第35話 星が近い夜、観測の目と影の箱
夜の匂いは、昼より正直だ。
火鉢の赤い匂いが小さくなって、代わりに布と木の匂いがはっきりする。
家の中の音も、昼より少ない。少ない音は形が分かりやすい。形が分かりやすいと、私は胸の奥で息を落とさずにいられる。
それなのに、今夜は違った。
静かすぎると、遠いものが近づく。
遠いはずの星の光が、窓の外から“近い光”として刺さってくる気がした。
私は布団の上で、両手をお腹の上に置いた。
落ちないくらいの重さで、自分の体を確かめるために。
息を吐く。
「……ふー」
吐けた息は細い。細い息は、まだ不安の近くにいる。
部屋の隅で、父が何かを静かに動かしていた。
木が触れ合う小さな音。布が擦れる音。
火を使わない灯りの箱――父が作った、あの小さな箱の音だった。
父は灯りの箱を、布団から少し離れた場所に置いた。
置く音は丸い。丸い音は刺さらない。
父が短く言う。
「……今夜は、近い」
近い。
何が、とは言わない。言わなくても分かってしまう。
“見られている”感じ。
空の上のどこかから、私が小さな点として数えられている感じ。
喉の奥が冷たくなる。
冷たくなると息が浅くなる。浅い息は、怖さを全部にする。
吐こうとした。
「……ふ、」
途中で切れかける。
父がすぐに言った。
「……息、先」
父が先に吐く。
「ふー」
私は必死に合わせる。
「……ふー」
出た。
出た息が、胸の奥の冷たさを少しだけほどく。ほどけても、全部はほどけない。全部がほどけないなら、まだここにいられる。
父は灯りの箱の小さな蓋を開けた。
中から淡い光がにじむ。
炎じゃない光。炎じゃないから刺さらない。
箱の内側には薄い紙が立ててあり、紙の手前に小さな板が置いてある。
父が手を少し動かすと、光が遮られて影が揺れた。
影が揺れると、視線がほどける。
“見られている”感じが薄くなる。
今までなら、それで十分だった。
……今夜は、十分じゃない。
窓の外の星が、ひとつ、ひとつではなく、“目”の形でこちらを見ている気がした。
目は冷たい。冷たい目は、私を動けなくする。
体が硬くなる。
硬くなると息が止まる。止まると怖さが全部になる。
父は影を揺らし続けた。
ゆらり。ゆらり。
近い揺れ。刺さらない揺れ。
それでも、冷たい目は消えない。
頭の中に、短い言葉が落ちてくる。
――観ている。
――測っている。
――足りない。
――まだだ。
短い言葉は石みたいに落ちる。
落ちると、胸の奥がきゅっと縮む。縮むと、息が浅くなる。
また吐こうとした。
「……ふ、」
切れる。
父の声が落ちた。
「……大丈夫」
大丈夫。
それは私の木札に刻まれている言葉。父が言うと、胸の内側に“置き場所”ができる。置き場所があるなら、私は落ちない。
父は影の揺れを一度だけ止めた。
止めると、冷たい目がいっそうはっきりする。
喉の奥がひゅっと鳴る。
父は私を見た。
見ているのに押してこない目。押してこない目は、私を物みたいに扱わない。
父が短く言う。
「……見なくていい」
見なくていい。
その言葉は、私の目を守る言葉だ。
私は目を閉じた。
閉じても冷たい目は残る。残るのは、目が外じゃなく、私の中へ入りかけているからだ。
父が続ける。
「……影を、動かす」
いつもの言い方。
でも今夜は、続きが違った。
父は灯りの箱を、私の近くへゆっくり滑らせた。
布団の端に触れないところで止める。止めると境界が守られる。
父が言う。
「……お前が、動かせ」
私が。
その言葉で胸の奥がきゅっとなる。失敗すると、冷たい目が笑う気がした。
私は指先を布団の上に出した。
指先が少し震えている。
震えは怖さの証拠。
でも震えている指先は、まだ動ける指先だ。
父は無理に手を取らない。
取らない代わりに、やることを小さくする。
父が箱のふちを、指で軽く叩いた。
「……ここを、少し」
少し。
少しなら、持てる。
父は私の胸元を指さす。
「……持て。握りしめない」
私は木札に触れた。木の温度。落ちないくらいの重さ。
そこにある言葉。
だいじょうぶ。
息を吐く。
「……ふー」
吐けたなら、指先を動かせる。
私は箱のふちに、指をそっと置いた。
置くとき、強い力を入れない。落ちないくらい。
箱は軽い。軽いものは動きすぎる。
動きすぎると音が尖る。尖る音は胸に刺さる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
そして、ほんの少しだけ箱を押した。
影が、ずれた。
ゆらり、ではなく、少しだけ“ずれる”。
ずれる影は、私の影だ。
父の影ではない。私が動かしたから、私の影になる。
……なのに、冷たい目はまだ近い。
頭の中に落ちる。
――まだ。
――弱い。
――もっと。
もっと、は重い。
重い言葉は胸を押す。押されると息が切れる。
指先が硬くなる。
硬くなると握ってしまう。握ると動きが乱れる。乱れると音が尖る。
父が短く言った。
「……力、抜け」
抜け。
石みたいに落ちて、体が思い出す。
私は指の力を抜いた。
落ちないくらいに戻す。
そして息。
「……ふー」
父は箱の中を少しだけ整えた。
紙の角をほんの少し曲げる。曲げると影の形が変わる。
父が言う。
「……揺れは、遅く」
遅く。
遅いと追い越されない。追い越されないと、息を保てる。
私は箱を、ほんの少し右へ。
止める。
少し左へ。
止める。
影が、ゆっくり揺れる。
ゆっくりの揺れは刺さらない。
それでも、冷たい目が残る。
残るのは、揺れだけでは足りないからだ。
見られている気持ちは、薄めるだけでは中心に残る。
中心に残るなら、そこに何か置かないといけない。
私は木札を胸に当てた。
だいじょうぶ。
声にすると糸になりそうだった。
糸になると絡まる。絡まると苦しい。
だから、声じゃなく――形を置く。
私は揺れを止めて、影の形をじっと見た。
見るのは怖い。けれど今夜は、逃げると追いかけられる気がした。
父が言った。
「……目を閉じてもいい。影だけでいい」
影だけ。
影は柔らかい。柔らかいなら触れても痛くない。
私は影だけを見る。
影の端。影の丸み。影の欠け。
欠けているところに、息を通す。
息は私のもの。息が通ると、私は私の場所を作れる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
その息に合わせて、影を“揺らす”のではなく、“撫でる”みたいに動かした。
揺らすと外から揺らされる。撫でると、自分の手がある。
右へ、少し。
止める。
上へ、少し。
止める。
影の形が、私の呼吸の形になる。
呼吸の形になると、冷たい目の中心が少しだけ欠けた。
欠けたところに入ってくる言葉が変わる。
――観ている。
ではなく、
――見えている。
見えている、は冷たくない。
ただの事実だ。事実なら扱える。扱えるなら息が止まらない。
私はもう一度、息を吐いた。
「……ふー」
今度は箱のふちを押すのではなく、指先で軽く“触って離す”を繰り返した。
触って離す。触って離す。
触って離すと、私が決めている感じがする。
決めていると、冷たい目は“測る”をやめて、“見ている”だけになる。
それでも、最後に小さな刺さりが残った。
――足りない。
その言葉は胸の奥に入ろうとする。
入られると、私は“測られる点”になってしまう。
私は箱を止めた。
影も止まる。
止まるのは怖い。
でも止めないと、言葉に引っ張られる。
私は木札を胸に当てた。温度。落ちないくらい。
そして、声を出す代わりに――短い音を置いた。
「……るみ」
自分の短い呼び方。二音。
二音は石だ。落ちる。落ちると輪郭になる。
父の目が少しだけ柔らかくなった。
父は言わずに、頷いた。
私は二音を置いたまま、影の箱をまた少し動かした。
今度は、二音が先にある。二音が先にあると、冷たい目が入ってくる場所が減る。
影が、ゆらり、と揺れる。
揺れは遅い。遅い揺れは息と同じ速さだ。
私は息を吐く。
「……ふー」
胸の奥の冷えがほどけた。
ほどけるのに、全部はほどけない。ほどけきらないから、私はここに留まれる。
父がようやく短く言った。
「……よし」
終わりの形じゃない。
“戻れた”の形の「よし」だった。
父は影の箱の蓋を閉じた。
光が小さくなる。小さくなる光は刺さらない。
父は布団の端を整え、布の影をもう一段だけ深くした。
深い影は外の光を薄くする。薄い光は眠りの形になる。
父が言う。
「……眠れ」
命令じゃなく、道案内みたいな言い方。
私は息を吐いた。
「……ふー」
目を閉じる。
冷たい目はまだ遠くにいる。でも遠い。遠いなら追ってこない。追ってこないなら、眠れる。
眠りに落ちる前に、父が台所の隅の壁へ歩く音がした。
小さな板が揺れる音。名前の木札の音。
父が一度だけ呼吸を置く気配。
「ルミシア」
私は目を閉じたまま、二音を返した。
「……るみ」
父の短い声が落ちる。
「よし」
その「よし」が、胸の奥の糸を最後にもう一度だけ結び直す。
結び直されると、私は“見られる点”ではなく、“戻れる私”でいられる。
私は最後に、もう一度だけ息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、影の撫で方の手触りを胸に残して、夜の冷たさを刺さらない薄さに変えてくれた。
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