第32話 削る音、結び目、そして小さな名前
木の匂いは、安心と怖さを同じ器に入れてしまう。
安心は、家の匂いに近い。火鉢の赤、湯気の白、布の影――胸の奥へ落ちてくる、刺さらない匂い。
怖さは、削る音に似ている。削る音は線だ。線はまっすぐで、ときどき私の中の糸を引っ張る。
朝の匂いが揃ったあと、父は台所の片隅へ小さな敷布を敷いた。
布の上に、薄い木の板を数枚。紐。炭の欠片。小さな刃。丸い小石。紙を一枚。
並べ方に無駄がない。
無駄がないと、物が暴れない。暴れないと、私の胸も忙しくならない。
父は私を見て、短く言った。
「……今日は、作る」
作る。
その言葉は胸の奥を温かくするのに、指先を冷たくする。温かいのは期待。冷たいのは怖さ。期待が膨らむと、怖さは隠れて刺してくる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息のあとなら、言葉を落とせる。
「……なにを」
父は薄い板を一枚持ち上げた。角が丸く、木目がまっすぐで、手の中で軽い。
「……木札」
木札。
今日は省略が許される言い方だった。文脈で通る。通る言葉は余白を増やさない。
そのとき、戸口の方から控えめな足音がした。こつ、こつ。止まる。
布の壁越しに、声が小さく弾む。
「お父さん、いる……?」
ミーナだ。声が小さい。小さい声は生活の声だ。生活の声は刺さらない。
父は戸口を大きく開けない。結び目を指で確かめて、隙間だけを作り、線の声で返した。
「……ここまで。中には入らない」
「うん!」
別の声が重なった。
「きょう、木札つくるって……」
「ぼくも、ほしい……」
「わたしも……」
複数の声。数は怖い。
けれど声が小さければ、数はまだ薄い。薄いなら、息が落ちない。
父は戸口の前の床に細い布を一枚敷いた。敷居の手前で止まる布。止まる布は境界を見せる。
「……列。前に出るのは一人」
「はーい」
返事が揃う。揃うと音が整う。整うと、私の胸の糸はほどけない。
父は続けた。
「……今日は配らない。作り方を見せる。持って帰るのは、自分で作った分だけ」
配らない。
父の言葉は、やさしいのに強い。借りを作らない。借りは重くなる。重くなると、物語の圧になる。
外でミーナが、少しだけ残念そうに息を吐いた。
「ふー……」
それが、すぐに前を向く息に変わる。
「じゃあ、つくる!」
父は短く頷いた。
「……よし」
その「よし」は膨らませない。始まりの形だけを置く。
私は台所の影から、戸口の方と作業の布を交互に見た。見える範囲が小さいと、胸が落ち着く。
父が私へ言った。
「……息、先」
父が吐く。
「ふー」
私も吐く。
「……ふー」
息が通ると、刃が刃のまま置ける。怖さを消さないで、薄いまま置ける。
父は布の上に板を一枚置いた。置く音は布が受けて丸い。丸い音は胸を忙しくしない。
「……角は、丸くする」
父は小さな刃を取り出した。刃は光る。光るものは怖い。
けれど父の刃は、剣の光り方じゃない。小さい光。生活の光。
父は言った。
「……刃は、父が持つ」
外の子どもが一斉に頷く気配。
「うん!」
「はーい!」
父は板の角を、しゃり、しゃり、と削った。音は線。線はまっすぐで、私の胸へ届きかける。
私は息を吐いた。
「……ふー」
吐いた息が、線の尖りを丸くする。
父は削った角を指で撫でて見せる。ささくれがない。刺さらない角。
「……刺さると、怖くなる。怖くなると、息が止まる」
息が止まると、怖さが全部になる。
父の言葉は、いつも“全部”を作らない。
次に父は炭の欠片を手に取った。黒い線。
黒い線は、ときどき遠い星の線に似てしまうことがある。私は指先が冷える。
父は板の上に短く書いた。
――ミーナ
そして、横に小さな花の印。
印があると、読めなくても分かる。分かると、怖さが薄くなる。
外でミーナが、声を大きくしそうになって、慌てて小さくした。
「……わたしの、はな……」
父は頷く。
「……名は、目印だ。目印は、戻る場所になる」
戻る場所。
その言葉が胸に落ちる。私は戻る場所を、毎日、木札と息で作っている。
父は続けた。
「……だが、今日は書かない。書くのは、自分」
自分で。
自分で、は怖い。けれど自分で、は私の指を少しだけ強くする。
父は無地の板を何枚か見せた。
「……練習札。これで角と結び目を覚える」
練習。
練習は失敗していい場所だ。失敗していい場所があると、息が落ちない。
列の先頭の子が、布の線の前へ一人で出た。手は膝。口は閉じる。息だけ。
父が言う。
「……ふー」
子どもが吐く。
「ふー……」
吐けた息のあと、父は子どもの手に無地の板を持たせた。
落ちないくらいで持つよう、指の位置を短い言葉で整える。
「……ここ」
「……強くない」
「……落ちないくらい」
父は刃で角を削る。しゃり、しゃり。
削れた粉は布の上に落ちる。布が受け止める。散らからない。散らからないと、私の胸も散らからない。
次の子。次の子。
父は同じ形を繰り返す。
「……息、先」
「……角は丸く」
「……ささくれは刺さる」
「……よし」
子どもたちは少しずつ落ち着いていく。落ち着くと、声が小さくなる。小さい声は生活に戻る。
――でも、一番むずかしいのは、削ることじゃなかった。
紐を結ぶことだった。
紐は細い。細いものは絡まる。絡まると焦る。焦ると声が尖る。尖る声は私の胸を忙しくする。
列の中ほどで、声が揺れた。
「できない……」
「ほどけた……」
「まって、ちがう!」
数が波になりかける。波は余白を増やす。余白が増えると、息が浅くなる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父の声が落ちる。低く、短く。
「……声は小さく。結び目は、不格好でいい」
不格好でいい。
それは許しの言葉だ。許しがあると、焦りが薄くなる。
父は結び方を見せた。
輪を作る。端を通す。きゅ、と締める。
「……ほどけないのが勝ち」
勝ち。
父は勝ちを膨らませない。勝ちを形にして、そこに置く。形は刺さらない。
子どもたちは真似をする。うまくいかなくても、息を吐いてやり直す。
「ふー……」
「ふー……」
息が重なる。重なる息は、騒ぎを薄くする。
私はその重なりを聞きながら、自分の胸元の紐に触れた。
言葉の木札。小さな木の温度。そこに刻まれた短い言葉。
――だいじょうぶ
木の温度は、息の道を広げる。
父が結び目を教える手を止めずに、私の方へ視線だけを寄せた。合図。
“できるなら、やれ”ではない。
“やってもいい”という合図。
私は喉の奥で言葉を探した。
「やりたい」は温かい。けれど長い。長い言葉は糸になりやすい。糸は絡まる。
私は短い石を置いた。
「……やる」
落ちた。落ちたなら、道になる。
父は頷いた。
「……刃は使わない」
そう言って、私の前に丸い小石を置いた。次に無地の板を一枚。さらに薄い紙を一枚。
「……紙は下。粉を受ける。散らからない」
散らからない。散らからないと、私は忙しくならない。忙しくならなければ、手が動く。
私は板を落ちないくらいで持った。指先が少し震える。震えは怖さの証拠。でも今日は薄い。
息を吐く。
「……ふー」
小石で角を擦った。
こり、こり。削るより遅い。遅いと追い越されない。追い越されないと胸が忙しくならない。
木の粉が紙の上に落ちる。落ちる場所がある。落ちる場所があると安心する。
もう一度。こり、こり。
角が少し丸くなる。丸い角は刺さらない。
父が短く言った。
「……よし」
その「よし」は背中を押さない。指先が止まらないように支えるだけ。
私は板を持ち上げて、角を指で撫でた。ささくれがない。刺さらない。
胸の奥が少し温かくなる。
外でミーナが、小さく息を呑んだ気配がした。
「……るみ、できた……」
“すごい”じゃない。“できた”。
父が置いた言い方が、もう外にある。それが嬉しい。
私は息を吐いた。
「……ふー」
そして、小さく言う。
「……できた」
父が頷く。
「よし」
次は紐。
父は板の端に小さな穴を開けた。割れない。欠けない。父の手はそれを静かにやる。
父は紐を通し、私の前に置いた。置く。置かれると、私は自分の手で選べる。
紐を持つ。細い。細いものは絡まる。絡まる前に息を吐く。
「……ふー」
輪を作る。端を通す。きゅ、と締める。
不格好。
でもほどけない。
ほどけない結び目は、私の胸の糸に似ている。ほどけきらないから、私はここにいられる。
父が言う。
「……勝ちだ」
その言葉は、今日は刺さらなかった。膨らませないからだ。父の勝ちは静かに落ちる。
外では子どもたちの番が続いていた。結び目でつまずく子も、息を吐いてやり直すようになっている。
“ふー”が、遊びではなく形になっている。
ひととおり練習札ができたところで、ミーナが小さく手を挙げた。
「……お父さん。なまえは?」
名前。
重い。重いものは急ぐと刺さる。
父は短く言った。
「……名前は、急がない」
急がない。父の一番強い言葉。急がないと、物語にならない。
父は続けた。
「……名は目印だ。目印は自分で決める。決められないなら、印だけでいい」
印だけ。
それなら、私もできるかもしれない。名は重いけれど、印は形だ。形なら落ちる。
父は炭の欠片を布の上に置いた。子どもたちには渡さない。父が持つ。線が暴れない。
父は紙の端に、簡単な印をいくつか描いた。
花。丸。波。小さな星。
小さな星。
それは遠い星の線とは違った。小さい。丸い。生活の印だ。
私は喉の奥が少し冷えるのを感じた。
でも胸元の木札に触れて、息を吐く。
「……ふー」
父が、私の方を見た。聞かない。押さない。
ただ、置ける余白を残す。
私は自分の練習札を胸の前に持った。名はまだ書けない。
でも印なら置けるかもしれない。
私は炭を取らなかった。代わりに、父が描いた印の紙を指でなぞった。
なぞるだけ。なぞるだけでも形は胸に落ちる。
板の角の近くを指で軽く叩く。ここに印。
言葉にすると長くなるから、指で示す。
父は頷いて、炭で小さな星を一つ、板に置いた。
ぽつ、という黒。
黒が怖くないのは、小さいから。丸いから。生活の印だから。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が言う。
「……これも名前だ」
名前。
名を“言う”のではなく、名が“ここにある”。あるなら戻れる。
外の子どもたちも、自分の印を選び始めた。花、波、丸。
印を置くと、板がただの板ではなくなる。自分のものになる。
自分のものになると、持ち方が優しくなる。落とさない。投げない。抱える。
父が最後に短く言った。
「……今日はここまで。終わり」
終わりの石が落ちる。
石が落ちると列がほどける。ほどける音はばらける音。ばらける音は押し込まれない。
ミーナが戸口の線の前で小さく息を吐いた。
「ふー……」
それが合図になって、子どもたちはそれぞれの練習札を抱えて帰っていった。
嬉しそうなのに騒がない。騒がないのは、形があるからだ。
戸口が閉まる。
布の壁が整えられる。
結び目が確かめられる。ほどけない結び目。
父が短く言った。
「よし」
台所に木の粉の匂いが残っていた。
粉の匂いは、作った匂いだ。作った匂いは胸を少し温める。温めても忙しくならない。
父は片づけを終えると、台所の隅の壁へ歩いた。
名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は木札を見上げ、二音を返した。
「……るみ」
父が頷く。
「よし」
私は自分の練習札を胸の前でそっと揺らした。
角は丸い。結び目は不格好でほどけない。印は小さな星。
名を声で言えない日でも、形なら置ける。
置ける形があるなら、私は戻れる。
私は最後にもう一度だけ息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、削る音のまっすぐを丸くして、木の温度を私の輪郭のそばに静かに残してくれた。
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