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第3話 ルミシア

私が「私」になった瞬間を、私は覚えている。


歩けるようになった日でも、言葉を覚えた日でもない。

もっと小さくて、もっと静かな瞬間だ。


湯気の匂いがしていた。

火鉢の炭がぱちりと鳴り、窓の布が夜の名残を抱いたまま揺れていた。


父の足音は、広い家の中を無駄に響かせないよう、いつもよりゆっくりだった。


父は私を抱き上げる前に、必ず一拍置く。


抱くぞ、と言うわけじゃない。

赤子の私に許可を求めるわけでもない。


ただ――そこにいる私を「物」にしないために、父は一呼吸ぶんだけ立ち止まる。


その一呼吸が、私にはいつも救いだった。


抱き上げられると、世界が持ち上がる。

床の冷たさが遠のき、空気の匂いが変わる。視界が変わる。


変わることは怖い。


でも父は、変わり方を乱暴にしない。

私の目が追いつける速度で、世界を動かす。


その日も父は、私を胸に抱き寄せ、外套の内側に入れるようにして温度をつくった。

剣を握ってきた腕は硬い。けれど私を抱くとき、その硬さは壊さないための硬さになる。


父は火鉢のそばの椅子に腰を下ろした。

脚が床を擦らないよう、椅子を持ち上げてから置く。


広い家で暮らす工夫は、いつもそんな小さな気遣いでできていた。


私は父の胸元で布の匂いを吸った。

夜の色の布。目立たない布。


目立たないというだけで、なぜか安心する布。


父は湯を沸かし、椀に注いだ。

湯気がふわりと立つ。


湯気は世界を柔らかくする。

私は湯気が好きだった。湯気の向こうの父の顔が、少しだけ優しく見えるから。


父は湯気の向こうで目を伏せ、机の上の白い紙へ視線を移した。


白は怖い。

何もないのに何でも映してしまう。嘘がつけない。誰かの「正しさ」を呼び込む。


父もまた、白い紙の前では指が止まる。

剣を抜くよりずっと慎重になる。


父は木炭を取り、紙の上に置いた。

黒い粉が指につく。


父はその指を一度、布で拭った。

汚れを嫌ったわけじゃない。私に触れる手を、きれいにしたかったのだ。


木炭が走る。

一本、短く。もう一本、細く。


線はすぐ止まる。


父は木炭を置き、目を閉じた。


何かを決める前の沈黙。

私を置き去りにしない沈黙。探している沈黙。


私は父の顎のあたりを見つめた。

喉が小さく動く。胸の中の言葉が押しているのに、出し方が分からないときの動き。


父が目を開ける。


湯気の向こうじゃない。はっきりした目で、私を見る。

遠くを見ていない。英雄の席を見ていない。拍手を見ていない。


私だけを見ていた。


父は、ほんの少し息を吸ってから口を開いた。


「……ルミシア」


私はまだ、その音が何なのか分からない。

でも分かったことがある。


父の声が、私の中に落ちた。

胸の奥に、すとんと沈んだ。温度がついた。


音が、居場所を見つけた。


父はもう一度言った。


「ルミシア」


二度目は一度目よりはっきりしていた。

迷いがない。父の口から出た瞬間、音が「私」へ真っ直ぐ飛んでくる。


私は目を瞬いた。

瞬いたというより、驚きで世界が止まった。


父の口元が、ほんの少し丸くなる。

笑顔というほど派手じゃない。角が取れるだけ。


それだけで部屋が暖かくなる。


「……そうだ。お前だ」


お前は広い。誰にでも向けられる。

でも「ルミシア」は違う。


狭い。ぴったりだ。

私だけの形をしている。


私は口を開いた。

何か言おうとしたわけじゃない。ただ胸の奥が動いたのだ。


「……あ」


声にならない声。息の震え。

それでも父は受け取った。


父は私の額に指を当て、熱を確かめるようにしてから頷く。


「よし」


勝ったときの「よし」じゃない。

誰かを倒したときの「よし」でもない。


今日が続くための「よし」だ。


父は私を抱いたまま窓へ向かった。

濃い色の布の向こうに、朝が来ている気配がした。


父は布の端を少しだけめくって外を見る。

まだ暗い。星が残っている。でも空の底に薄い色が溜まっている。


父は布を戻した。

朝を見せないためじゃない。朝を急がせないためだ。


父は私を見下ろし、低い声で言った。


「ルミシア。……聞こえるか」


聞こえる。というより、届く。


私は言葉の意味を知らない。

でも“届く”感覚は分かる。


音が私の中で止まる場所を持つ。

その場所は冷たくない。痛くない。温かい。


父はもう一度、少しだけ近い距離で呼んだ。


「ルミシア」


私は父の胸元の布を掴んだ。

小さな手で、必死に掴む。


掴むことで、音に触れられる気がしたから。


父の目が、ほんの少しだけ揺れる。

嬉しさと、怖さ。壊さないための怖さ。


父は私の手を上から包んだ。

掴んだ手をほどかずに、支える。


「……名だ」


私はもちろん意味を知らない。

でも父の声の温度で、これは大事なものだと分かった。


父は机へ戻り、もう一度紙に向き合った。

今度は迷いが少ない。


木炭の線が躊躇いなく伸びる。

線が決まっていくとき、世界は安定する。


書き終えた父は紙を見下ろした。

誇る目じゃない。確かめる目だ。


私が戻るための道が、ここにできたかどうか。


父は小さく息を吐き、紙をそっと折りたたむ。

乱暴にしない。破れたら道が切れる気がするから。


折った紙を、父は胸の内側――外套の内側へしまった。

一番あたたかい場所。


剣じゃなく、紙をそこへしまう。


それだけで私は分かった気がした。

父が何を大事にする男なのかを。



昼が近づくと、家の外の音が少しだけ増える。

この広い家は外の音を吸い込みにくい。壁が厚いのに空気が冷え、冷えると音も冷える。


父はそれを嫌って、火鉢の位置を変える。湯を沸かす。布を整える。

生活の小さな音を増やす。


生活の音が増えると、外の音は遠くなる。


その日、玄関の方で何かを受け取った。

紙の擦れる音。封蝋の匂い――分からないはずの匂いを、なぜか私は覚えている。


父の空気が、一瞬で硬くなったからだ。


物語の匂いがするとき、父の背中は固まる。


父は封を切らずに机へ置き、しばらく見つめた。

開かない。けれど、そこに置く。


無視しないで、遠ざける。


父は私を抱き上げ、椅子に座った。

そして手紙を見ないまま、私の頬に指を当てる。


「……ルミシア」


いつもより低い。確認の声だった。


私は瞬きをした。

父の胸の内側の硬さが、少しだけほどける。


父はようやく手紙を開いた。

目で追う。けれど父の目は、温度のないものを見ているみたいだった。


しばらくして父は紙を折り直し、机の隅に置いた。

火鉢の近くでも、窓の近くでもない。


ちょうど中間。近づけすぎず、遠ざけすぎない場所。


父は私を抱いたまま、ぽつりと言った。


「……お前は、誰のものでもない」


意味は分からない。

でも怒っていないことは分かる。怒りじゃなく、線を引く声。


父は続ける。


「……名で呼ぶ」


名。

今度は自分に言い聞かせるように。


私は外套の端を掴んだ。

掴めるものがあると、世界は私の手の中にも入ってくる。


父は小さく笑う。


「よし」


今日も続く合図。


父は立ち上がり、窓の布を確かめた。

布はしっかり掛かっている。光は薄い。冷たさも薄い。


父は布の端を整えながら、外に向けて言うように、でも外には届かない声で言った。


「……肩書きで呼ぶな」


肩書き。


その言葉は空気を冷やした。

冷やしたのに、父の背中は揺れなかった。


肩書きは便利だ。正しそうだ。物語を作りやすい。

でも肩書きは、名を削る。


父はそれを知っている。


父は振り向き、私の額に指を当てる。

温度を確かめる指。確かめるのは、私が私でいること。


「ルミシア」


名は私の中に火鉢を置くみたいに、冷たさを遠ざけた。


父はそこで初めて、私の頬を少しだけ撫でた。

不器用で、指の腹が少し引っかかる。


でもその引っかかりが、私には嬉しかった。


触れられている、という証拠。

物語の“特別な子”じゃない。父の腕の中の“ここにいる子”として。



夕方、父は私を寝台に寝かせた。

布を整え、外套を軽く掛け、火鉢の火を弱める。湯気を残す。


眠りの準備は、戦いの準備とは逆だ。

世界を小さくする。


父は寝台の横に座り、私の呼吸を聞いた。


私はまだ名の意味を知らない。

でも名があると、呼吸が続く気がした。


父はゆっくり言う。


「ルミシア。……眠れ」


命令じゃない。お願いだ。


私は眠りへ落ちていく。

落ちる途中で、父の声がもう一度届いた。


「ルミシア」


念押しでも確認でもない。

ただ、帰り道の灯り。


暗くなる前に灯りを置く。迷わないために。


父は名前を置いた。


――そして、誰かは“肩書き”を置きに来た。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


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