第33話 広い道、役所前の人だかり
朝の匂いは、家の形をしていた。
火鉢の赤い匂い。
湯気がほどける匂い。
木の匙が器に触れる乾いた音。
布が光を薄くして、音を丸くしてくれる――その薄さ。
薄いままの世界は、私の胸の奥の糸をほどけきらせない。
ほどけきらないなら、私は私のまま座っていられる。
私は椅子の上で息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、胸の内側を一度だけなでていく。
それだけで今日の朝は、「始めてもいい形」になる。
父も鍋の前で口をすぼめ、同じように吐いた。
「ふー」
湯気がゆらり、と揺れる。
近い揺れ。刺さらない揺れ。
父が短く言う。
「よし」
その「よし」が落ちると朝が閉じる。
閉じると、次のことを考えられる。次を考えるには、先に今を終わらせないといけない。
父は片づけを終え、台所の隅の壁へ歩いた。
紐で吊られた小さな板――名前の木札。父はその前で、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は木札を見上げ、二音を返した。
「……るみ」
父が頷く。
「よし」
その二音が落ちた場所は、今日もここだ。
ここに落ちたなら、外がどんな形でも戻れる。
父は棚から小さな袋を取り出し、掌の上で重さを確かめた。
口をきゅっと結び、腰のあたりへ通す。結び目は不格好でもほどけない。
父が言った。
「……役所へ行く」
役所。
その言葉だけで胸の奥が少し狭くなる。役所は声がある。足音がある。視線がある。数が増える場所。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は私の「ふー」を待ったみたいに続ける。
「……用件は短い。受け取るだけ」
受け取るだけ。
だけ、という言葉には終わりがある。終わりがあるなら落ちない。
父は薄い布を一枚取り出し、私の肩にそっとかけた。
影が濃くなると光が薄くなる。薄い光は刺さらない。
父が短く言う。
「……敷居まで。外は、半歩いらない」
敷居まで。線がある。
線があるなら、息を守れる。
私は頷いた。頷きは言葉より軽い。軽いものは絡まらない。
それでも胸の奥はざわついていた。
怖い、と、やってみたい、が混ざっているざわつきだ。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は私の胸元を指さした。
小さな木片――言葉の木札。
だいじょうぶ。
「……持て。握りしめない。落ちないくらい」
落ちないくらい。指の力を整える言葉だ。
私は木札に指を添えた。強くない。落ちないくらい。
父は戸口の布の壁を二重にし、結び目を確かめる。
そして扉をほんの少しだけ開けた。外の匂いが細い線になって入ってくる。
土。
風。
乾いた木。
遠いところのパンの匂い。
匂いは好きだ。
でも匂いに音が付くと、私は忙しくなる。
父が先に吐いた。
「ふー」
私は合わせた。
「……ふー」
息が重なると、戸口の余白が少し薄くなる。
薄い余白なら、指先で触れても痛くない。
私は敷居の手前に立った。足は布の上のまま。
外へは出ない。出ないから胸が落ちない。
父が外へ出る。
出るけれど急がない。急がないのに迷いがない。
父は少し離れたところで立ち止まり、私を振り返った。
柔らかい視線。――線が守れているかの確認。
私は木札を胸に当て、息を吐いた。
「……ふー」
父が頷く。
「よし」
それで私は一歩だけ、敷居の手前の世界を“見る”ことにした。
空の色。道の広さ。朝の人の気配。
父は役所へ向かって歩き出す。
私は敷居の手前に残り、背中を見送った。
……本当は、それで十分なはずだった。
でも背中が少し遠くなると胸の奥がきゅっとなる。
遠くなると線が薄くなる気がした。薄くなると余白が入ってくる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、足を布の上に留める。留めると線が戻る。
父が一度だけ振り返り、短く言った。
「……来るか」
来るか。
押さない。引っ張らない。ただ、道を見せる言葉。
私は喉の奥で長い言葉を探さない。
短い石だけを置く。
「……いく」
父が頷く。
「……父の後ろ。半歩だけ」
半歩だけ。段階がある。段階があるなら落ちない。
私は布の影を深くして、敷居を越えた。
越えたのは半歩だけ。足の裏が土に触れる。冷たさ。粒。
それだけで胸が少し忙しくなる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父の背中が近い。背中は戻り道の形をしている。
背中があるなら、余白が入ってきても戻れる。
父は歩く速さを私に合わせた。合わせるのに急がない。
急がないから追い越されない。
道は広い。広い道は余白が多い。余白が多いと怖い。
父は広い道の端を歩く。端を歩くと余白が半分になる。
役所は町の中心寄りにある。建物の前は少し広く、掲示板や柱が並び、人が立ち止まりやすい。
立ち止まりやすい場所は声が溜まる。
父は近づく前に立ち止まった。
止まると世界が一拍だけ落ち着く。
「……息」
父が先に吐く。
「ふー」
私も吐く。
「……ふー」
吐けた息が胸の奥を通ったとき、私は初めて“音”を聞いた。
人の声。
靴の音。
布の擦れる音。
笑い声。
小さな怒鳴り声。
……多い。
胸が狭くなる。狭くなると息が浅くなる。
浅い息は怖さを全部にする。
私は木札を胸に当てた。木の温度。
「だいじょうぶ」の線。
私は先に吐いた。
「……ふー」
父が短く言う。
「……ここで待て」
ここで待て。線が置かれる。
線が置かれたなら、私は立てる。
父は一人で入口へ向かう――はずだった。
でも入口の前に、人が集まっていた。
そして、その視線が“ある一点”に揃っている。
揃っている視線は刺さる。
誰かが声を上げた。
「あっ、あの人……!」
別の声が重なる。
「本当だ……」
「まさか、今ここに……」
「おい、見ろ……」
言葉が増える。増えると言葉は数になる。
数になると胸の余白が膨らむ。
私は息が浅くなるのを感じた。
吐こうとした。
「……ふ、」
切れそうになった。切れそうになると冷たさが刺さる。
その瞬間、父の声が落ちた。
低く、短く、揺れない声。
「……止まれ」
誰に言ったのか分からない。
でも声は“場”に落ちる。落ちると場が止まる。
ざわめきが一拍だけ薄くなった。
父は入口の前で止まり、役所の壁際へ寄った。
中心へ入らない。端に寄る。端に寄ると視線の矢が少し外れる。
役所の中から職員が出てきて、父に近づこうとした。
職員の目も、少しだけ光っている。期待の目だ。
職員が口を開く。
「……えっと、あ、あなたは……」
言い方が重い。重い言い方は肩に乗ってくる。
乗ってくると空気が固くなる。
父が先に言った。
「……用件だけ。物を受け取る」
短い。短い言葉は期待を膨らませない。
職員は一瞬、言葉を飲み込んでから、声を整える。
「……受け取りですね。こちらへ……」
そのとき背後から、一音だけ刺さった。
「勇――」
一音でも空気が変わる。
空気が変わると胸がきゅっと縮む。
父は振り返らない。振り返らないのに、声だけで線を引いた。
「……私は父だ」
父。生活の呼び方。
肩に乗りかけたものを床へ落とす言葉。
「……呼び方はそれでいい」
それは命令でも怒りでもない。
“ここは生活の場だ”という確認。
ざわめきが、また一拍だけ薄くなる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が胸の奥の糸を結び直す。
父は職員へ向き直り、正面の入口ではなく、壁際の小さな窓口を指さした。
端の窓口。端は押されにくい。
職員は頷き、父をそこへ案内する。案内といっても手を伸ばすだけ。触れない。
触れないのは父の線だ。
父が窓口で袋の紐をほどき、紙を出す。
紙の音。生活の音。生活の音は刺さらない。
私は少し離れた場所で立ち尽くしながら、木札を胸に当て続けた。
「だいじょうぶ」を繰り返すと言葉が糸になる。だから繰り返さない。
代わりに息を吐く。
「……ふー」
人だかりは父を見ている。
父の顔ではなく、“何か”を見ている。形のない何か。扱えないもの。
扱えないものが増えると、私は落ちる。
私はもう一度、息を吐いた。
「……ふー」
窓口の職員が、紙を見ながら言った。
「……布と、薬草と、針糸ですね」
針糸。生活の単語。
生活の単語が出ると、空気が少し柔らかくなる。
職員が棚から包みを出す。包みは布で巻かれている。
布が布を連れてくる。薄さが増える。
父は包みを受け取り、胸の前で一度だけ重さを確かめた。
落ち着いた動きは周りも落ち着かせる。
……そのはずだった。
背後の人だかりが、またざわっと動いた。
ざわっとした動きは波だ。波は一気に余白を増やす。
誰かが言う。
「本当に……」
「聞いてもいいのか……」
「今なら……」
今なら、という言葉が怖い。今なら、には圧がある。
圧は押す。押されると息が切れる。
私は木札を胸に当て、必死に息を吐いた。
「……ふー」
父は包みを抱えたまま、群れに向き直らない。
向き直らないのに、声だけを落とす。
「……退け」
短い。短いけれど硬い。
硬い言葉は、剣の代わりになる。
人が一歩、下がった。下がると距離ができる。
距離は空気を薄くする。
父が、私の方へ視線を寄せた。
合図。――帰る。
私は足の裏が冷たくなるのを感じた。帰るは安心。
でもその前に、視線が私へ向きかけた。
「……あの子……」
「子どもが……」
子ども。生活の呼び方のはずなのに、今日は違う匂いが混ざっている。
“見る理由”の匂い。理由は物語になる。
胸の奥がひゅっと冷える。息が浅くなる。
吐こうとした。
「……ふ、」
切れた。切れた瞬間、耳が遠くなる。
声が増えているのに意味が消える。意味が消えると“数”だけが残る。
数だけが残ると、私は落ちる。
落ちる前に、父の声が近くに来た。
父が私の横に戻ってきていた。
戻るのが速い。速いのに急がない。急がない速さ。
父は肩に触れない。触れない代わりに、父の影が私の影に重なる位置へ立つ。
影が重なると世界が小さくなる。
父が言った。
「……息」
父が先に吐く。
「ふー」
私は必死に合わせた。
「……ふー」
出た。
出た息が、耳の遠さを少し戻す。戻ると、足の裏の冷たさが“冷たい”として分かる。
分かるなら、まだ持てる。
父が短く言う。
「……帰る」
帰る。終わりが置かれる。
終わりが置かれたなら道を選べる。
父は包みを抱え、私の半歩前に立って歩き出した。
人だかりは動こうとしたが、父は間合いだけで止めた。剣は抜かない。抜かない代わりに近づけない距離を作る。
誰かがまた口を開きかけた。
「――」
父は振り返らずに言った。
「……用件は終わり」
終わり。終わりは石だ。石が落ちると道ができる。
道ができると、人はその道を踏みにくい。
私たちは役所前の広場を離れた。離れると声が少しずつ薄くなる。
薄くなると息が深くなる。
私は胸元の木札を指でなぞった。木の温度はまだある。
温度があると、自分の輪郭を触れる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が歩く速さを少し落とした。落とすと私の足が追いつく。
追いつけると胸が落ち着く。
道の端を歩く。端を歩くと余白が減る。
余白が減ると怖さが薄まる。
でも完全には消えない。
消えない怖さは、胸の奥に小さな石みたいに残る。
私はその石を握りしめそうになって、指の力を抜いた。
落ちないくらい。父が教えた持ち方。
家が見えてきたとき、私はようやく息が少し楽になった。
布の影が見える。影があると光が薄くなる。薄い光は刺さらない。
戸口の前で父は立ち止まった。
扉を大きく開けない。結び目を確かめる。不格好でもほどけない結び目。
「……中へ」
その言葉で足が布の上へ戻る。敷居を跨ぐと足の裏の冷たさが消える。
消えると胸の奥が広がる。
私はすぐに息を吐いた。
「……ふー」
父は扉を閉め、布の壁を整えた。外の声が急に遠くなる。
遠くなると、数が数でなくなる。
父が短く言う。
「よし」
台所へ戻ると、火鉢の赤がまだ息をしていた。
赤い匂い。湯気の白。布の薄さ。家の形。
父は受け取った包みを棚へ置き、ひとつずつ確認した。
布。薬草。針糸。
生活の単語が並ぶと、役所前のざわめきが少し薄くなる。
私は椅子に座って、木札を握りしめそうになって、また力を抜いた。
落ちないくらい。落ちないくらいなら、痛くない。
父は台所の隅の壁へ歩いた。
名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は木札を見上げて、二音を返した。
「……るみ」
父が頷く。
「よし」
その「よし」は、私の中のざわめきを責めない「よし」だった。
怖かった、と言わなくてもいい。言わなくても、帰ってこられたなら、それでいい。
私は最後にもう一度、息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、役所前の広い道を“遠い場所”に戻してくれる。
遠い場所になれば、胸の糸はほどけない。
ほどけないなら、明日もまた、ここに戻ってこられる。
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