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第34話 言い直す声、父ではなく「お父さん」

朝の匂いが、少しだけ違っていた。


火鉢の赤は同じ匂いなのに、そこへ混ざる紙の匂い。

布の匂い。薬草の匂い。

役所の棚みたいな乾いた匂いが、まだ家の隅に残っている。


残っている匂いは悪くない。

ただ、「外」を思い出させる。外を思い出すと、胸の奥の糸が少しだけ緩む。


私は椅子の上で息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、緩んだ糸を結び直してくれる。

ほどけきらないように。落ちないくらいで。


父も鍋の前で同じように吐いた。


「ふー」


湯気がゆらり、と揺れる。

近い揺れ。刺さらない揺れ。


父が短く言う。


「よし」


その「よし」で朝の形が閉じる。

閉じれば、次のことが来ても受け止める場所ができる。


父は棚の上の包みを確認した。

布。薬草。針糸。

ひとつずつ、言葉にしないで指で整える。整える動きは、声より静かで、声より確かだ。


私は胸元の紐に触れた。

小さな木片――言葉の木札。


だいじょうぶ。


握りしめたくなって、指の力を抜く。

落ちないくらい。落ちないくらいで持つと、痛くない。


そのとき、戸口の方から音がした。


こつ、こつ。


足音はひとつ。

ひとつの足音は、まだ“数”にならない。けれど、扉の前で息を整える気配が少し硬い。


父が戸口へ向かった。

歩く音が急がない。急がない音は、私の胸を忙しくしない。


父は扉を大きく開けない。

布の壁の結び目を確かめ、隙間だけを作る。


線のまま、声を落とした。


「……用件は」


外から若い声が返ってきた。丁寧で、少し緊張している。


「失礼いたします。役所の者です。お渡しし忘れが……」


役所。

その言葉が落ちただけで胸の奥が少し狭くなる。


狭くなる前に、息。


「……ふー」


父が短く言う。


「……ここまで。中には入らない」


「はい。承知しました」


隙間の向こうに影が見えた。帽子の影。紙の束の影。

影が尖っていないなら、怖くない。


父は隙間を広げず、手だけを差し出した。

外の人が紙の束を持ち上げる。紙が擦れる乾いた音。乾いた音は、ときどき刺さる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


外の人が声をさらに丁寧にした。

丁寧すぎる声は、重い。


「勇者様に――」


その言葉が出た瞬間、空気が変わった。


匂いが固くなる。

音が少し尖る。

布の薄さが、薄いままでは足りなくなる。


胸の奥がひゅっと冷える。

冷えると息が浅くなる。浅い息は怖さを全部にする。


吐こうとした。


「……ふ、」


途中で切れかけた。


その瞬間、父の声が落ちた。

低く、短く、揺れない声。


「……呼び方を直せ」


怒鳴ってはいない。

でも、はっきりしている。はっきりした声は、剣みたいに空気を切る。切って、必要な形だけ残す。


外の人が一拍、黙った。


「……失礼しました。フェ、フェルディア様に――」


父の声がすぐに重なる。


「……様はいらない」


外の人が息を飲む気配。紙が少し震えた。

紙の震えは、気持ちの震えだ。


父はそこで声を少しだけ柔らかくした。柔らかくしても、線は曲げない。


「……私は父だ。用件だけ言え」


父。生活の言葉。

肩に乗りかけた重いものが、床に落ちる感じがした。


外の人は、ようやく言い方を見つけたみたいに小さく言い直した。


「……お父さんに。こちら、受領の紙です。あと、包みに入れ忘れた糸が一本あります」


お父さん。

その呼び方は胸に優しい。優しいのに境界も作る。英雄の形じゃない。家の形だ。


父が短く言う。


「……よし」


場が整った「よし」。

整うと、私の息が戻る。


私は息を吐いた。


「……ふー」


外の人は紙と小さな糸巻きを差し出した。

父は受け取って、隙間をこれ以上広げないまま言う。


「……帰れ」


外の人が慌てて頭を下げる気配。


「はい。失礼しました。……あの、ひとつだけ」


ひとつだけ。

悪くない言い方。でも“ひとつだけ”は、ときどき増える。


父は線の声のまま返す。


「……何だ」


外の人が言った。


「確認です。お父さんと……その、お子さんは……お元気で」


お子さん。

言い方はまだ軽い。軽いなら刺さらない。


父は短く答えた。


「……元気だ」


それだけ。


外の人が、ほっとした息を吐く。


「……よかった。では失礼します」


足音が遠ざかる。ばらける音。

ばらける音は押し込まれない。


父は扉を閉め、二重の布の壁を整えた。

結び目を指で確かめる。不格好でもほどけない結び目。


父が短く言う。


「よし」


台所へ戻ると、紙の束が机の上に置かれた。

紙は白い。白は光を返す。光を返すと、目が忙しくなる。


父は紙の上に、もう一枚布を置いた。

布が光を薄くする。薄い光は刺さらない。


父は必要なところだけに小さく印を入れ、紙を畳む。

小さい印は重くない。


私はその動きを見ながら、胸の奥の冷えが少しずつ溶けるのを感じた。

溶けても、残るものがある。


呼び方。

呼び方ひとつで空気が変わること。


私は木札に触れ、息を吐いた。


「……ふー」


父が紙から顔を上げないまま言った。


「……さっきのは、重い」


重い。難しい言い方じゃないのに、胸には分かる。


私は小さく答えた。


「……うん」


うん、は短い石だ。落ちる。落ちると返事になる。


父は続ける。


「……重い呼び方は、家に入れるな」


人を追い払うためじゃない。家の形を守るための言葉だ。


私は聞いた。


「……どうして」


どうして、は少し長い。

でも今日は言えた。息が通っているからだ。


父は畳んだ紙を布の下へ滑らせてから言った。


「……呼び方で、人は役目になる」


役目。肩に乗る言葉。

乗ると、動きが固くなる。


父は私を見て、ゆっくり言う。


「……私は、父の役目で足りる」


足りる。

足りる、は強い。余計なものを背負わない強さだ。


胸の奥が少し温かくなる。温かいのに忙しくならない。

忙しくならないのは、父の言葉が小さいから。


その温かさの中で、怖さも少し動いた。


「……でも、外は」


外の言葉は勝手に来る。勝手に来る言葉は止められない。


父が頷く。


「……外は外だ」


短い。短いから刺さらない。


「……だから、直す」


直す。

剣を抜かない代わりに、直す。声で。間合いで。境界で。


父は戸口の方を一度だけ見た。布の壁。結び目。家の形。


「……呼び方を直すと、空気が直る」


空気は触れない。

でも直ると言われると、触れる気がする。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父が言った。


「……お前は、どう呼ばれたい」


問いは重い。重いけれど押し付けない。

選べる形で渡してくる。


私は短い石でいい。


「……るみ」


自分の短い呼び方。

それだけで十分だと思った。


父が頷く。


「……よし」


その「よし」は、私の選び方を守る「よし」だった。


父は台所の隅の壁へ歩いた。

名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。


「ルミシア」


私は木札を見上げ、二音を返した。


「……るみ」


父が頷く。


「よし」


二音が落ちると胸の奥の糸がきゅっと結び直される。

さっきの重い呼び方が、遠い場所へ戻る。


……でも、外は外だ。外の言葉は、また来る。


そう思ったとき、また戸口の方で音がした。


こつ、こつ。


今度は足音が二つ。

ひとつは重い。もうひとつは軽い。


軽いのは子ども――ミーナの足音だ。


父が戸口へ向かう。

扉は大きく開けない。線のまま、声を落とす。


「……ここまで」


外でミーナの声が小さく弾む。


「うん! あのね、お父さん! これ!」


お父さん。

ミーナがちゃんと言えるようになっている。それだけで胸が少し温かい。


そして、もう一つの重い声――男の声が混ざった。


「……失礼。お、お父さん、で……よろしいか」


確認してくるのは、線を踏まないためだ。踏まないなら怖くない。


父は短く答えた。


「……それでいい」


外の男が少し息を吐く。


「……町の巡回だ。近くで、見物が増えそうだと聞いた。騒ぎにならないように……」


騒ぎ。

その言葉が胸をきゅっとさせた。


私は息を吐いた。


「……ふー」


父の声が落ちる。


「……騒ぎにしない。ここは家だ」


家だ。

強いのに、剣が要らない。


巡回の男が言う。


「……わかった。こちらも声をかける。あの、呼び方は……その……」


言いにくそうにしている。言いにくい言葉は変な形になる。変な形は刺さる。


父が先に言った。


「……父でいい」


男がすぐに言い直す。


「……父。了解した」


短い。短く言えるのは受け止めているからだ。


ミーナが私に向けて小さく言った。


「るみ、これ……」


隙間から小さな板が見えた。ミーナの木札。

角が丸い。紐の結び目が不格好で、ほどけなさそう。


ミーナが続ける。


「わたしね、花の印、できた。……るみの星も、かわいい」


かわいい。軽い言葉。軽いなら刺さらない。

息の上に乗る言葉だ。


私は木札に触れて息を吐いた。


「……ふー」


そして短い石を置く。


「……ありがと」


ミーナが嬉しそうに息を吐く。


「ふー!」


大きくしそうになって、すぐに口を押さえる。


「……ちいさく、だね」


自分で直す。直せるミーナは強い。


巡回の男が少しだけ笑った気配。


「……子どもに教わるな。……父、頼む」


父は頷く。


「……頼まれない。自分でやる」


借りを作らない言い方。父らしい。


巡回の男が、また一息吐いて言った。


「……了解。では失礼する」


足音が遠ざかる。

ミーナは最後に小さく言った。


「お父さん、ありがと。……るみも」


ありがとう、は温かい。

でも父が大きくしないから、私は忙しくならない。


扉が閉じる。布の壁が整えられる。結び目が確かめられる。


父が短く言う。


「よし」


台所へ戻ると、胸の奥の冷えがほとんど消えていることに気づいた。

呼び方が直ると、空気が直る。本当にそうだ。


私は小さく言った。


「……お父さん」


父が一瞬だけ目を上げる。驚かない。

でも、少しだけ柔らかくなる。


「……何だ」


私は息を吐いた。


「……ふー」


それから、もうひとつだけ石を置いた。


「……さっき、たすかった」


助かった。大きい言葉になりそうで、でも今日は落ちた。

落ちたのは、息が通っているからだ。


父が頷いて、いつもの「よし」より少しだけゆっくり言った。


「……よし」


その「よし」には、呼び方を直す強さと、父でいる優しさが一緒に入っていた。


私は木札を指でなぞった。

だいじょうぶ。


今日はそれが、胸の中だけじゃなく、戸口の外にも置けた気がした。


私は最後にもう一度、息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、家の薄い光をもう一段だけ薄くして、私の輪郭を刺さらない形で静かに結び直してくれた。

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