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第27話 夜に来る“音のない足音”

夜は、音が少ない。


音が少ないと、世界は広くなる。

広くなると、余白が増える。

余白が増えると、私はときどき、自分の輪郭が薄くなるのを感じる。


昼の間は匂いがある。

火鉢の匂い、湯気の匂い、布の匂い、木の匂い。

匂いが揃っていると、私は「ここ」にいられる。


でも夜は、匂いが薄い。

薄い匂いは、遠い光を呼びやすい。


遠い光――星の光。


きらきらしているのに冷たい。

冷たいのに、手を伸ばしたくなる。

手を伸ばした瞬間、私は自分がどこにいるのか分からなくなりそうになる。


だから私は、夜が苦手だ。


父は「夜は大丈夫だ」と言わない。

言わない代わりに、夜の形を作る。

形があると、私は落ちない。


その夜も、父は静かに形を作っていた。


夕餉は薄い味の粥。

薄い味は角が立たない。

角が立たないと、胸が忙しくならない。


父は器を片づけると、布を一枚、二枚と足した。

窓の布。戸口の布。台所の隅の布。

布が増えると光が薄まる。薄まると余白が増えにくい。


最後に父は、壁に掛かった名前の木札の前へ行った。

いつも通り、一度だけ呼吸を置く。


「ルミシア」


名が置かれる。

置かれた名は、私をここへ戻す。


私は布団の上で息を吐いた。


「……ふー」


そして二音を返す。


「……るみ」


父は頷いた。


「よし」


その「よし」があると、夜でも胸の奥に小さな灯りができる。

火を入れない灯りみたいな、刺さらない明るさ。


父は灯りを大きくしない。

大きい灯りは目立つ。

目立つと、外の余白が寄ってくる。


だから夜の灯りは小さい。

火鉢の赤も、布で隠す。

音も、布で丸くする。

父の暮らしは、いつも「大きくしない」で守られている。


布団に入って、父が部屋の角に座った。

私の足元ではなく、少し離れた場所。

離れた場所に座ると、「見張られている」と感じない。


父は支配しない。

父はただ、戻り道になる。


私の髪を撫でる指が、短く止まる。


「……寒いか」


私は頷いた。

寒い、の言葉は重い気がした。

でも頷きは落ちる。落ちるなら、言葉じゃなくても伝わる。


父は布を一枚だけ、私の胸元へ増やした。

刺さらない重さ。輪郭を保つ重さ。


それだけで父は灯りを落とした。


暗さが増えると、世界が広がる。

広がると余白が増える。

増えた余白に、星の冷たさが入り込みやすい。


私は目を閉じて息を吐いた。


「……ふー」


吐けた。

吐けたのに、胸の奥が落ち着かない。


まぶたの裏に、点がひとつ灯る。

小さい点。

小さい点は刺さらない。


――でも。


点が増える。

増えると線になる。

線になると、私は引っ張られる。


星が並ぶ線。

私を観る線。

逃げ場がない線。


胸の糸が一本、ぴんと張った。

張ると息の道が狭くなる。

狭くなると、吐くはずの息が止まりそうになる。


――だめ。


私は布を握りそうになった。

握ると角が痛い。

痛いと胸が尖る。尖ると、星の光が刺さる。


刺さる前に、父の声が落ちた。


「……息」


低い声。急がせない声。

言葉が少ない声。


父が先に吐く。


「ふー」


私は合わせようとして、うまく吐けなかった。

息が途中で細く切れる。

切れると、星の線が太くなる。


父は私を揺さぶらない。肩を掴まない。

ただ、温度でそこにいる。


そして――父の外套の匂いが近づいた。

風と火と木の匂い。

近い匂いは、遠い冷たさを薄める。


父が、何かを床に置く音がした。


ごと、ではない。

布を挟んだ、丸い音。


私は薄く目を開けた。


部屋の角に、小さな箱が置かれていた。

木で作られた箱。蓋があり、側面に小さな穴。

火の匂いがしない。火を入れない箱。


父は箱のそばに座り、蓋をほんの少しだけずらした。


暗いはずの中から、淡い光が漏れた。


光。

それは星の光ではない。

遠いところから落ちてくる光ではない。

箱の中の、近い光。


父は言った。


「……見る」


見る、は怖い言葉だ。

見ると遠い線が入ってくることがある。


でも父が示したのは、遠いものじゃない。

床に落ちる淡い光。

壁に当たってできる、揺れる影。


影は、星の線みたいにまっすぐじゃない。

影は揺れる。

揺れるものは刺さらない。


父が箱の穴を指で少し塞いだ。

光が細くなり、影が縮む。


父が指を離すと、光が広がり、影が伸びた。


伸びたり縮んだりする影は、呼吸に似ている。

吐くと薄まり、吸うと戻る。


父は低い声で言った。


「……火は入れない。眩しくない」


眩しくない光は、目を刺さない。

刺さらないなら、見ていられる。


私は影を見た。

影は布団の端まで伸びて、そこで止まる。

止まるところがある影は、怖くない。


――けれど、まぶたの裏の星はまだ消えない。

遠い線が、影の向こうに重なって見える。


胸の糸がまた張る。

張ると、息が浅い。

浅い息は、吐くことすら難しい。


父は箱のそばで口をすぼめて吐いた。


「ふー」


光がほんの少し揺れて、影が揺れる。

近い揺れ。刺さらない揺れ。


私はその揺れに合わせて吐こうとして――


「……ふ、」


途中で止まった。


止まると胸の奥が冷たくなる。

冷たくなると、星の線が太くなる。


父は言葉を足さない。

足すと私が追いつけない。


代わりに父は、影をもう少し揺らした。

穴を、少しだけ塞いで、少しだけ離す。


伸びる。縮む。

伸びる。縮む。


まるで「ここにいる」と手を振っているみたいに。


私はふと思った。


――影を、自分で揺らせたら。


父が揺らす影は、助ける影だ。

でも私が揺らせたら、影は「私の戻り道」になる。


戻り道。

戻り道は、私の中にあってほしい。


胸の奥が少しだけ熱くなった。

嬉しい熱。

でも嬉しい熱は膨らむと忙しくなる。


忙しくなる前に、思い出す。


先に、息。


「……ふー」


吐けた。

たったそれだけで、星の線が少し薄くなる。


父が私を見る気配がした。

暗いから目は見えないのに、分かる。

父の視線は刺さらない。温度と同じだ。


私は布団から手を出した。

夜の冷えが触れる。冷えは怖い。

でも箱の近い光がある。


私は手を伸ばして、箱の穴の前に指を置いた。


父の手が止まる。

止まるのに、急がせない。


父が低く言った。


「……落ちないくらい」


落ちないくらい。

強くしない。

強くすると角が痛い。痛いと胸が尖る。


私は指を、穴の前へそっと置いた。

全部塞がない。

全部塞ぐと変化が大きすぎる。

変化が大きいと忙しくなる。


少しだけ。

少しだけ塞ぐ。


光が細くなる。

影が縮む。


私は指を少し離した。

光が広がる。

影が伸びる。


影が動いた。

私の指で動いた。


その瞬間、胸の奥で「ここ」が鳴った気がした。

音ではない。

でも落ちる感触。


私は息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、指を支える。

支えると、影の動きが滑らかになる。


縮む。伸びる。

縮む。伸びる。


影は、星の線みたいにまっすぐじゃない。

丸くて、やさしい。


私は影を揺らしながら、もう一度息を吐く。


「……ふー」


不思議だった。

影の動きが増えるほど、まぶたの裏の星が薄くなる。

遠い光が、近い揺れに負ける。


――負ける、じゃない。

近い揺れが胸を満たして、遠い線の入り込む余白がなくなる。


余白がなくなると、冷たさが薄い。

薄くなると、私は息を吸える。


私は箱の影を揺らしながら、父の方へ小さく声を落とした。


「……ふー」


言葉じゃない。

でも「できてる」の合図。


父が短く言った。


「よし」


その「よし」で、嬉しい熱は忙しさにならず落ち着いた。

落ち着くと、私はもう少しだけ試せる。


指の位置を少しずらす。

影の形が変わる。

変わるのに、怖くない。

変化が小さいから。段階があるから。


私は、眠りが近いのを知った。

重さが来る。

でも今の重さは、刺さらない布の重さに似ている。


父が蓋を少し戻し、光をさらに淡くした。

淡い光は、もう影を大きく揺らさない。


それでいい。

大きい揺れは、今はいらない。


父が低く言った。


「……手を戻す」


私は指を穴から離した。

離すとき、名残があった。

名残は怖さじゃない。

「またできる」という小さな熱。


私は布団の中へ手を戻し、胸元の布を指で撫でた。

撫でると形が分かる。

形が分かると、私はここにいる。


父は箱を抱えて部屋の隅へ置いた。

置く音は布が受けて、丸い。

丸い音は胸を忙しくしない。


父は私の額に手を当てた。

熱を測るためじゃない。

温度を渡す手。


「……眠れるか」


言葉は持っていなかった。

でも今日は、落ちるものがある。


私は息を吐いた。


「……ふー」


それで十分だと父は分かる。

父は頷いた。


「よし」


父が立ち上がる気配がした。

去る気配ではない。

落ちないのを確かめてから動く気配。


父は窓の布の端を折った。

折り目を作る。

折り目は線になる。

線があると、夜でも余白が増えにくい。


私はまぶたを閉じた。

暗い。

でも暗い中に、箱の淡い光の名残がある。

名残は刺さらない。


そのとき――


外。

戸口の方から、音がした。


こつ。


ひとつだけ。

足音みたいな音。

でも、群れの数じゃない。

ひとりの音。


私は息が止まりかけた。

止まる前に、吐く。


「……ふー」


父の気配が変わった。

動きが止まる。

止まるのに、慌てない。

慌てない止まり方は、剣より強い。


父が、ほとんど声にならない声で言った。


「……動くな」


その言葉は、私を縛る言葉じゃない。

私を落とさないための線。


外で、また音がする。


こつ。


そして――木が擦れる、細い音。

敷居の線をなぞるみたいな音。


私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。

冷たいのに、星の冷たさとは違う。

“人”の冷たさ。


父は布の影の中で、箱をほんの少しだけこちらへ寄せた。

穴から漏れる淡い光が、床を照らす。


その光の端に――

影がひとつ、増えた。


箱の影じゃない。

父でもない。

私でもない。


戸口の方から伸びる、細い影。


誰かが、外で灯りを持っている。


父の声が、さらに低く落ちた。


「……来たな」


私は息を握った。

強くない。落ちないくらい。


「……ふー」


吐けた息は、薄い影の向こうへ漏れない。

漏れないように、胸の内側にしまう。


父は扉を開けない。

でも、線を引くために立ち上がった。


布が揺れる。

揺れは刺さらない。

刺さらない揺れの中で、父の足音だけが、静かに一つ落ちた。


こつ。


それは、外へ行く音じゃない。

家を守るための、間合いの音だった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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