第26話 「勇者さま」禁止、父は父だ
朝の匂いが揃っているのに、胸の奥が落ち着かなかった。
火鉢の赤い匂い。
湯気の白い匂い。
木の匙の乾いた匂い。
布が光を薄くする――その、薄さの感触。
揃っている。
いつもと同じ。
だから、本当なら私は戻れるはずだ。
なのに、廊下の向こうが、うっすら騒がしい。
音そのものは、まだ小さい。
でも小さい音がたくさん重なると、音は“数”になって胸に来る。
数は余白を増やす。
余白が増えると、私は自分の輪郭を見失いそうになる。
父は鍋の前で口をすぼめ、息を吐いた。
「ふー」
湯気がゆらり、と揺れた。
近い揺れ。刺さらない揺れ。
私は椅子の上で、同じように吐いた。
「……ふー」
息が通る。
喉の奥が少し開く。
開いた場所に、今日は“ざわめき”も一緒に落ちてくる気がした。
父は頷いて短く言う。
「よし」
器を置く音は布が丸くして、火鉢の音は赤が小さくして、父の動きは急がないから角が立たない。
それでも、ざわめきだけは廊下の奥で息をしている。
粥を食べ終えて、父が片づけを始めた頃――戸口の方から、こつ、こつ、こつ、と足音が重なった。
一つ、二つ、三つ。
止まる。
また一つ、増える。
軽い足音も混じっている。
子どもの足音だ。
子どもの足音は本当は怖くない。
でも子どもの足音の後ろに、大人の“当然”が付いてくると怖い。
当然――という空気は、勝手に扉を押し開けようとする。
私は匙を置いて、膝の上で指先を重ねた。
重ねると、指の境目が分かる。
境目が分かると、胸の境目も分かる気がする。
父は片づけの手を止めなかった。
止めないのに、耳だけは戸口へ向いている。
父の耳は、扉よりも線が細い。
細い線で、全部を測る。
片づけを終えると、父は台所の隅の壁へ歩いた。
紐で吊られた小さな板――名前の木札。
父はその前で一度だけ呼吸を置く。
その一拍で、家の空気が「内側」に戻る。
「ルミシア」
私は木札を見上げ、二音を返した。
「……るみ」
父が頷く。
「よし」
その「よし」は、朝の「よし」だ。
でも今日の私は、それだけでは足りない気がした。
外の数が、廊下の奥で増えている。
父は廊下へ向かった。
布の壁の前で立ち止まり、結び目を指で確かめる。
不格好でもほどけない結び目。
その結び目があるだけで、私は“崩れない”を思い出せる。
父は布の壁の向こうを覗かずに、棚から布を一枚取り出した。
いつもより厚い布。
織り目が詰まっている。
触ると、音が吸い込まれる布。
父はその布を、今ある布の壁の内側に重ねた。
二重になる。
影が濃くなる。
濃くなる影は、外の光を薄める。
光が薄まると、余白が増えにくい。
私は父の手元を見つめた。
父の指は急がない。
布を引っ張らない。
布の方を“整える”。
整える動きは、押し込む動きではない。
押し込まない動きは、私の胸を押し込まない。
父は布を重ねると、結び目を増やした。
紐を通して、きゅ、と締める。
きゅ、の音が尖らないように、指が布を挟む。
布が音を丸くする。
父は低い声で言った。
「……今日は、外が多い」
外が多い。
多い、という言葉は怖い。
でも父の「多い」は、怖がらせるための言葉じゃない。
線を引くための言葉だ。
父は続けた。
「……出なくていい。ここで、薄くする」
薄くする。
外を消すのではなく、薄くする。
消そうとすると、外は逆に大きくなる。
薄くするなら、外は外のまま、小さくなる。
父は私の肩に手を置いた。
温度だけの手。
温度は、私の輪郭を溶かさない。
ただ、戻り道を示す。
「……息」
父が先に吐く。
「ふー」
私は合わせて吐く。
「……ふー」
二つの息が重なると、廊下の奥の足音が、少しだけ遠くなる気がした。
遠くなる、というより、厚い布の中に沈む。
沈む音なら、刺さらない。
戸口の方で、ひそひそ声がした。
言葉ははっきり聞き取れない。
でも言葉の形は分かる。
“噂”の形だ。
噂は、言葉が先に歩く。
言葉が先に歩くと、輪郭を削る刃になることがある。
扉の向こうで、誰かが笑った。
「……ほんとに、この辺りにいるって」
別の声。
「……見たって人がいるんだよ。剣の――」
剣。
その単語が、胸の奥をひゅっと狭くした。
剣は怖いものじゃない。
でも剣が“物語”と結びつくと怖い。
物語の圧。
誰かの期待。
誰かの当然。
それが、戸口の線に寄ってくる。
父は扉を開けない。
扉の前に立ち、姿勢だけで“ここまで”を作る。
父の背中は大きいのに、威圧ではない。
間合いの線だ。
戸口の外で、足音がまた増えた。
こつ、こつ、こつ、こつ。
数が、増える。
そして、扉の前で止まった気配。
――こん。
ノックの音になりかけた。
音は小さいのに、胸に刺さりそうになった。
刺さりそうになるのは、音の後ろに「入っていい」があるからだ。
父は、その音が完全になる前に声を落とした。
「……用件は、外で言え」
線の声。
線の声は、扉を押し返さないのに、押し込ませない。
戸口の外の声が、少しだけ弾んだ。
「おお……! おい、やっぱり――」
弾みは怖い。
弾みは物語の圧を膨らませる。
父の声が、さらに低くなる。
「……呼び方は要らない」
外の空気が一瞬止まった。
止まった空気は、次の言葉を探す。
「え、いや……すみません。えっと、えっと……」
ごまかす声。
ごまかす声は人のままだ。
でもその後ろに、期待がまだ立っている。
別の声が割り込んだ。
「ねえ、少しだけでいいんだ。顔だけでも――」
顔だけ。
少しだけ。
それは優しい言葉に見える。
でも優しい言葉が、線を越えようとすることがある。
私は布の影の中で、指先が冷たくなっていくのを感じた。
冷たいのに、家の冷たさではない。
余白の冷たさ。
息が浅くなる。
浅い息は、遠いところの線を呼ぶ。
私は息を探した。
探すより先に、吐く。
「……ふー」
吐けた。
吐けるなら、まだ戻れる。
父の声が落ちる。
「……今日は違う。帰れ」
帰れ。
短い。
短い言葉は、刃にもなる。
でも父の短さは、切るためじゃない。
線を引くためだ。
外の人が、むっとした気配を出した。
「なんだよ、ちょっとくらい――」
その瞬間、父の沈黙が落ちた。
沈黙。
父の沈黙は怖くない。
沈黙は、刃を抜かない代わりの剣になる。
見えないのに、止める。
父は動かない。
扉の線の前で、ただ、呼吸を一つ置く。
「……」
その沈黙で、外の声は言葉を失った。
失った言葉の代わりに、ひそひそ声が走る。
「……やめとけよ」
「……感じ悪いっていうか」
「……でも、ほんとに……」
ほんとに。
ほんとに、は物語の入口だ。
入口が開くと、圧が入ってくる。
父は沈黙を終えて、低く言った。
「……ここは家だ。見物は要らない」
家。
その二音が落ちた時、胸の冷たさが少しだけ丸くなった。
家は、物語じゃない。
家は匂いでできている。
布でできている。
息でできている。
外の人が、少しだけ声を落とした。
「……じゃあ、せめて頼みがある。夜、道が怖くて……」
頼み。
頼みは、刃ではない。
でも頼みが“当然”に変わると、圧になる。
父は短く返す。
「……役所へ行け」
外がざわつく。
「役所って、今さら……」
「だってさ、ここにいるなら――」
いるなら。
その後ろに、物語が立つ。
父は、そこで一段だけ声を落とした。
落とすほど、言葉は強くなる。
強いのに、怒ってはいない。
「……私は父だ」
父。
その言葉が、扉の線を太くした。
太くするのに、扉を開けない。
線は心の中で太くなる。
外のざわめきが、少しだけほどけた。
「……父?」
「え、でも……」
「……ほんとに?」
疑いの声。
疑いは、噂の形。
噂は、何にでも触れる。
私は布の影の中で、胸が忙しくなるのを感じた。
忙しさが膨らむと、息が狭くなる。
狭くなると、私はほどける。
ほどける前に、私は自分の足で台所の方へ戻った。
父は止めない。
止めないのは、私の戻り道を知っているからだ。
台所の隅の壁。
紐で吊られた名前の木札。
私はその前へ行った。
木札は、軽いのに重い。
重いのに刺さらない。
触れると、木の温度が指先に移る。
私は息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、胸の奥の糸を結び直す。
結び直すと、外の声が少し薄くなる。
私は、二音を置いた。
「……るみ」
声に出した二音が、板に当たって落ちる。
落ちる場所がある。
落ちるなら、消えない。
消えないなら、私はここにいる。
その瞬間、戸口の外で、誰かがはっきり言った。
「……勇者さま、少しだけ……!」
その言葉は、噂が形になった言葉だ。
肩書きの言葉。
物語の言葉。
胸がひゅっと冷えた。
けれど、私はもう息を握っている。
握っているのに強くない。
落ちないくらい、の握り。
父の声が、すぐに落ちた。
低い。短い。揺れない。
「……その呼び方は要らない。帰れ」
外の空気が、また止まる。
止まる。
止まると、次に出る言葉が慎重になる。
「……す、すみません。でも……」
父は、そこで扉を叩かせないために一歩だけ近づいた。
近づくが、扉を開けない。
距離の線を置く。
「……叩くな」
たった三音。
でもそれは刃ではない。
“境界の守り”の音だ。
外の人が息を呑む気配。
誰かが小さく言った。
「……やべ、帰ろ」
「……見物してる場合じゃないって」
帰ろ。
その言葉が出ると、圧が少し抜ける。
抜けると、胸の冷たさも抜ける。
足音がばらけていく。
こつ、こつ、こつ。
数が減っていく。
減ると余白も縮む。
縮むと、私は息を吸える。
戸口の外で、最後に子どもの声が聞こえた。
悪意のない声。
「ねえ……ほんとに勇者なの?」
「しーっ!」
子どもは噂を遊びにする。
遊びは刃にならない。
でも大人の噂は、刃の柄を作る。
父は子どもの声には返さない。
返すと物語が育つ。
育つと圧が戻る。
父は、足音が完全に遠ざかるまで扉の前で静かに立っていた。
立ち方が、剣より強いと思った。
剣は抜けば光る。光は目立つ。
目立つものは噂を呼ぶ。
父は目立たない強さで、噂を薄くする。
やがて、外が静かになった。
静かになった瞬間、私は肩の力が抜けた。
抜けると、身体が少し震える。
震えは、さっきまで固かった証拠だ。
固かったものがゆるむと、震えになる。
父が布の壁の前で、結び目を指で確かめた。
二重になった布の影は濃い。
濃い影は、外の残り香を薄める。
父が短く言う。
「よし」
その「よし」は、境界の「よし」。
外を追い払った「よし」ではなく、内側を守った「よし」。
父は台所へ戻ってきて、私を見た。
目が柔らかい。
柔らかい目は、私を急がせない。
「……怖かったか」
私はすぐに言葉を落とせなかった。
怖い、だけでもない。
胸が忙しかった。冷たかった。
でも私は戻れた。
戻れた、を言葉にするには、まだ重い。
だから私は、息を吐いた。
「……ふー」
その息が、返事になる。
父は頷いた。
「……息が出たなら、大丈夫だ」
大丈夫。
ふわふわしているのに、父の声で言われると線になる。
線は刺さらない。
父は私の視線の先――名前の木札を見た。
木札の前に立つ私の影を、父は見ていたのだろう。
父は短く言った。
「……自分で戻ったな」
自分で。
その言葉が胸の奥を熱くした。
熱いのに痛くない。嬉しい熱。
嬉しい熱は膨らむと忙しくなる。
私は先に息を吐いた。
「……ふー」
父が重ねる。
「ふー」
二つの息が重なると、熱は壊れずに落ち着く。
落ち着くと、私は二音を置ける。
「……るみ」
私は、名前の木札の前ではなく、父に向けて二音を落とした。
父に向ける二音は外へ出ない。
でも、外の圧に負けないための二音だ。
父は頷いて言った。
「よし」
その「よし」で、私は今日のざわめきを“家の中”に収められた気がした。
収める。閉じ込めるのではない。
棚にしまうみたいに。
必要な時に取り出せるように、角を丸くして。
父は火鉢に木を一本だけ足した。
火は大きくならない。
大きくすると光が外へ漏れる。
漏れると、人が寄ってくる。
父の暮らしは、いつも“目立たせない”で守られている。
それは弱さではない。
剣を抜かない強さ。
私は布の壁の方を見た。
二重になった影は濃い。
濃い影の中で、戸口の余白は小さくなっている。
小さくなった余白なら、息を落とさない。
息を落とさないなら、私は私の輪郭を保てる。
父は台所の隅の壁へ歩いた。
いつもの場所。
名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
名が置かれる。
名が置かれると、私は“噂”の中の誰かではなく、ここにいる私になる。
私は木札を見上げ、二音を返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
外はまだ大きい。
噂は足がある。
肩書きは風みたいに戸口へ寄ってくる。
それでも、二重の布の影と、息と、木札がある。
そして何より、父が線を引く。
私は胸の奥の糸を指先で確かめるように、もう一度だけ息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息は、ざわめきの残り香を薄くして、私を今日の内側へ静かに戻してくれた。
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