず、道の端の井戸へ向かった。
犬を置いて行かないためだ。
置いて行くと不安になる。不安は唸りに戻る。
父は水を汲み、器に入れた。
軽い木の器。音が丸い器。
父は器を犬の近くへ置く。
正面じゃない。斜め。逃げ道を残す位置。
犬が匂いを嗅ぎ、少し迷ってから水を飲んだ。
飲む音が小さい。小さい音は胸の糸をほどかない。
犬が小さく咳をした。
胸の奥がきゅっとなる。
言葉が出そうになる。「かわいそう」。
でもそれは大きい。大きい言葉は圧になる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は犬に向けて短く言った。
「……よし」
褒める「よし」じゃない。
“今は安全だ”の印の「よし」だ。
犬はしばらく水を飲み、飲み終えると地面に伏せた。
伏せるのは休む姿。休む姿は戦わない姿。
肩の力が少し抜けた。
抜けると息が深くなる。
「……ふー」
父は紐の線を見て、もう一言置いた。
「……今日はここまで」
終わりがある。終わりがあると安心できる。
父が私に言う。
「……帰る」
帰る。戻る場所へ戻る。
戻れるなら落ちない。
私たちはゆっくり坂を上がった。
犬は追ってこない。
追わせない線を作ったからだ。追い払ってもいない。
背後で犬が短く鳴いた。
「……くぅ」
遠吠えじゃない。短い、弱い声。
胸の奥が少しだけ温かくなる。
温かさが膨らむ前に、息を吐く。
「……ふー」
戸口に戻ると、子どもたちが布の線の外で待っていた。
列は崩れていない。崩れていないから胸が忙しくならない。
ミーナが小さい声で言う。
「……どうだった?」
父が短く答える。
「……噛まない。追わない。触るな。石を投げるな」
ミーナが同じ言葉を繰り返す。
「……触らない! 石なげない!」
言葉が揃う。揃うと形になる。形になると怖さが薄くなる。
父は最後に言った。
「……明るいうちに帰れ。寄り道するな」
子どもたちが頷く。
「……うん」
「……わかった」
ミーナが一歩だけ前へ出て、私を見た。
目が心配の形をしている。
「るみ……こわかった?」
直接は刺さることもある。
でも今日は、息が通っている。
私は息を吐いた。
「……ふー」
短い石を置く。
「……こわい」
言えた。
言えたのは、父が線を作ってくれたからだ。
線があると、言葉が落ちる。
ミーナがすぐに息を吐いて言った。
「……ふー。わたしも」
その“ふー”が、胸を少し軽くした。
父が、扉を閉める前に一言だけ言う。
「……犬も、こわい」
その言葉で犬が“悪いもの”ではなくなる。
悪いものではなくなると、胸の尖りが丸くなる。
扉が閉まり、布の壁が整えられる。
結び目が確かめられる。不格好でもほどけない結び目。
父が短く言う。
「よし」
台所へ戻ると、夕方の匂いが戻ってきた。
煮込みの匂い。布の影。火鉢の赤。
私は椅子に座り、胸元の木札を指でなぞった。
だいじょうぶ。
でも心の端に、犬の目が残っている。疲れた目。休む姿。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が私を見る。押してこない目。
「……気になるか」
気になる、は温かい。
でも温かさが急ぐと手が出る。
私は吐いてから答えた。
「……うん」
父が頷いた。
「……明日、様子を見る。線は守る」
線は守る。
その言葉が、犬の目を“刺さらない記憶”にしてくれた。
父は台所の隅の壁へ歩いた。
名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は木札を見上げ、二音を返す。
「……るみ」
父が頷く。
「よし」
その「よし」が落ちた場所は、今日も戻り道になる。
私は最後にもう一度、息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、遠吠えの夕方を“もう終わったもの”にして、胸の糸を、ほどけないくらいに静かに結び直してくれた。
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