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第25話 一語でいいって言われた

朝は、湯気が先に息をする。


火鉢の赤が小さく鳴って、鍋の底の温度がゆっくり上がり、白い湯気がふわりと立ちのぼる。

湯気は遠い光ではなく、近い揺れだ。近い揺れは刺さらない。刺さらないものは、胸の奥の糸をほどかない。


父が鍋の前で口をすぼめて吐いた。


「ふー」


湯気がゆらり、と揺れた。

私は椅子の上で、その揺れに合わせた。


「……ふー」


息が通ると、喉の奥が少しだけ開く。

開くと、言葉が落ちる場所ができる。

言葉は、落ちる場所がないと途中で欠けて、欠けた端が胸に刺さる。


父は頷いて、短く言った。


「よし」


器を置く音は布が丸くして、匙の音は木が柔らかくして、父の動きは急がないから角が立たない。

私は粥を食べ、湯を飲み、息を吐いて、朝の形を胸にしまう。


片づけが終わると、父は台所の隅の壁へ歩いた。

紐で吊られた小さな板――名前の木札。

父はその前で一度だけ呼吸を置く。たった一拍で、家の空気が整う。


「ルミシア」


名が置かれる。

置かれる名は重いのに刺さらない。重さは私の輪郭になる。


私は木札を見上げて、二音で返した。


「……るみ」


父は頷いた。


「よし」


それで、今日の私は少しだけ戸口の方を思える。

戸口は余白が増える場所で、今も怖い。けれど、怖いだけではない匂いも混ざっている。

花の匂いと、土の匂い。人の声の匂い。


廊下の布の壁は、朝の風でほんの少し揺れていた。

揺れは硬い正しさにならない。硬くないものは刺さらない。


その揺れの向こうで、足音が止まった。


こつ、こつ。


軽い足音。

止まり方が乱暴ではない。止まり方が丸いと、胸は固まりにくい。


扉の向こうで、明るい声が弾んだ。


「るみー! いるー?」


呼び名が、外から来る。

外から来る二音は、胸を温めることもある。温めると嬉しい。

でも嬉しいは、膨らむと忙しくなる。忙しくなると息が浅くなる。


私は先に吐いた。


「……ふー」


父は扉を大きく開けない。線のまま、声を落とす。


「……ここだ。声は小さく」


「うん! ちいさくする!」


すぐに小さくできる声。

合わせてくれる声。

合わせてくれる声は、私を物語にしない。


父は布の壁の内側で、私の肩に手を置いた。押さえつけない温度の手。

温度があると、余白が薄くなる。


扉の向こうで、花の匂いが少し濃くなった。

石がころり、と鳴る。花が置かれた音。

音が小さいと、私は受け取れる。


ミーナの声が、すぐ続けて来た。


「ねえねえ、るみ! きょうね、しつもんしてもいい?」


質問。

その言葉だけで、胸の奥が少し忙しくなる。

質問は言葉を呼ぶ。言葉は、形がないと糸になる。


父は私の呼吸を見て、低い声で言った。


「……いい。出せる分だけ」


出せる分だけ。

その言い方が、私の胸を丸くする。


扉の向こうで、ミーナが嬉しそうに息を吸った。


「じゃあね、るみの、すきな“いろ”は?」


色。

色は、きれいだ。きれいは好きだ。

でも「すき」は重い。重い言葉は形がいる。

頭の中に色が溢れて、溢れると胸が忙しくなる。


父の声がすぐ落ちた。


「……ひとつ。単語ひとつでいい」


単語ひとつ。

ひとつなら、持てる。


私は口の中で、色をひとつだけ選んだ。

空の色。布の影の色。

刺さらない色。


息を吐く。


「……ふー」


そして、落とす。


「……あお」


短い。

短いと落ちる。落ちると胸に残る。


扉の向こうで、ミーナがぱっと笑った気配がした。


「うわ! あお! そらのいろ! いいね!」


いいね、は嬉しい言葉だ。

嬉しいが膨らむと忙しくなる。

私は息を吐いて、膨らみを丸くする。


「……ふー」


父が小さく頷いた。

その頷きが「いまのでいい」の合図になる。


ミーナはすぐに次の質問を投げた。


「じゃあじゃあ、すきな“はな”は? きょうのおはな、すき?」


花。

花は匂いだ。匂いは刺さらないこともある。

でも花の名前は知らない。知らないと、言葉が落ちない。


胸がきゅっと狭くなる。

狭くなる前に、父が先に線を作った。


「……分からないなら、感じでいい」


感じでいい。

それなら、探しすぎなくていい。


私は花を思い浮かべた。

薄い花びら。器の水に揺れて、音を立てない花。

そのままの感覚をひとつ。


息を吐く。


「……ふー」


そして、落とす。


「……きれい」


扉の向こうで、ミーナの声が少しだけ小さくなった。

大きくしないで受け取ってくれる。


「きれい、だね。うん、きれい!」


“だね”。

同じ場所に置いてくれる言い方。

それだけで、胸がほどけない。


ミーナは楽しそうに続けた。


「じゃあね、すきな“におい”は? におい、いっぱいあるよね!」


いっぱい。

いっぱいは怖い。いっぱいは余白を増やす。


火鉢の匂い、木の匂い、湯気の匂い、布の匂い、土の匂い、花の匂い。

並ぶと迷う。迷うと息が浅くなる。


父の手が、私の肩にもう少しだけ重なった。

重なるけれど、押さえつけない。

「ここにいる」の重なり。


父が言った。


「……ひとつ。いま、いちばん近い匂い」


近い匂い。

近いなら、選べる。


私は鼻の奥で、台所の湯気を思い出した。

湯気の匂いは、熱ではなく「戻り」の匂いだ。


息を吐く。


「……ふー」


そして、落とす。


「……ゆげ」


湯気。

言葉が落ちた瞬間、胸が少し温かくなった。

温かさが膨らむ前に、また息を吐く。


「……ふー」


ミーナが嬉しそうに笑った。


「ゆげ! ごはんのときの? あったかいの!」


あったかい。

私も知っている言葉。

でも返事を長くすると糸になる。


父が小さく言った。


「……うなずきでもいい」


私はうなずいた。

うなずきは、いまの私の言葉だ。


ミーナがまた尋ねる。


「じゃあ、すきな“あじ”は? あまい? しょっぱい? すっぱい?」


選択肢が並ぶと、選べる。

三つだけなら持てる。


私は干し果実の甘さを思い出した。

甘さは近い。近い甘さは刺さらない。


息を吐く。


「……ふー」


「……あまい」


ミーナの声が弾みかけて、でも小ささを守る。


「あまい! わたしも!」


それから、ちょっと考えて、次を投げてくる。


「じゃあね、すきな“おと”は?」


音。

音は怖い。

音は尖る。尖ると胸が切れかける。


私は固まりかけた。

固まりかけた瞬間、父が息を落とす。


「……息」


父が先に吐く。


「ふー」


私は合わせて吐く。


「……ふー」


息が通ると、音の角が少し丸くなる。

丸くなると、刺さらない音が見えてくる。


布が受ける器の音。

湯気が揺れる見えない音。

父の「よし」の音。


その中で、いちばん刺さらないのを選ぶ。


息を吐く。


「……ふー」


そして、私は言葉じゃなく、音そのものを置いた。


「……ふー」


扉の向こうで、ミーナが一瞬だけ不思議そうにして、すぐ笑う。


「えっ、ふー! それ、すきなおとなんだ!」


私はうなずいた。

うなずくと、胸が少し軽くなる。


ミーナも真似をして、息を吐いた。


「ふー」


扉の線を挟んで、同じ音が重なる。

重なるのに、余白は増えない。

線があるから。布があるから。父の手があるから。


でも、ミーナの元気は尽きない。

元気は悪いことじゃない。

ただ、元気が続くと、質問も続く。

続くと、私の胸は忙しくなる。


ミーナが嬉しそうに言った。


「じゃあじゃあ、つぎ! すきな“いきもの”は? ねこ? とり? うさぎ? それとも――」


言葉が増えていく。

増えると糸が絡まる。絡まると痛い。


息が浅くなりかけたところで、父が線を置いた。

声は荒げない。短く、はっきり。


「……ここまでだ」


ここまで。

終わりの線。

終わりがあると、私は勝利を落とさずに持てる。


扉の向こうで、ミーナが「えっ」と言いかけて、すぐ小さくした。


「……あ、ごめん。いっぱい、しつもんしちゃった」


ごめん、が刺さらないのは、ミーナが本当に困っているからだ。

困っている声は、人のままだ。


父は少しだけ柔らかく言った。


「……悪くない。ただ、忙しくなる」


忙しくなる。

父は私を代弁しないけれど、状況を説明してくれる。

説明は線になる。線は刺さらない。


ミーナはすぐに頷くみたいに言う。


「じゃあ、さいごに、ひとつだけ!」


一つだけ。

線の中の一つだけ。


「るみ、きょうの“おはな”――すき?」


好き。

好きは重い。重いと糸になる。

でも、ひとつだけ。ひとつなら、置けるかもしれない。


私は花を思い浮かべた。

押し込まない花。音を立てない花。

ただそこにいる花。


息を吐いた。


「……ふー」


そして、落とした。


「……すき」


言い切った瞬間、胸の奥が熱くなった。

熱は嬉しい熱。嬉しい熱は膨らむと忙しくなる。

私はすぐにもう一度吐く。


「……ふー」


父が短く言った。


「よし」


扉の向こうで、ミーナの声が泣き笑いみたいに柔らかくなる。


「……うん。すき、っていってくれた。うれしい。るみ、ありがとう」


ありがとう。

温かい言葉。

でも今日は長く返さない。長くすると糸になる。


私は息を吐いた。


「……ふー」


返事は、二音だけ置いた。


「……るみ」


“私はここにいる”の二音。

それだけでいい。


ミーナがすぐに合わせる。


「うん、るみ! じゃあ、またね。おはな、みず、あげてね!」


水。

水は音を連れてくる。

でも今日は、水が怖いだけじゃない。守るためのひとしずくだ。


父が代わりに返す。


「……分かった」


扉の向こうで足音が遠ざかる。


こつ、こつ、こつ。


余白が小さくなる。

小さくなると、私は深く息を吸えた。


父は扉を閉め、布の壁を整えた。

結び目を指で確かめる。

不格好でもほどけない結び目。


父が短く言った。


「よし」


台所に戻ると、火鉢の赤がまだ小さく息をしていた。

家の匂いが揃うと、さっきの言葉の多さも、胸の中で尖らずに収まる。


私は自分の手のひらを見た。

今日、私は単語をいくつ置いた?

「あお」「きれい」「ゆげ」「あまい」「すき」。

短い言葉を置いただけなのに、胸に残っている。

残っているということは、落ちなかったということだ。


父は湯を注ぎ、小さな器を私の前に置いた。

底に布が敷かれて、音が丸い。

丸い音は、私の呼吸を邪魔しない。


父が言った。


「……単語は、石だ」


石。

石は投げると痛い。

でも置けば、道になる。


父は続けた。


「……文章は、まだ重い。いまは、石をひとつずつ置けばいい」


ひとつずつ。

段階。

段階があると、私は進める。進んでも崩れない。


私は湯気を見て、息を吐いた。


「……ふー」


父が重ねた。


「ふー」


二つの息が重なると、胸の忙しさが丸くなる。

丸くなると、今日の「すき」も、痛くない場所に落ち着く。


父は台所の隅の壁へ歩いた。

名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。


「ルミシア」


名が置かれる。

名が置かれると、私は今日の言葉を落とさず持てる。


私は木札を見上げ、二音で返した。


「……るみ」


父は頷いた。


「よし」


その「よし」を胸にしまって、私はもう一度だけ息を吐いた。


「……ふー」


短い言葉でいい。

ひとつでいい。

置いた石は、私の道になる。

道があるなら、戸口の向こうの声に触れても、私は戻れる。


湯気が揺れて、花が器の中で静かに揺れた。

私はその揺れを見ながら、今日の自分の輪郭をそっと確かめた。


――そのとき。

戸口の外で、さっきより重い足音が、いちどだけ止まった気がした。


こつ。


私は息を探して、先に吐いた。


「……ふー」


父の手が、布の壁の結び目に触れる。

不格好でもほどけない線を、もう一度だけ確かめるように。


「……よし」


その「よし」は、今までより少しだけ低かった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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