第30話 小さな「だいじょうぶ」
朝の匂いは、家の形をしている。
火鉢の赤い匂い。
湯気がほどける匂い。
木の匙が器に触れる乾いた匂い。
布が光を薄くして、音を丸くしてくれる――その「薄さ」の感触。
匂いが揃うと、胸の奥の糸がほどけきらずに済む。
ほどけきらない糸は、私を私のまま保つ。
――けれど今日は、揃っているのに、外が“近い”。
廊下の奥が、うっすら騒がしい。
音そのものは小さいのに、小さい音が重なると“数”になって胸に来る。
数は余白を増やす。余白が増えると、輪郭が薄くなる。
私は椅子の上で息を吐く。
「……ふー」
父は鍋の前で口をすぼめ、息を吐いた。
「ふー」
湯気がゆらり、と揺れた。
近い揺れ。刺さらない揺れ。
私はその揺れに合わせて吐いた。
「……ふー」
息が通ると、喉の奥が少しだけ開く。
開いた場所に、今日も言葉を落とせる。
父は頷いて、短く言った。
「よし」
器を置く音は布が受けて丸い。
丸い音は胸を忙しくしない。
忙しくならないと、私は目の前のことを一つずつ見られる。
食事が終わると、父は片づけを済ませ、台所の隅の壁へ歩いた。
紐で吊られた小さな板――名前の木札。
父はその前で必ず一度だけ呼吸を置く。
たった一拍。
それだけで、家の空気が内側へ戻る。
「ルミシア」
私は木札を見上げ、二音を返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
その「よし」が落ちたあと、父は棚の奥から薄い木片を取り出した。
掌に収まるほどの小ささ。角が削られていて、木の目がまっすぐ。
父はそれを卓の上に置き、しばらく眺めた。
眺めるというより、呼吸を合わせるみたいに。
父の指が木に触れると、木は「生活のもの」になる。
生活のものは、物語の圧になりにくい。
父は光らない小さな刃を取り出した。
剣ではない。目立たない刃。
目立たない刃は、怖くない。
しゃり、しゃり、と、木が削られる音がする。
木の粉の匂いがふわりと立つ。
音は尖りそうなのに、父の手つきが尖らせない。
父はいつも、急がないのに速い。迷いがないから、音も迷わない。
私は指先で布の目をなぞりながら、その音を聞いた。
布の目はまっすぐ。まっすぐは、ときどき刺さる。
でも布のまっすぐは、生活のまっすぐで、刺さらない。
父の刃が止まった。
父は木片を持ち上げ、私の前へ差し出した。
黒い線で、短い言葉が刻まれている。
――だいじょうぶ
文字は全部読めない。
でも父が刻む線は「落ちる場所」を作る線だと、私は知っている。
父は低い声で言った。
「……言葉の木札だ」
言葉。
言葉は時々、糸になって絡まる。
絡まった糸は痛い。
だから私は短い言葉しか持てない。
父は続けた。
「……言えないときは、持て」
持つ。
握りしめるのではなく、落ちないくらいで持つ。
父の「落ちないくらい」という言葉が、指の力を整える。
父は木札に紐を通し、不格好でもほどけない結び目を作った。
きゅ、と締まる音は布が受けて丸い。
丸い音は、胸を刺さない。
父はそれを私の掌に置いた。
木の温度。父の手の温度が移った、少しあたたかい木。
私は握りそうになって、力を抜いた。
落ちないくらい。木札が刺さらない。
父が短く言う。
「……息、先」
父が先に吐く。
「ふー」
私は合わせて吐く。
「……ふー」
吐けた息が、木札の紐を胸の前で静かに揺らした。
揺れは小さい。小さい揺れは刺さらない。
――そのとき。
廊下の奥――戸口の方から、軽い足音が重なって聞こえた。
こつ、こつ、こつ。
子どもの足音。
子どもの足音は本当は怖くない。
でも数が増えると、音は“数”になって胸に来る。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は扉を大きく開けない。
線のまま、声だけを落とした。
「……用件は」
外で、弾む声が小さく抑えられる。
「お父さん、いるー?」
「しーっ、ちいさく!」
「ごめん、ちいさくする!」
“お父さん”。
生活の呼び方。刺さらない呼び方。
それだけで胸が少し広がった。
父の声が、低く落ちる。
「……何だ」
外の声が揃った。
「えっとね! みんなで、ききたいことがある!」
みんな。
みんなは多い。多い、は怖い。
父はすぐに線を引いた。
「……ここまで。中には入らない」
「うん!」
返事が早い。早いのに押し込まない。
押し込まないなら、胸はほどけない。
父は布の壁を二重にしたまま、扉の隙間をほんの少しだけ作った。
外の光が細い線になって入る。
細い光は刺さりにくい。刺さりにくいなら、私は見られる。
戸口の前に、子どもが三人。
ミーナもいる。
他に、見慣れない子が二人。
違う、は余白を増やす。
でも今日は父が線を引いている。
子どもたちは布の前で止まった。
止まれる子どもは、もう怖くない。
ミーナが一歩前に出て、声を小さくした。
「お父さん、あのね。みんな、やりたいの」
「……何を」
ミーナが胸を張って言う。
声は大きくなりそうなのに、ちゃんと小さい。
「“ふー”!」
“ふー”。
その音が外から来る。
外の音が刺さらないのは、子どもがそれを遊びにしないで、道にしているからだ。
隣の子が言う。
「こわいとき、ふー、ってするって……ミーナが……」
もう一人が続ける。
「できる? ほんとに、できる?」
できる、は期待の言葉。
期待は物語の圧になりやすい。
でも子どもの期待は、まだ柔らかい。
――その柔らかさが、壊れないうちに。
父の声が落ちた。
「……できる。だが、形がいる」
形。
形があると私は落ちない。
形は、息と布と木札でできている。
父は子どもたちに言った。
「……足は、そこで止める。声は小さく。息は先」
子どもたちは素直に頷く。
頷きは落ちる。落ちるなら話は進む。
父が先に吐いた。
「ふー」
子どもたちが真似をする。
「ふー」
「ふ、……ふー」
「ふー……」
高さが違ってもいい。
途切れてもいい。
出たなら、戻り道になる。
父は短く言った。
「よし」
その「よし」は、褒めて膨らませる「よし」ではない。
崩れないように支える「よし」。
子どもたちの肩が少し落ちた。
落ちると胸の力が抜ける。
抜けると息が通る。
――その瞬間。
遠くで、犬の遠吠えが伸びた。
一本の長い線。
空に引かれるみたいに伸びて、戻ってこない音。
遠吠えは広い余白を連れてくる。
余白が増えると、胸の糸が引っ張られる。
私は喉の奥で息が細くなるのを感じた。
でも胸の前に、木札がある。
「だいじょうぶ」の木札。
私は先に吐いた。
「……ふー」
吐けた。
吐けた息が、遠吠えの線を“遠い線のまま”にする。
外の子どもが、びくっと肩を跳ねさせた。
怖いのだと思う。
怖いとき、人は息を止める。
息を止めると、怖さが全部になる。
父はすぐに言った。
「……息」
父が先に吐く。
「ふー」
子どもたちが合わせる。
「ふー」
「ふー……」
遠吠えはまだ伸びている。
でも子どもたちの息が近い。
近いものは、胸を戻す。
ミーナが小さく言う。
「だいじょうぶ。ふー、だよ」
だいじょうぶ。
その言葉が外の空気に置かれる。
置かれた言葉は、ふわふわのままではなく石になる。
私の胸の奥が、静かに熱くなった。
熱いのに忙しくならない。
忙しくならないのは、息が通っているからだ。
父は、そこで視線をほんの少しだけ内側へ向けた。
布の影の私へ。
合図。
置けるなら、置いていい。
私は怖かった。
外に言葉を出すのは重い。
重い言葉は糸になって絡まる。
絡まると痛い。
でも今日は、言葉が木札になっている。
持てる形がある。
私は敷居の手前へ、布の道を一歩だけ進んだ。
足は布の上のまま。
半歩はいらない。線は越えない。
戸口の隙間から、子どもたちがこちらを見る。
目が多いと余白が増える。
増える前に息を吐く。
「……ふー」
そして、胸の前の木札を指でなぞって、短い言葉を落とした。
「……だいじょうぶ」
声は小さい。
小さい声は刺さらない。
落ちた言葉は敷居の木に当たって、外へ転がっていく気がした。
子どもたちが目を丸くする。
でも騒がない。
騒がないのは、父が線を引いているから。
ミーナが嬉しそうに、でも声を大きくしないで言った。
「ほら! るみも、だいじょうぶって!」
子どもが真似をする。
「だいじょうぶ……」
「ふー……」
「だいじょうぶ、ふー……」
言葉が重ならないように、みんなが順番に小さく言う。
順番があると音が数になりにくい。
数になりにくいと胸はほどけない。
遠吠えが、もう一度だけ細く残って、消えた。
消えたあとに残る静けさは、ときどき怖い。
でも今日は、その静けさが“薄い”静けさになっていた。
薄い静けさは刺さらない。
刺さらない静けさは、家の静けさと同じだ。
父は短く言った。
「……よし。終わり」
終わり。
終わりがあると、勝利を落とさずに持てる。
子どもたちはすっと肩を落として頷いた。
ミーナが言う。
「ありがとう、お父さん。……るみも」
ありがとう。
胸を温める言葉。
でも声が小さいから膨らまない。
小さい声は生活の声だ。
父は礼を受け止めすぎない。
借りを作ると物語の圧になる。
父は物語を育てない。
父は短く言った。
「……帰る。道は広がらない」
子どもたちは素直に頷き、足音がばらけていく。
こつ、こつ、こつ。
ばらける音は、押し込まれない音。
ミーナは最後に、胸の前で何かを握った。
私が渡した木札――ミーナの名の木札。
それを落ちないくらいで持って、小さく言う。
「……だいじょうぶ。ふー」
そして、笑った。
泣かない笑い。角のない笑い。
その笑いが遠ざかると、戸口の余白も小さくなる。
小さくなると、私は深く息を吸えた。
父は扉を閉め、二重の布の壁を整えた。
結び目を指で確かめる。
不格好でもほどけない結び目。
父が短く言った。
「よし」
台所へ戻ると、火鉢の赤がまだ小さく息をしていた。
家の匂いが勝つ。
勝つと、外の光のまっすぐさも薄くなる。
父は私の胸元の木札を見た。
「だいじょうぶ」の木札。
父は言った。
「……置けたな」
置けた。
言葉を外へ。
糸にせず、石にして置けた。
胸の奥が熱くなる。
熱は嬉しい熱。
嬉しい熱は膨らむと忙しくなる。
私は先に息を吐いた。
「……ふー」
父が重ねる。
「ふー」
二つの息が重なると、熱は壊れずに落ち着く。
落ち着くと、私は言葉を落とせる。
私は小さく言った。
「……だいじょうぶ」
自分のための言葉でもあり、誰かのための言葉でもある。
言葉が二つの場所に落ちると、胸の糸はほどけきらない。
父は頷き、短く言った。
「よし」
それから父は、台所の隅の壁へ歩いた。
名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は木札を見上げ、二音を返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
その「よし」で、今日の出来事は家の中に収まった。
外の遠吠えも、子どもたちの目も、私の胸をほどかないまま、薄く棚にしまえる。
私は胸元の木札を指でなぞった。
木の温度は、まだ少しあたたかい。
父の手の温度の名残。
私は最後にもう一度だけ息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、戸口の線をやさしく撫でて、私の「だいじょうぶ」を今日の内側に静かに結び直してくれた。
――けれど、布の向こうで、子どもの声が遠くに残った。
「ねえ……また、くるね!」
「しーっ、ちいさく!」
小さい声。
でも“また”は、続きの言葉だ。
続きは怖いこともある。
でも今日は、木札がある。
私は胸の前の「だいじょうぶ」をもう一度だけ撫でて、息を吐いた。
「……ふー」
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