表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

35/70

第35話 星が近い夜、観測の目と影の箱

夜の匂いは、昼より正直だ。


火鉢の赤い匂いが小さくなって、代わりに布と木の匂いがはっきりする。

家の中の音も、昼より少ない。少ない音は形が分かりやすい。形が分かりやすいと、私は胸の奥で息を落とさずにいられる。


それなのに、今夜は違った。


静かすぎると、遠いものが近づく。

遠いはずの星の光が、窓の外から“近い光”として刺さってくる気がした。


私は布団の上で、両手をお腹の上に置いた。

落ちないくらいの重さで、自分の体を確かめるために。


息を吐く。


「……ふー」


吐けた息は細い。細い息は、まだ不安の近くにいる。


部屋の隅で、父が何かを静かに動かしていた。

木が触れ合う小さな音。布が擦れる音。

火を使わない灯りの箱――父が作った、あの小さな箱の音だった。


父は灯りの箱を、布団から少し離れた場所に置いた。

置く音は丸い。丸い音は刺さらない。


父が短く言う。


「……今夜は、近い」


近い。

何が、とは言わない。言わなくても分かってしまう。


“見られている”感じ。

空の上のどこかから、私が小さな点として数えられている感じ。


喉の奥が冷たくなる。

冷たくなると息が浅くなる。浅い息は、怖さを全部にする。


吐こうとした。


「……ふ、」


途中で切れかける。


父がすぐに言った。


「……息、先」


父が先に吐く。


「ふー」


私は必死に合わせる。


「……ふー」


出た。

出た息が、胸の奥の冷たさを少しだけほどく。ほどけても、全部はほどけない。全部がほどけないなら、まだここにいられる。


父は灯りの箱の小さな蓋を開けた。

中から淡い光がにじむ。


炎じゃない光。炎じゃないから刺さらない。


箱の内側には薄い紙が立ててあり、紙の手前に小さな板が置いてある。

父が手を少し動かすと、光が遮られて影が揺れた。


影が揺れると、視線がほどける。

“見られている”感じが薄くなる。


今までなら、それで十分だった。


……今夜は、十分じゃない。


窓の外の星が、ひとつ、ひとつではなく、“目”の形でこちらを見ている気がした。

目は冷たい。冷たい目は、私を動けなくする。


体が硬くなる。

硬くなると息が止まる。止まると怖さが全部になる。


父は影を揺らし続けた。


ゆらり。ゆらり。

近い揺れ。刺さらない揺れ。


それでも、冷たい目は消えない。


頭の中に、短い言葉が落ちてくる。


――観ている。

――測っている。

――足りない。

――まだだ。


短い言葉は石みたいに落ちる。

落ちると、胸の奥がきゅっと縮む。縮むと、息が浅くなる。


また吐こうとした。


「……ふ、」


切れる。


父の声が落ちた。


「……大丈夫」


大丈夫。

それは私の木札に刻まれている言葉。父が言うと、胸の内側に“置き場所”ができる。置き場所があるなら、私は落ちない。


父は影の揺れを一度だけ止めた。

止めると、冷たい目がいっそうはっきりする。


喉の奥がひゅっと鳴る。


父は私を見た。

見ているのに押してこない目。押してこない目は、私を物みたいに扱わない。


父が短く言う。


「……見なくていい」


見なくていい。

その言葉は、私の目を守る言葉だ。


私は目を閉じた。

閉じても冷たい目は残る。残るのは、目が外じゃなく、私の中へ入りかけているからだ。


父が続ける。


「……影を、動かす」


いつもの言い方。

でも今夜は、続きが違った。


父は灯りの箱を、私の近くへゆっくり滑らせた。

布団の端に触れないところで止める。止めると境界が守られる。


父が言う。


「……お前が、動かせ」


私が。

その言葉で胸の奥がきゅっとなる。失敗すると、冷たい目が笑う気がした。


私は指先を布団の上に出した。

指先が少し震えている。


震えは怖さの証拠。

でも震えている指先は、まだ動ける指先だ。


父は無理に手を取らない。

取らない代わりに、やることを小さくする。


父が箱のふちを、指で軽く叩いた。


「……ここを、少し」


少し。

少しなら、持てる。


父は私の胸元を指さす。


「……持て。握りしめない」


私は木札に触れた。木の温度。落ちないくらいの重さ。

そこにある言葉。


だいじょうぶ。


息を吐く。


「……ふー」


吐けたなら、指先を動かせる。


私は箱のふちに、指をそっと置いた。

置くとき、強い力を入れない。落ちないくらい。


箱は軽い。軽いものは動きすぎる。

動きすぎると音が尖る。尖る音は胸に刺さる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


そして、ほんの少しだけ箱を押した。


影が、ずれた。

ゆらり、ではなく、少しだけ“ずれる”。


ずれる影は、私の影だ。

父の影ではない。私が動かしたから、私の影になる。


……なのに、冷たい目はまだ近い。


頭の中に落ちる。


――まだ。

――弱い。

――もっと。


もっと、は重い。

重い言葉は胸を押す。押されると息が切れる。


指先が硬くなる。

硬くなると握ってしまう。握ると動きが乱れる。乱れると音が尖る。


父が短く言った。


「……力、抜け」


抜け。

石みたいに落ちて、体が思い出す。


私は指の力を抜いた。

落ちないくらいに戻す。


そして息。


「……ふー」


父は箱の中を少しだけ整えた。

紙の角をほんの少し曲げる。曲げると影の形が変わる。


父が言う。


「……揺れは、遅く」


遅く。

遅いと追い越されない。追い越されないと、息を保てる。


私は箱を、ほんの少し右へ。

止める。

少し左へ。

止める。


影が、ゆっくり揺れる。

ゆっくりの揺れは刺さらない。


それでも、冷たい目が残る。


残るのは、揺れだけでは足りないからだ。

見られている気持ちは、薄めるだけでは中心に残る。


中心に残るなら、そこに何か置かないといけない。


私は木札を胸に当てた。

だいじょうぶ。


声にすると糸になりそうだった。

糸になると絡まる。絡まると苦しい。


だから、声じゃなく――形を置く。


私は揺れを止めて、影の形をじっと見た。

見るのは怖い。けれど今夜は、逃げると追いかけられる気がした。


父が言った。


「……目を閉じてもいい。影だけでいい」


影だけ。

影は柔らかい。柔らかいなら触れても痛くない。


私は影だけを見る。

影の端。影の丸み。影の欠け。


欠けているところに、息を通す。

息は私のもの。息が通ると、私は私の場所を作れる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


その息に合わせて、影を“揺らす”のではなく、“撫でる”みたいに動かした。

揺らすと外から揺らされる。撫でると、自分の手がある。


右へ、少し。

止める。

上へ、少し。

止める。


影の形が、私の呼吸の形になる。


呼吸の形になると、冷たい目の中心が少しだけ欠けた。


欠けたところに入ってくる言葉が変わる。


――観ている。

ではなく、

――見えている。


見えている、は冷たくない。

ただの事実だ。事実なら扱える。扱えるなら息が止まらない。


私はもう一度、息を吐いた。


「……ふー」


今度は箱のふちを押すのではなく、指先で軽く“触って離す”を繰り返した。

触って離す。触って離す。


触って離すと、私が決めている感じがする。

決めていると、冷たい目は“測る”をやめて、“見ている”だけになる。


それでも、最後に小さな刺さりが残った。


――足りない。


その言葉は胸の奥に入ろうとする。

入られると、私は“測られる点”になってしまう。


私は箱を止めた。

影も止まる。


止まるのは怖い。

でも止めないと、言葉に引っ張られる。


私は木札を胸に当てた。温度。落ちないくらい。


そして、声を出す代わりに――短い音を置いた。


「……るみ」


自分の短い呼び方。二音。

二音は石だ。落ちる。落ちると輪郭になる。


父の目が少しだけ柔らかくなった。

父は言わずに、頷いた。


私は二音を置いたまま、影の箱をまた少し動かした。

今度は、二音が先にある。二音が先にあると、冷たい目が入ってくる場所が減る。


影が、ゆらり、と揺れる。

揺れは遅い。遅い揺れは息と同じ速さだ。


私は息を吐く。


「……ふー」


胸の奥の冷えがほどけた。

ほどけるのに、全部はほどけない。ほどけきらないから、私はここに留まれる。


父がようやく短く言った。


「……よし」


終わりの形じゃない。

“戻れた”の形の「よし」だった。


父は影の箱の蓋を閉じた。

光が小さくなる。小さくなる光は刺さらない。


父は布団の端を整え、布の影をもう一段だけ深くした。

深い影は外の光を薄くする。薄い光は眠りの形になる。


父が言う。


「……眠れ」


命令じゃなく、道案内みたいな言い方。


私は息を吐いた。


「……ふー」


目を閉じる。

冷たい目はまだ遠くにいる。でも遠い。遠いなら追ってこない。追ってこないなら、眠れる。


眠りに落ちる前に、父が台所の隅の壁へ歩く音がした。

小さな板が揺れる音。名前の木札の音。


父が一度だけ呼吸を置く気配。


「ルミシア」


私は目を閉じたまま、二音を返した。


「……るみ」


父の短い声が落ちる。


「よし」


その「よし」が、胸の奥の糸を最後にもう一度だけ結び直す。

結び直されると、私は“見られる点”ではなく、“戻れる私”でいられる。


私は最後に、もう一度だけ息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、影の撫で方の手触りを胸に残して、夜の冷たさを刺さらない薄さに変えてくれた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ