第28話 泣き声と遠吠えは、物語を呼ぶ
昼の光は、まっすぐだ。
まっすぐなものは、ときどき胸の奥の糸を引っ張る。
引っ張られると、息の道が細くなる。
細くなると、世界が少し遠くなる。
だから私は、昼が好きなのに、昼が怖い日もある。
今日の光は、とくに強かった。
窓の布が光を薄くしているはずなのに、布の向こうが白く滲んで見える。
白い滲みは余白みたいに広がる。
余白が増えると、私は自分の輪郭を確かめたくなる。
台所の匂いは揃っていた。
火鉢の赤の匂い。湯気の匂い。木の匙の匂い。
そして――布が光を薄くしてくれる「影の匂い」。
本当はないはずなのに、私は影の中の空気を匂いで知っている気がした。
父が鍋の前で口をすぼめ、息を吐く。
「ふー」
湯気がゆらり、と揺れた。
近い揺れ。刺さらない揺れ。
私は椅子の上で、その揺れに合わせて吐いた。
「……ふー」
息が通ると、喉の奥が少し開く。
開くと、今日の光も、白い滲みのまま置ける。
父が頷いて短く言う。
「よし」
器を置く音は布が丸くして、父の動きは急がないから角が立たない。
角が立たないと、私は目の前のものを見られる。
食べ終えたあと、父は台所の隅の壁へ歩いた。
紐で吊られた小さな板――名前の木札。
父はその前で一度だけ呼吸を置く。たった一拍で、家の空気が内側へ戻る。
「ルミシア」
名が置かれる。重いのに刺さらない音。
私は木札を見上げ、二音で返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
その「よし」で、私は少しだけ戸口を思える。
戸口は余白の入口。
でも余白の中にも、土の匂いと花の匂いがある。
守りたいと思える日がある。
父が布の壁の結び目を確かめていたとき――外から、はっきりした音が来た。
泣き声。
子どもの泣き声は鋭い。
鋭いものは胸に刺さりやすい。
刺さる前に息を吐く。
「……ふー」
父の肩が、わずかに動いた。
動きは急がない。
でも耳が戸口へ向いたのが分かる。
泣き声のすぐ後に――長い音が重なった。
犬の遠吠え。
吠える、ではなく、伸びる。
一本の線が空に引かれるみたいに伸びて、戻ってこない音。
遠吠えは「ここではない場所の広さ」を連れてくる。
広さは余白になる。余白が増えると、胸の奥がきゅっと狭くなる。
続けて、転ぶ音。
どさ、というより、布が擦れるような音。
でも私は、それが痛い音だと分かった。
痛い音は、胸の奥で先に痛い。
父はもう扉の前にいた。
扉を大きく開けない。線のまま、声だけを落とす。
「……何があった」
外の空気が一瞬止まった。
止まったあと、焦った大人の声が重なる。
「子どもが! 転んで!」
「血が……!」
「犬が、向こうで吠えてて……いや、遠吠えか……!」
遠吠え。
その言葉がもう一度、長い線を胸の中に引いた。
私は布の影に身を寄せた。
影に入ると光が薄くなる。
薄くなると余白が少し縮む。
父は扉の線を保ったまま、短く言った。
「……退け。道を空けろ」
声は荒げない。
でも言葉が短いと線になる。
線は刺さらない。刺さらない線は、人を動かす。
外で足音がばらけた。
こつ、こつ、と退く音。
退く音は、押し込まれない音。
父は扉を少しだけ開けた。
線がほんの少し太くなる。
太くなると外の匂いが入る。
汗の匂い。土の匂い。
そして、鉄の匂い――血の匂い。
血の匂いは鋭い。
鋭い匂いは、目に見えない刃になる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父の声が落ちる。
「……息」
父が先に吐く。
「ふー」
私は合わせて吐く。
「……ふー」
二つの息が重なると、血の匂いが匂いのまま薄くなる。
薄くなれば、刺さらない。
父は外へ出た。
出るけれど、急がない。
急がないのに速い。
それは剣の速さではなく、迷いの無さの速さだった。
私は布の影から、戸口の線の内側に立ったまま外を見た。
見える範囲は小さい。
小さい範囲なら、胸はほどけない。
戸口の前の地面に、子どもが座り込んでいた。
ミーナだ。
頬が濡れて、膝のあたりが赤くなっている。
赤は光の中で目立つ。目立つものは怖い。
ミーナのそばに母親らしい人がしゃがみこんでいる。
その周りに数人の大人。
数が増えると、ざわめきが“数”になる。
数は余白を増やす。
そして遠くでまた犬の遠吠えが伸びた。
長い線が、昼の空に引かれる。
胸が狭くなる。
狭くなる前に息を吐く。
「……ふー」
父はしゃがみ、ミーナの顔の高さまで目線を落とした。
それだけで周りの大人が一瞬静かになった。
父は声を小さくした。
「……痛いか」
ミーナは泣きながら頷いた。
頷くのは言葉より落ちる。落ちるなら、今はそれでいい。
父はミーナの膝を見た。
血は出ている。
でも父は顔色を変えない。
顔色を変えないと、周りの空気が暴れない。
父は大人たちへ短く言った。
「……布。きれいな布を」
「はい! いま!」
一人が走りかける。
走る音が増えると余白が増えそうになる。
父は言葉で線を作った。
「……走るな。転ぶ」
その一言で、足音が速さを落とした。
速さが落ちると音が丸くなる。
丸い音は刺さらない。
父はミーナの膝の横に手を添えた。
押さえつけない。
ただ、そこに置く。
置く手は支配じゃない。
ミーナが息を詰めた。
息を詰めると痛みが全部になる。
全部になると世界が狭くなる。
父は低い声で言った。
「……息。ふー」
ミーナは泣きながら、うまくできない。
息が途切れる。
途切れると泣き声が鋭くなる。
父は責めない。
代わりに父が先に吐く。
「ふー」
短い息。大げさじゃない息。
ミーナが真似をしようとする。
「ふ、……ふー……」
途切れても、出た。
出た息は、戻り道になる。
父は頷いた。
「……よし」
ミーナの目が少しだけ丸くなった。
泣いているのに、泣き方の角が取れる。
角が取れると、周りの大人も落ち着く。
布を持ってきた人が戻ってきた。
父は布を受け取り、手早く、でも乱暴ではなく膝を押さえた。
押さえるのは傷を締めるため。痛みを増やすためじゃない。
父がもう一度、ミーナに言う。
「……ふー。いま」
ミーナが吐く。
「ふー……」
父は短く頷く。
「よし」
そのやり取りだけで、空気が整っていく。
私は布の影からそれを見て、胸の奥に“強さ”の形が落ちるのを感じた。
強さは、剣の光じゃない。
強さは線だ。
強さは声の高さだ。
強さは終わりを作ることだ。
遠くでまた犬の遠吠えが伸びた。
長い線。
でも今の私は、長い線に飲まれなかった。
父の声が、近い線を引いているから。
――そのとき。
大人の一人が、ふっと安心した声で言った。
「……やっぱり、あの方に頼んで正解だよ」
「そりゃそうだ、だって――」
言葉の続きが、匂いで分かった。
物語の匂い。
肩書きの匂い。
“当然”の匂い。
胸がきゅっと狭くなる。
狭さは剣を呼ぶ。
剣を呼ぶと物語の圧が太くなる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父は布を押さえたまま、顔だけを上げた。
目線は鋭いのに怒っていない。
怒っていないのに止める。
父の声が落ちた。
「……呼び方が違う」
呼び方は、誰かをどこへ置くかの言葉だ。
大人が慌てる。
「え、いや……すみません、つい……勇者さま――」
その瞬間、胸の奥が冷える。
“勇者さま”。
それは父の家を、物語の舞台に変えてしまう言葉だ。
父は声を荒げない。
でも線を太くするように言った。
「……今日は父だ」
父。
その二音は、地面に落ちる石みたいに確かだった。
落ちた石は道になる。
道ができると物語の圧は道の外へ押し出される。
大人たちの空気が一瞬止まって、整う。
「……失礼しました。お父さん……」
生活の呼び方。
生活の呼び方は刺さらない。
刺さらないから、私は息を落とさずにいられる。
父はそれ以上言い争わない。
言い争うと物語が育つ。
父は育てない。父は終わらせる。
父は布を替え、結び目を作った。
不格好でもほどけにくい結び目。
ほどけない結び目は、私の胸の糸の結び目と同じだ。
父はミーナの母親へ、短く言った。
「……水で洗うのはこのあと。いまは押さえる」
「はい……はい……」
母親の声は震えている。
震えは怖さの証拠。
でも父は震えを止めろと言わない。
震えてもできる形を渡す。
父は続けた。
「……息を合わせろ。『ふー』だ」
母親が息を吐いた。
ミーナも吐く。
小さな「ふー」が重なる。
重なると、空気が丸くなる。
丸い空気は刺さらない。
遠吠えがまた一本伸びた。
長い線。
でも今は、その線が“遠い”と分かった。
遠いなら、こちらの息の方が近い。
近いものは、私を戻す。
私は布の影で、息を吐いた。
「……ふー」
それは父と同じ形の息だった。
父はミーナを抱き上げない。
抱き上げると痛みが揺れて増える。
父は代わりに、ミーナの体を支えて立たせた。
足を置く位置を、短い言葉で教える。
「……ここ」
「……ゆっくり」
「……よし」
“ゆっくり”は、痛みを追い越さない速度。
追い越さない速度は、怖さを増やさない。
ミーナは涙をこぼしながらも立てた。
立てると輪郭が戻る。
輪郭が戻ると泣き声の角が少し取れる。
父がミーナの顔を覗き込んで言った。
「……言えるか」
ミーナは鼻をすすって、小さく言った。
「……ふー……」
父が頷く。
「よし」
その「よし」は、できた「よし」じゃない。
崩れない「よし」だ。
大人たちが口々に言い始める。
「ありがとうございます……」
「本当に助かりました……」
「さすが……」
言葉が物語へ流れかける。
流れは圧になる。圧は戸口へ寄ってくる。
父はそこで、剣を抜かない代わりに“終わり”を作った。
「……帰る」
たった二音。
でも終わりの線は強い。
強い終わりは、物語を途中で切る。
切るのに、刃は要らない。
父はミーナの母親に向けて、もう一つだけ言った。
「……薬草は役所で。今日は布を替えて休ませろ」
母親が深く頭を下げる。
「はい……本当に……ありがとうございます」
父は礼を物語にしない。
礼が英雄譚になると刺さるから。
父は礼を受け止める代わりに、線を引いた。
「……礼はいらない。子どもを見ろ」
その一言で母親の視線がミーナへ戻る。
戻ると物語の圧が薄くなる。
薄くなると、私は息を落とさない。
ミーナが、戸口の方――私のいる影へ、ちらりと目を向けた。
泣き腫れた目。
でもその目が私を探す目になっている。
私は声を出さない。
外へ言葉を出すのは、まだ重い。
でも息なら出せる。
私は小さく吐いた。
「……ふー」
ミーナは、ほんの少し口を動かした。真似をするみたいに。
「ふー……」
それだけで、胸の奥が温かくなった。
温かさが膨らむ前に、私はもう一度息を吐いた。
「……ふー」
父が戻ってきた。
戻ってくると外の匂いが薄くなる。
薄くなると家の匂いが勝つ。
父は扉を大きく開けない。
線のまま内側へ戻る。
布の壁の結び目を確かめる。
二重の布の影が、外の残り香を吸っていく。
父が短く言った。
「よし」
私はその音で、身体の力が抜けた。
抜けると震えが少し来る。
震えは、さっきまで固かった証拠だ。
父は私の顔を見た。
柔らかい目。
柔らかい目は、私を急がせない。
「……見えたか」
見えた。
剣は見えなかった。父は抜かなかった。
それなのに外の数は止まった。
物語の圧も薄くなった。
私は答えの言葉を持っていなかった。
だから息を吐いた。
「……ふー」
父が頷く。
「……息が出るなら、大丈夫だ」
大丈夫。
父の声で言われると、それは線になる。
線は刺さらない。
父は台所の隅の壁――名前の木札の方へ目を向けた。
木札はそこにある。あると戻れる。
父は木札の前へ歩いた。
いつも通り、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は木札を見上げ、二音を返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
その「よし」で、遠吠えの線は遠い線のままになる。
近い線は家の中にある。
布の影。息。木札。
そして父の「今日は父だ」という短い言葉。
外はまだ広い。
遠吠えはまた伸びるだろう。
でも私は知った。
強さは光る刃じゃない。
強さは、声と沈黙と、終わりを作る線だ。
私は胸の奥の糸を指先で確かめるように、もう一度だけ息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、昼の白い滲みを薄くして、私を今日の内側へ静かに留めてくれた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。




