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第31話 小さな声で、波を止める

朝の匂いは、家の形をしている。


火鉢の赤い匂い。

湯気がほどける匂い。

木の匙が器に触れる乾いた音――音なのに、匂いみたいに胸へ落ちてくる。

布が光を薄くして、音を丸くしてくれる、その“薄さ”。


匂いが揃うと、胸の奥の糸がほどけきらずに済む。

ほどけきらない糸は、私を私のまま保つ。


私は椅子の上で息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、胸の奥の糸を一度だけ撫でて、結び直してくれる。


父は鍋の前で口をすぼめ、同じように吐いた。


「ふー」


湯気がゆらり、と揺れる。

近い揺れ。刺さらない揺れ。

刺さらないものが揺れると、私は落ちない。


父が短く言う。


「よし」


その「よし」は、朝の形を閉じる音だった。

閉じる音があると、私は次のことを考えられる。次のことを考えるためには、先に“いま”を終わらせないといけない。


食事が終わり、父が片づけを済ませる。

台所の隅の壁へ歩く。

紐で吊られた小さな板――名前の木札。


父はその前で、必ず一度だけ呼吸を置く。


たった一拍。

それだけで、家の空気が内側へ戻る。


「ルミシア」


私は木札を見上げ、二音を返した。


「……るみ」


父は頷く。


「よし」


二音が落ちた場所は、今日もここだ。

ここに落ちたなら、外がどうでも、私は戻れる。


――戻れるはずなのに。


廊下の奥、戸口の方から、足音が重なって聞こえてきた。


こつ、こつ、こつ。

止まる。

また、こつ、こつ。

数が増える。


数が増えると、音は“数”になる。

“数”になると胸の中に余白が生まれてしまう。余白が増えると、遠い光や、誰かの期待が入り込む。


私は膝の上の布を撫でた。布の目をなぞると、まっすぐが手に落ちる。

まっすぐは怖いときもあるけれど、生活のまっすぐは刺さらない。


戸口の方で、声が弾んだ。


「お父さーん! いるー?」


ミーナの声。

明るい声は好きだ。でも明るさが増えると、私は忙しくなる。


すぐに別の声が被る。


「しーっ! ちいさくって言われた!」

「ちいさく、ちいさく!」


子どもの声が複数。

複数は多い。多いは怖い。


私は先に息を吐く。


「……ふー」


父は戸口へ向かった。歩く音が急がない。急がないのに迷わない。迷わない動きは、家の中に線を引く。


父は扉を大きく開けない。

布の壁の結び目を指で確かめ、隙間だけを作り、声を落とした。


「……ここまで。中には入らない」


外で、こくこく頷く気配。


「うん!」

「はーい!」

「わかった!」


返事が揃うと、音が整う。整うと刺さらない。


父は続ける。


「……声は小さく。足は止める。息は先」


「はーい!」


元気な返事が、ちゃんと小さくなる。

合わせてくれる声は、私を物語にしない。


私は台所の影から、戸口の隙間を小さく覗いた。


ミーナ。

その隣に、見たことのない子が二人。

背の高い子と、背の低い子。服の色も違う。違う、は余白を増やす。余白が増えると、輪郭が薄くなる。


父は戸口の線を越えずに立ったまま、短く聞いた。


「……用件は」


ミーナが胸を張る。胸を張ると声が大きくなりそうなのに、ちゃんと小さくして言った。


「きょうね! “ふー”を、みんなで、やりたいの!」


“ふー”。

外から来る“ふー”が刺さらないときがある。

それは“ふー”が言葉じゃなく息だからだ。息は誰かを縛らない。


隣の子が恐る恐る言う。


「……こわいとき、ふー、ってすると、よくなるって……」


もう一人が続けた。


「ほんと? ほんとに、できるの?」


期待の声。

期待は、ときどき圧になる。圧になると戸口が押される。


父は声を荒げない。短く、形を渡す。


「……できる。だが、順番がいる」


順番。

その言葉が落ちた瞬間、胸の余白が少し縮んだ。

順番があると、数は“列”になる。列は形だ。形があるなら、私は落ちない。


ミーナが嬉しそうに言う。


「じゅんばん! わたし、やる! ならべる!」


張り切りは、速さになる。速さは音を尖らせる。尖ると、胸が忙しくなる。


案の定、ミーナは袖を引いて並べようとした。


「はい! こっち! こっち! ……あっ、まって! そっちじゃなくて……」


足音が増え、声が重なり、戸口の前の空気がざわっと膨らむ。


私は息が浅くなる。

浅い息は遠い線を呼ぶ。遠い線は、私を引っ張る。


吐こうとした。


「……ふ、」


途中で切れた。

切れると胸が冷たくなる。


冷たさが刺さる前に、父の声が落ちた。


「……止まれ」


短い。

でも短い言葉は石だ。落ちる。落ちると場が止まる。


ミーナの動きがぴたっと止まる。

子どもたちも、つられて止まる。


止まると、音が“数”から“空気”に戻る。空気なら布が薄くできる。


父は戸口の内側へ半歩下がった。

下がることで「ここまで」が見える。見える境界は押されにくい。


父が言った。


「……並べない。列を作る」


ミーナが首をかしげる。


「れつ?」


父は頷く。


「……前から順に、一人ずつ。前に出るのは一人だけ」


一人だけ。

一人だけなら、私は見られる。見られても輪郭が落ちない。


父は戸口の内側の床に、細い布を一枚、すっと敷いた。

布は長くない。敷居の手前で止まる。止まる布は線になる。


父は布の端を指で軽く叩いた。


「……ここが先頭」


先頭が決まると、列ができる。

列ができると、数が形になる。形になると息が保てる。


ミーナがぱっと顔を明るくして、でも声は小さく。


「ここが、せんとう! はい、ならぶ!」


子どもたちは布の外側に並んだ。

ちゃんと止まった。止まれる子どもは、もう怖くない。


父はさらに短く言う。


「……息は先。言葉はあと」


父が先に吐いた。


「ふー」


子どもたちが真似をする。


「ふー」

「ふ、……ふー」

「ふー……」


高さも長さも違う。

違うのに刺さらない。刺さらないのは、誰も競っていないからだ。


父は頷いた。


「よし」


褒めて膨らませる「よし」じゃない。

崩れないように支える「よし」。


ミーナが先頭の布へ一歩だけ出る。敷居は越えない。

布の線の上に足を置く。


ミーナが小さく言った。


「……ふー」


父も落とす。


「……よし」


次に背の高い子。緊張して息が止まりそうになる。


父が短く言う。


「……先」


「……ふー」


出た。

出た息は、もう戻り道だ。


順番は続く。

一人ずつ前へ出る。吐く。戻る。


私は影の中で、それを見ていた。

見ているだけなのに胸の奥が少し温かい。


温かいのは、外が押してこないからだ。

押してこないのは、順番があるから。終わりがあるから。


――終わり。


その言葉が胸に浮かんだ瞬間、戸口の外側が、ざわっとした。


道の向こうから、さらに足音が増えてきたのだ。


こつ、こつ、こつ、こつ。


「えっ、あれも来た!」

「こっちも!」

「……あ、あの子も!」


子どもが増える。

増えると列が長くなる。長い列は形を保てば刺さらない。

でも形が崩れると、数が“波”になる。波は余白を増やす。


ミーナが焦って声を上げそうになった。


「えっと、えっと……みんな、ちょっとまって!」


“まって”は良い言葉だ。

でも焦りの“まって”は音を尖らせる。尖ると刺さる。


私の息が浅くなりかける。


胸の前の紐を指で探った。

父が作ってくれた言葉の木札。掌に収まる小さな木の温度。刻まれた短い言葉。


――だいじょうぶ


木札を胸に当てると、息の道が少し広がる。


私は吐いた。


「……ふー」


吐けた。

吐けた息が、波になりかけた外の音を薄くする。


父は外の足音が完全に戸口へ寄る前に、短く言った。


「……増えても、列はひとつ」


列はひとつ。形はひとつ。

その一言で、ミーナの焦りが少しほどけた。


父は続ける。


「……途中から入らない。後ろに付け」


具体的な言葉は場を整える。

新しく来た子は列の後ろへ回る。回る音が増える。増える音に胸が忙しくなる。


忙しくなる前に、私はまた吐く。


「……ふー」


父が、戸口の内側の布の線を少しだけ長くした。

布を一枚足し、先頭の位置は変えないまま“待つ場所”だけを広げる。


広げるのに、敷居は越えない。

越えない広さは刺さらない。


父が言う。


「……待つときは、手を膝。口は閉じる。息だけ」


待つ形。

形があると、待つ時間も刺さらない。


子どもたちは不思議なくらい素直に従った。

素直なのは、父の声が低いから。低い声は焦りを増やさない。


順番は続く。

一人ずつ、「ふー」。

吐いて、戻る。


でも列が長いと、途中の子が退屈する。

退屈は動きを呼ぶ。動きは音を呼ぶ。音は数になる。


列の中ほどで、小さな子が身じろぎした。


「まだー?」

「ねえ、いつー?」

「……うごいちゃだめ?」


声が重なりかけた。


胸が狭くなる。狭さは余白を呼ぶ。余白が増えると私は落ちる。


私は木札を胸に当てた。

木の温度。「だいじょうぶ」の線。


息を吐く。


「……ふー」


父は小さな子を見た。見下ろさない。目線を落とす。

目線を落とすと、人は押されない。


父が言う。


「……待てないなら、終わりだ」


終わり。

終わりがあると列は守れる。終わりがないと列は波になる。


小さな子が口を閉じる。

閉じた口は、息を通す場所になる。


父は続けた。


「……終わりは、言える者が言う」


言える者が言う。


その言葉が、胸の奥で小さく鳴った。


終わりを言える者。

終わりを言うのは父だけじゃなくていい。

私が言えたら――戸口の波を、自分で止められるかもしれない。


でも、終わりの言葉は重い。

重い言葉は糸になりやすい。糸は絡まって痛い。


私は一度、息を吐いた。


「……ふー」


息が通っているなら、短い石は置ける。


列の後ろで、また声が膨らみかけた。


「ねえねえ、つぎ、だれ?」

「わたし、さき!」

「ちがうよ!」


波が戸口へ寄る。


父が口を開きかけた、その瞬間――私は声を出した。


小さく。

外へ投げない。敷居へ落とすように。


「……おわり」


言った瞬間、胸の奥が熱くなった。

熱いのに痛くない。痛くないのは、声が小さいから。小さい声は石として落ちる。


外が、すっと静かになった。


静かになった理由は、私の声の大きさじゃない。

“終わり”という形が落ちたから。形が落ちると、人はその形を踏まない。


ミーナが目を丸くして、でも声は小さく。


「……おわり、だって」


背の高い子が言う。


「……じゃあ、帰ろ」


小さな子も、まねをするように口を閉じる。

閉じる口から、息が漏れる。


「ふー……」


それが静かに重なる。


父が、布の影の私を見る。

目は柔らかい。柔らかいのに確かだ。


父が短く言った。


「よし」


その「よし」は、私の“終わり”を受け止める「よし」だった。

褒めて膨らませない。ただ、落ちた石が道になるようにそこに置く。


父は外へ向けて、もう一つだけ言う。


「……今日は終わり。明日は知らない」


約束を大きくしない。

大きくすると期待になる。期待は圧になる。


子どもたちはぶつぶつ言いながらも、ちゃんと列をほどいていった。

足音がばらける。ばらける音は押し込まれない音。


ミーナは最後に戸口へ寄せた顔を止め、父の視線に気づいて、ちゃんと止まった。

止まれるミーナは、もう大丈夫だ。


ミーナが小さく言う。


「……るみ、ありがとう」


ありがとうは温かい。

でも温かさは膨らむと忙しくなる。


私は先に吐く。


「……ふー」


返事は、石をひとつ。


「……だいじょうぶ」


ミーナが嬉しそうに息を吐いた。


「ふー」


そして、にへっと笑って走り去った。

走る音が遠ざかると、戸口の余白も小さくなる。


父は扉を閉め、二重の布の壁を整える。

結び目を指で確かめる。不格好でもほどけない結び目。


父が短く言った。


「よし」


台所へ戻ると、火鉢の赤がまだ小さく息をしていた。

家の匂いが勝つ。勝つと、外の数も、もう刺さらない。


父は私の胸元の木札を一度だけ見た。

「だいじょうぶ」の木札。


「……置けたな」


置けた。

言葉を“外へ”。糸にせず、石にして置けた。


胸の奥が熱くなる。

嬉しい熱。嬉しい熱は膨らむと忙しくなる。


私は先に息を吐いた。


「……ふー」


父が重ねる。


「ふー」


二つの息が重なると、熱は壊れずに落ち着く。

落ち着くと、言葉が落ちる場所ができる。


私は小さく言った。


「……だいじょうぶ」


自分のための言葉でもあり、誰かのための言葉でもある。

言葉が二つの場所に落ちると、胸の糸はほどけきらない。


父は頷き、短く言った。


「よし」


それから父は、台所の隅の壁へ歩く。

名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。


「ルミシア」


私は木札を見上げ、二音を返す。


「……るみ」


父が頷く。


「よし」


今日、私は“終わり”を言えた。

終わりを言えると、波は止まる。止まれば、息が戻る。息が戻れば、私はここへ戻れる。


胸の前の木札を指でなぞる。木の温度は、まだ少しあたたかい。父の手の温度の名残。


私は最後にもう一度だけ息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、戸口の線を静かに撫でて、私の輪郭を今日の内側にそっと結び直してくれた。


――けれど。


戸口の外の遠い方で、誰かが言ったのを、私は匂いで感じた。

子どもの声ではない。大人の、硬い声。

“終わり”を踏み越えようとする声の匂い。


胸の奥の糸が、ほんの少しだけ張る。


私は息を吐いた。


「……ふー」


終わりは言えた。

でも、次の波は――子どもより、硬い。

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