第29話 薬草の匂い、届ける「だいじょうぶ」
朝の匂いは揃っていたのに、父の手の動きだけが、少し違って見えた。
火鉢の赤。
湯気の白。
木の匙の乾いた匂い。
布が光を薄くして、音を丸くしてくれる――その「薄さ」。
私は椅子の上で息を吐く。
「……ふー」
吐けた。
吐けたのに、胸の奥が落ち着かない。
落ち着かない理由を、私はうまく言葉にできなかった。
父は鍋の前で口をすぼめて、いつもより長く息を吐いた。
「ふー」
湯気がゆらり、と揺れる。
近い揺れ。刺さらない揺れ。
それでも父の指先は、湯気ではなく、台所の隅に置いた小さな包みへ何度も戻った。
布に包まれた、青い匂い。
土の匂い。
薬草の匂い。
薬草の匂いは森の匂いに似ている。
森は広い。広いと余白が増える。
余白が増えると私は怖い。
でも薬草の匂いは、広さではなく――「効く」匂いがした。
効く匂いは形がある。
形があるなら、持てるかもしれない。
父は粥をよそい、私の前へ置いた。
音は布が受けて丸い。
丸い音は胸を忙しくしない。
「……食べる」
「……うん」
私は短い返事で器を持ち上げた。
短い言葉は石だ。落ちる。
落ちると胸に残る。
残るなら、息が狭くならない。
食べ終えたあと、父は片づけを済ませ、台所の隅の壁へ歩いた。
紐で吊られた小さな板――名前の木札。
父はその前で一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は木札を見上げ、二音を返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
その「よし」で、朝が整った。
整ったはずなのに、父の手はまだ包みの方へ戻る。
父は包みを開き、小皿に青い葉を広げた。
すり鉢の中で、葉をゆっくり擦る。
しゃり、しゃり。
音は小さい。小さい音は刺さらない。
葉の匂いが濃くなる。
濃い匂いは私の鼻の奥へ入ってくる。
入ってくると、胸が少しだけ狭くなる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は擦る手を止めずに言った。
「……怖い匂いか」
怖い、という言葉は重い。
でも父の問いは、私を責めない問いだ。
「今の形」を確かめる問い。
私はうなずいてから、首を横に振った。
どちらも正しい。
怖いのに、怖いだけではない。
言葉が見つからない代わりに、息を吐いた。
「……ふー」
父は頷く。
「……薬だ。痛みを薄くする」
薄くする。
父はいつも消すのではなく薄くする。
薄くなるなら、私は持てる。
父は擦った葉に、少しだけ油を落とした。
油の匂いが混ざると、薬草の青さが丸くなる。
父は布を取り、薬を包む。
不格好でもほどけない結び目で、きゅ、と留めた。
きゅ、の音は布が丸くして、胸を刺さない。
私はその結び目を見て思った。
結び目は、息に似ている。
続くけれど、ほどけない。
父が包みを手に取った。
「……届ける」
届ける。
その言葉だけで戸口の余白が頭に浮かんだ。
外。数。声。光。
胸の奥がきゅっと狭くなる。
狭くなると息が浅くなる。
浅い息は遠い線を呼ぶ。
私は先に吐いた。
「……ふー」
父は私を見た。
柔らかい目。
柔らかい目は私を急がせない。
「……お前は、出なくていい」
出なくていい。
その許しで胸が少し広がった。
――なのに。
胸の奥に、小さな熱が残った。
薬草の匂いが「効く」匂いだからかもしれない。
「届ける」が、私の中で石になりかけていた。
私は布の端を指で撫でた。
撫でると布の目がまっすぐで、考えが小さくなる。
小さい考えなら、持てる。
私は口を動かした。
「……いく」
二音ではない。
でも短い。
短い言葉なら落ちる。
父は驚かない。
喜びもしない。
ただ、線を引く。
「……敷居まで。外は、半歩いらない」
敷居まで。
木の線。境界。
胸がきゅっとなる。
けれど今日は父の言葉に段階がある。
段階があるなら、私は落ちない。
父は布の壁の方へ行き、結び目を確かめた。
今日は布をもう一枚重ねた。
二重の影が濃くなる。
濃い影は外の光を薄くする。
父は言う。
「……息、先」
父が先に吐く。
「ふー」
私は合わせて吐く。
「……ふー」
二つの息が重なると、戸口の余白が少しだけ薄くなる。
薄い余白なら、指先で扱える。
父は外套を羽織り、包みを内側の懐へしまった。
見せない。
隠すためじゃない。
目立たせないため。
目立つと物語の圧が寄ってくるから。
父は私に小さな布を渡した。
掌に収まる大きさ。
布の中に細い紐が一つ。
「……これ」
私は布をほどいて中を見る。
薄い木片。
角が丸い。
木の目がまっすぐ。
その表に、黒い線で小さな文字が刻まれていた。
――ミーナ。
横に小さな花の印。
文字だけではなく形がある。
形があると、言葉が落ちる場所になる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が言う。
「……渡す。言葉は、ひとつでいい」
ひとつ。
ひとつなら持てる。
石を一つ置けば、道になる。
私は木片を握りそうになって、力を抜いた。
落ちないくらい。強くない。
父の言葉が私の指を整える。
廊下へ出ると、布の影が濃くて安心した。
敷居の前までの布道が、今日は少し長く敷かれている。
布が長いと床の冷たさが薄まる。
薄い冷たさなら、足が迷わない。
戸口へ近づくと外の匂いが薄く混ざる。
土。風。
そしてほんの少し甘い匂い――干し草の匂い。
父は扉を大きく開けない。
線のまま、ほんの少しだけ外の光を取り入れた。
白い。まっすぐ。
でも布の影がある。
影があるなら、私は息を落とさない。
私は敷居の手前で立ち止まり、足は布の上のまま。
父だけが外へ出た。
出るけれど急がない。
急がないのに速い。迷いの無さの速さ。
私は扉の隙間から、外を小さく見る。
見える範囲は小さい。
小さい範囲なら胸はほどけない。
向こうの家の前に、ミーナが座っていた。
膝には布が巻かれている。
顔は少し腫れているけれど、目は開いている。
開いている目は、「戻れた」の目だ。
ミーナの母親がそばにいて、父を見て深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。昨日は……」
昨日、という言葉は私の胸を少しだけ忙しくした。
忙しさは時間を連れてくる。
時間が増えると余白が増える。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は短く言った。
「……薬だ。塗る。押さえすぎない」
母親が頷く。
頷きは落ちる。落ちるなら話は進む。
父は包みを取り出さず、懐から小皿だけを出した。
必要な分だけ。必要以上を出さない。
必要以上は人を寄せる。
父はしゃがみ、ミーナの膝の布を少しだけほどく。
ほどく手つきは乱暴じゃない。
乱暴じゃないと痛みが増えにくい。
ミーナが顔をしかめる。
しかめると息が止まりそうになる。
父が低い声で言った。
「……息。ふー」
ミーナが小さく吐く。
「ふー……」
吐けた息が痛みの角を少し丸くする。
父は薬を薄く塗る。薄く。
薄くするのは癖じゃない。
痛みを“量”にしないためだ。量にすると全部になる。
全部になると泣く。
泣きが鋭くなると周りの空気が尖る。
尖る空気は刺さる。
父はそれを知っている。
父が言う。
「……よし」
その「よし」で、ミーナの肩が少し落ちた。
ミーナの目が、扉の方を向いた。
私の方。
まっすぐな視線。
でも刺さらない。ミーナの視線は押し込まないからだ。
私は胸の中の木片を思い出した。
ミーナの名。花の印。
渡す。
言葉はひとつ。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が、扉の線の方へ目だけを向けた。
合図。
「今なら置ける」という合図。
私は敷居の手前から半歩を出さずに、腕だけを伸ばした。
木札を、父の手にそっと渡す。
父の手が受け取る。
受け取った瞬間、私の指が震えた。
震えは悪くない。
慎重の証拠だ。
父は木札を見て頷き、ミーナへ差し出した。
「……これ。名の印だ」
ミーナが目を丸くして、両手で受け取った。
受け取る手が落ち着いている。
落ち着いているのは、息が通っているからだ。
ミーナは木札を見て、声を小さくした。
「……わ、たしの?」
父が短く言う。
「……そうだ」
ミーナの母親が息を呑む気配。
それから声が震える。
「こんな……ありがとうございます。……あの、あなたは本当に――」
続きは匂いで分かった。
肩書きの匂い。物語の匂い。
胸がひゅっと冷える。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父の声が落ちた。
低い。短い。揺れない。
「……私は父だ」
父。
その二音は外の空気に石を置いた。
石が置かれると道ができる。
道ができると物語の圧は道の外へ押し出される。
母親は顔を赤くして、すぐ頭を下げた。
「……失礼しました。お父さん。……本当に」
生活の言葉。
生活の言葉は刺さらない。
刺さらないから私は息を落とさないでいられる。
ミーナは木札を胸の前で握りそうになって、握り直して、落ちないくらいで持った。
その持ち方が私と似ていて、胸の奥が少し温かくなった。
温かさが膨らむ前に、私は息を吐く。
「……ふー」
ミーナが、扉の隙間の私を見て、にへっと笑った。
泣いたあとの笑い。
泣いたあとの笑いは角がない。
ミーナが小さく言う。
「るみ……ありがと」
ありがとう。
重い言葉。
でもミーナのありがとうは押しつけない。
受け取っても刺さらない種類だ。
返したい。
でも長い返事は糸になる。
糸は絡まって痛い。
ひとつ。
ひとつでいい。
私は息を吐いた。
「……ふー」
そして、石をひとつ置いた。
「……だいじょうぶ」
「大丈夫」はふわふわしている。
でも私は今、それをふわふわのまま言わない。
息を通して、落とす。
落ちた「だいじょうぶ」は、地面に置かれた石になる。
ミーナの目が少し潤んだ。
でも泣かない。
泣かないのは、息が通っているからだ。
ミーナが真似をするみたいに息を吐いた。
「……ふー」
それから、もう一度小さく言う。
「……だいじょうぶ」
二つが重なった瞬間、胸の奥が静かに鳴った。
音ではない。
でも確かな、落ちる感触。
父は頷き、短く言った。
「よし」
その「よし」は、誰も忙しくならない大きさだった。
大きくしない。物語にしない。
生活のまま、終わる。
父は母親へ、最後に一つだけ言った。
「……布は替える。濡らしすぎない。息を忘れるな」
母親が何度も頷く。
「はい……はい……ありがとうございます」
父は礼を受け止めすぎない。
受け止めすぎると借りになる。
借りは物語の圧になる。
父は短く言った。
「……子どもを見ろ」
その一言で、母親の視線がミーナへ戻る。
戻ると場が生活へ戻る。
生活へ戻ると私は息を落とさない。
父が立ち上がり、私の方へ戻る。
戻ってくると外の匂いが薄くなる。
薄くなると胸が広がる。
父は扉を大きく開けないまま内側へ入った。
布の壁を整える。
結び目を確かめる。
不格好でもほどけない結び目。
父が短く言った。
「よし」
私は敷居の手前から一歩も出していないのに、足が少し震えていた。
震えは怖さの証拠でもあり、やったことの証拠でもある。
父は私を見た。
柔らかい目。急がせない目。
「……言えたな」
言えた。
「だいじょうぶ」を置けた。
置けた石は、私の中にも道を作る。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が頷く。
「……短い言葉でいい。短いほど、戻れる」
戻れる。
その言葉が胸に落ちて、私は少しだけ輪郭を確かめられた。
台所へ戻ると、火鉢の赤がまだ小さく息をしていた。
家の匂いが勝つ。
勝つと外の光のまっすぐさも薄くなる。
父は台所の隅の壁へ歩き、名前の木札の前で一度だけ呼吸を置いた。
「ルミシア」
私は木札を見上げて、二音で返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
その「よし」で、今日の外の出来事は家の中に収まった。
収まると私は胸の奥の糸を結び直せる。
私は最後にもう一度だけ息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、薬草の青い匂いと一緒に、私の中の「だいじょうぶ」を静かに乾かしてくれた。
――けれど。
戸口の布の向こうで、犬の遠吠えがもう一度だけ伸びた。
昨日より近い線。
昨日より長い線。
父の指が、一瞬だけ止まった。
止まったのに、声は揺れない。
「……夜だ」
夜。
夜は音が少ない。
音が少ないと世界が広くなる。
広くなると余白が増える。
私は胸の奥の糸を指で確かめるように、息を吐いた。
「……ふー」
父が重ねる。
「ふー」
二つの息が重なると、長い線はまだ遠い線のままでいられた。
でも私は知っている。
線が近づく夜が、たぶん――来る。
私が置ける石は、まだ少ない。
だから、明日もひとつ。
ひとつずつ。
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