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第24話 「勇者さま」は要らない

戸口の向こうから、言葉が刺さった。

――「勇者さま」。


その音が来る前に、朝の匂いで私は形を作っていた。


火鉢の赤い匂い。

木の匙が器を撫でる匂い。

湯気が白くほどける匂い。

布が光を薄くして、音を丸くしてくれる匂い――そんなものはないはずなのに、私は「薄さ」を匂いで分かる。


匂いが揃うと、胸の奥の糸がほどけきらずに済む。

ほどけきらない糸は、私の輪郭になる。


父は鍋の前で、口をすぼめて息を吐いた。


「ふー」


湯気が、ゆらりと揺れた。

遠い光のきらめきではなく、近い揺れ。

近い揺れは刺さらないから、私はその揺れに合わせて吐く。


「……ふー」


息が通ると、喉の奥が少しだけ開く。

開くと、言葉が落ちる場所ができる。

言葉は、落ちる場所がないと途中で欠けて、欠けたまま胸に刺さる。


父は頷いて、短く言う。


「よし」


その「よし」は、できた「よし」ではなく、戻れた「よし」。

私はその種類の「よし」なら、胸に入れられる。


粥を食べ、器が重ねられ、布が畳まれ、台所が元の静けさに戻る。

静けさは薄い。薄いものは刺さることもある。

でも家の静けさは、布で包まれているから刺さらない。


父は台所の隅の壁へ歩いた。

紐で吊られた小さな板――名前の木札。

父はその前に立つと、必ず一度だけ呼吸を置く。呼吸が置かれると、家の空気が整う。


「ルミシア」


名が置かれる。

置かれる名は、重いのに刺さらない。


私は木札を見上げ、二音で返した。


「……るみ」


父は頷いた。


「よし」


朝の形ができた、そのすぐ後だった。


廊下の奥――戸口の方から、風の匂いが薄く混ざった。

冷たい匂い。土の匂い。

それに、知らない匂いが少しだけ重なる。


知らない匂いは、余白を連れてくる。

余白は何でも入ってくる。

何でも、私をほどいてしまう。


私は椅子の脚を指先で触って、木の硬さを確かめた。

確かめると、考えが小さくなる。

小さい考えなら、持てる。


そのとき、戸口の外で足音が止まった。


こつ、こつ。


軽い足音じゃない。

大人の足音。重みがあり、迷いが少ない。

迷いのない足音は、ときどき「当然」を連れてくる。

当然は、物語の圧になることがある。


胸がきゅっと狭くなりかけた。


父が先に息を吐く。


「ふー」


私はすぐに合わせた。


「……ふー」


二つの息が重なると、狭さは狭さのまま、刺さりにくくなる。


扉の向こうで、声がした。


「失礼いたします……!」


丁寧な声。

でも丁寧さの奥に、硬い芯がある。

硬い芯は、呼び方の匂いだ。


父は扉を開けないまま、低く返した。


「……用件は」


線の声。

線の声は押し返さないのに、押し込ませない。


外の声が、少しだけ上ずる。


「勇者さま……っ」


その言葉が落ちた瞬間、私の胸の糸が一本だけ引っ張られた。

“勇者さま”。

それは父の形じゃない。

父を父ではなく、物語の中の人にする言葉。


物語の圧。

物語の圧は、私の輪郭を薄くする。

薄くなると、遠い線に引っ張られる。

遠い線は冷たい。


私は息を探した。探す前に吐く。


「……ふー」


父は声を荒げない。けれど、はっきりと線を置いた。


「……その呼び方は、要らない」


扉の向こうの空気が、一瞬止まった気がした。


「え……あ、申し訳ありません。英雄さま……いえ、アレイオスさま……?」


英雄。

英雄も同じ匂いを連れてくる。

立派な言葉は、立派な場所へ父を連れて行こうとする。

父はそこへ行かない。父は家にいる。


父の返事は短い。


「……私は父だ」


父。

その二音が落ちたとき、胸の狭さが少し広がった。

父は自分の場所を自分で決める。

場所を決められる人は、怖くない。


外の声は慌てた。


「……ええ、ええ。失礼しました。お父さまにお願いが……」


お願い。

お願いは刃ではない。

でもお願いが“当然”を連れてくるときがある。

“英雄なら当然”。

当然は、怖い。


父は扉の線を守ったまま、低く言う。


「……話せ」


外の人は息を整えたみたいに、一拍置いてから言った。


「実は……この近くで、夜になると荷車の音がして……。子どもが怖がって眠れなくて……。見回りの方々に頼んだのですが、巡回の順があり……それで、もし――」


言葉が途中でほどける。

ほどけた言葉の隙間から、期待が滲む。

期待は肩書きを呼ぶ。肩書きは父を物語にしようとする。


私は布の壁の影へそっと下がった。

影に入ると、戸口の余白が薄くなる。

薄くなると、胸が忙しくならない。


父は沈黙した。

沈黙は怖いこともある。

でも父の沈黙は、線になる沈黙だ。

相手の言葉を飲み込まないための沈黙。


やがて父が、ゆっくりと言った。


「……それは、兵の役目だ」


外の声が少し焦る。


「ですが、皆さまお忙しく……それに、あなたなら……」


“あなたなら”。

その後ろに剣の影がある。

剣が物語の圧に繋がると、怖い。


父は剣を抜かない。

声と間合いで止める。

今も同じだった。


父は一段だけ声を落とし、硬くした。


「……ならない」


たったそれだけ。

たったそれだけなのに、扉の向こうの空気が少し整っていくのが分かった。


外の人が息を呑む気配。

それから、丁寧に言い直す。


「……失礼しました。では、どうすれば……」


父の返事は拒絶じゃない。道を示す返事だった。


「……夜の音なら、灯りを戸口に置け。音は影が薄める。子どもには、息を教えろ。『ふー』だ」


父の言葉が生活の言葉になると、物語の圧は弱くなる。

“英雄の解決”ではなく、“父の工夫”になる。

工夫は刺さらない。


外の人が、戸惑いながら言った。


「……息、ですか」


父が短く言う。


「……息は、戻り道だ」


戻り道。

その言葉が胸に落ちて、指先が少し温かくなった。

戻り道があるなら、外の言葉も全部は怖くない。


外の人が、小さく笑った気配がした。

侮る笑いじゃない。困った笑い。

困った笑いは、人のままだ。


「……分かりました。ありがとうございます。……あの、最後に一つだけ」


父は返さず、沈黙で許可した。


外の人は声を少し柔らかくした。


「あなたの……お子さんは、お元気でしょうか。噂で……星のような瞳の子がいると……」


噂。

噂は、物語の入口だ。

入口は輪郭を薄くする。

薄くなると、遠い線が入り込む。


胸がきゅっと狭くなった。

狭くなる前に吐く。


「……ふー」


父の声がすぐ落ちる。低い。短い。はっきり。


「……この家のことは、口にするな」


線。

父の線は扉よりも強い。

強いのに押さえつけない。

ただ、ここまで、を示す。


外の人はすぐ息を引いた。


「……申し訳ありません。軽率でした。……では、失礼いたします」


足音が一歩下がる。

こつ。こつ。


遠ざかると、余白が少し縮む。

縮むと、私は息が吸える。


扉の外で、最後に小さな音。

布が擦れる音。

そして、紙の匂い。


「……これ、子どもさんに。干し果実です。……受け取っていただけたら」


干し果実。

食べ物の言葉は生活の言葉だ。

生活の言葉は刺さらない。


父は間を置いて言った。


「……礼はいらない」


礼は、物語の圧になりやすい。

借りを作ると、次が生まれる。

次が生まれると、圧が増える。


外の人が慌てて言う。


「いえ、これは……ただ、子どもの分です。……どうか」


父の沈黙は考える沈黙だ。押し返す沈黙じゃない。


やがて父が短く言った。


「……受け取る。だが、呼び方は改めろ」


外の声が深く頭を下げたみたいに低くなる。


「……はい。アレイオスさま。……本当に、失礼しました」


足音が去っていく。

遠くなる。

遠くなると、戸口の外の匂いが薄くなる。

薄くなると、家の匂いが勝つ。


父は扉を開けないまま、外に置かれた包みを手だけで取り入れた。

線のまま。線を太くしない。

余白を増やしすぎない。


扉が閉まり、布の壁が下りる。

結び目が確かめられる。

不格好でもほどけない結び目は、今日も私を守る。


父が短く言った。


「よし」


その「よし」は、境目を守る「よし」だ。


父は台所へ戻り、包みを布の上に置いた。

置く音が丸い。丸い音は、胸を忙しくしない。


包みを開けると、干し果実の匂いがふわっと広がった。

甘い匂い。太陽の匂い。

太陽の匂いは、星の冷たさとは違う。


父は私を見た。目が柔らかい。柔らかい目は私を急がせない。


「……怖かったか」


私はすぐに頷けなかった。

怖い、だけじゃない。胸が狭くなった。

でも父の声が線になって、狭さを広げた。

それも同時に胸にある。


私は息を吐いてから、二音を落とした。


「……ふー」


それが答えになったのだろう。

父は頷いて言った。


「……言葉は、刃にもなる」


刃。

言葉の刃は見えない。

見えない刃は、怖い。


でも父は続ける。


「……だから、線が要る。扉も、布も、呼び方も」


呼び方は、相手の手がどこに触れるかを決める。

肩書きで呼ばれると、父は物語に触られる。

父が父でなくなる。


父は干し果実を一つ取り、私の掌に置いた。

温度がある。固いけれど刺さらない硬さ。

噛めば甘くなる硬さ。


父は短く言う。


「……父は、ここだ」


ここ。

家の匂いの中。布の影の中。

名前の木札のある場所。


私は干し果実を握りそうになって、力を抜いた。

落ちないくらい。強くない。

父の言葉が、私の指を整える。


私は小さく言った。


「……ちち」


不格好でも、落ちた。

落ちる場所があった。


父は驚かない。

大げさに喜ばない。

私が忙しくならない大きさで、頷く。


「……よし」


その「よし」は、胸の奥を温めた。

温めても、ほどけない温かさ。


私は干し果実を口に入れた。

甘い。

甘さは遠いものではなく、近いものだ。

近い甘さは刺さらない。


父は器に湯を注いだ。

湯の音が小さい。

小さい音は、今日の硬さを丸くする。


私は湯気を見て、息を吐いた。


「……ふー」


父が重ねる。


「ふー」


二つの息が重なると、さっきの「勇者さま」という言葉の角が少し丸くなる。

丸くなると、胸が痛まない。


父は台所の隅の壁へ歩いた。

名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。

呼吸が置かれると、家の空気が整う。


「ルミシア」


その音は、私の輪郭を戻す音。

私は木札を見上げ、二音で返した。


「……るみ」


父は頷いた。


「よし」


その「よし」で、今日の出来事は家の中に収まった。

物語の圧は外に置いてきた。

肩書きの風も、扉の線で薄くした。


戸口の向こうはまだ大きい。

けれど父は、剣ではなく線で、私と家を守る。

呼び方一つで世界が変わることを、私は今日、胸の奥で覚えた。


私はもう一度だけ息を吐いた。


「……ふー」


吐けた息が、戸口の外の硬い言葉を、私の中に入れすぎないように静かに支えてくれた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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