第23話 糸を紐にする結び目
朝の匂いは、いつも同じ形をしている。
火鉢の赤の匂い。
木の匙が器を撫でる匂い。
湯気が白くほどける匂い。
布が光を薄くする匂い――そんなものは本当はないはずなのに、私は「薄い匂い」が分かる気がする。
匂いが揃うと、胸の奥の糸がほどけきらずに済む。
ほどけきらない糸は、私を私のまま保つ。
父は鍋の前で口をすぼめ、息を吐いた。
「ふー」
湯気が、ゆらり、と揺れる。
遠い光のきらめきではなく、近い揺れ。
近い揺れは刺さらない。
私はその揺れに合わせて、椅子の上で吐いた。
「……ふー」
息が通ると、喉の奥が少しだけ開く。
開くと、言葉が落ちる場所ができる。
言葉は、落ちる場所がないと途中で欠けてしまうから。
父は頷いて短く言う。
「よし」
その「よし」は、できた「よし」ではなく、戻れた「よし」。
私はその種類の「よし」なら、胸に入れられる。
粥を食べ終えるころ、台所の窓の布が風に少しだけ揺れた。
揺れがあると、静かすぎる怖さが薄まる。
静かすぎると、遠いところの視線を思い出してしまうことがあるから。
父は片づけを終えると、台所の隅の壁へ歩いた。
紐で吊られた小さな板――名前の木札。
父はその前に立つと、必ず一度だけ呼吸を置く。呼吸が置かれると、家の空気が整う。
「ルミシア」
名が、置かれる。
置かれる名は、重いのに刺さらない。
私は木札を見上げて、二音で返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
朝の形が完成すると、私は少しだけ戸口の方を見られる。
戸口は余白が増える場所で、怖い。
でも戸口の前には、今は花の匂いがある。土の匂いもある。
刺さらない匂いが、線の向こうにもある。
私は椅子から降りて、布の上を歩いた。
床が冷たくない。冷たくないと急がずに済む。
急がないと、心が追いつける。
廊下へ向かう途中、父が棚から木片を取り出しているのに気づいた。
薄い板。掌に収まる大きさ。
木の目がまっすぐで、角が削られている。
父はそれを卓の上に置いて、少しだけ眺めた。
眺める、というより、呼吸を合わせるみたいに。
父の指先が木に触れると、木が生活のものになる。
生活のものは、物語になりにくい。
父は小さな刃物を取り出した。
剣ではない。
光らない刃。
光らない刃は、怖くない。
父は木片を押さえ、静かに線を刻み始めた。
しゃり、しゃり。
木の粉の匂い。
削る音は尖りそうなのに、父の手つきが尖らせない。
音も、父の「間合い」の中に入ると丸くなる。
私は指先を布に沿わせながら、その音を聞いた。
音に角ができないように、胸の中で息を動かす。
「……ふー」
父はそれを聞いて、頷くだけだった。
頷きは私の呼吸を邪魔しない。
木片の上に、黒い線が増えていく。
私は文字を全部読めない。
でも線の形を、少しずつ覚え始めている。
それは「ここに置かれたもの」だと分かる形だ。
そこへ――戸口の外から足音がした。
こつ、こつ。
軽い足音。
止まり方が乱暴じゃない。
止まり方に角がないと、胸が固まりにくい。
扉の向こうで、明るい声が弾んだ。
「るみー! いるー?」
“るみ”。
私の二音が、外から届く。
怖いはずなのに、胸の奥がじんと温かい。
温かさは、忙しさにもなる。
忙しさは息を狭くする。
私は先に吐いた。
「……ふー」
父が、扉を大きく開けないまま答えた。
線のまま、声だけを落とす。
「……ここだ。声は小さく」
「うん! ちいさくする!」
父は、線を守ることで外を拒まない。
拒まないのに、押し込ませない。
それが父の強さだと、私は思う。
土の匂いと、青い匂いが少し濃くなる。
ミーナは今日も花を持ってきたらしい。
「きょうね、これ。ちっちゃいの。かわいい!」
父が短く言う。
「……置け」
石がころり、と鳴った。
花が戸口の前に置かれる音。
音が小さいと、私はそれを受け取れる。
父は扉の線を閉じたまま、私の方へ戻ってきた。
戻ってくると外の匂いが薄くなる。薄くなると胸が広がる。
父は卓の上の木片を指先で撫で、私を見た。
柔らかい目。柔らかい目は私を急がせない。
「……ミーナは、よく『るみ』と呼ぶ」
私は頷いた。
頷くと喉が固くなる前に、息を吐いた。
「……ふー」
父は小さく頷いて続ける。
「……呼び名は、紐になる。けれど、乱れると糸になる」
糸。
糸は絡まる。絡まると、胸の糸も絡まる。
絡まった糸は、ほどける時に痛い。
父は「怖いから閉じろ」と言わない。
父はいつも「形を作れ」と言う。
父は、今刻んでいた木片を持ち上げた。
黒い線で刻まれた名。
「ミーナ」
父が音を置く。
線の上に音が置かれると、それは“言葉”ではなく“居場所”になる。
父は続けた。
「……これは、ミーナの木札だ。ここで聞いた印」
印。
外の決まりの印じゃない。
生活の中で、忘れないための印。
押しつけない印。
父はもう一つ木片を取り出した。
同じ大きさ。
同じ角の丸さ。
そして、刃先を少しだけ止めた。
「……『るみ』」
父が言った瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
私の二音が、木に刻まれる。
しゃり、しゃり。
削られる音は、言葉が形になる音。
私は息を吐いて、胸の糸の張りを整えた。
「……ふー」
父の刃が止まる。
木片の上に、黒い線が置かれる。
私の二音の形。
父はそれを見せるように、私の前へ差し出した。
「……呼び名の木札だ」
呼び名。
名前の木札は壁に掛かっていて、私を戻す。
でも呼び名の木札は、私の手の中に置かれるものらしい。
父は紐を通し、結び目を作った。
不格好で、でもほどけにくい結び目。
ほどけない結び目は、私の呼吸の形に似ている。
父は木札を私の掌に乗せた。
木の温度が、少しあたたかい。
父の手の温度が移ったあたたかさ。
私は握りしめそうになった。
握ると角が痛い。痛いと心が尖る。
尖る前に、父の声が落ちた。
「……強くない。落ちないくらい」
落ちないくらい。
その言葉で、私は指の力を抜いた。
抜くと、木札は刺さらない。
紐が指に触れる。
その感触が、言葉の紐みたいだと思った。
紐は結べば戻れる。結べば散らばらない。
その時、戸口の外から、ミーナの声がまた届いた。
「るみー! おはな、みた? きょうね、ちょっとね……」
声がためらう。
ためらいは、違う言葉が出てくる前触れの匂いを連れてくる。
「……るーちゃん、って呼んでもいい?」
“るーちゃん”。
軽い。可愛い。
でも軽い言葉は、ときどき私を風みたいにほどいてしまう。
ほどかれると輪郭が薄くなる。薄い輪郭は、遠い線に引っ張られる。
胸がきゅっと狭くなった。
狭くなると息が浅くなる。
浅い息は、言葉を落とせない。
私は手の中の木札を見た。
黒い線で刻まれた「るみ」。
その形が、胸の中の糸を一度だけ結び直した。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が、扉の線の向こうへ声を落とした。
「……呼び方は、乱さない」
叱っているのに刺さらない。
父の声は線になる。
線は、私を守るためにある。
ミーナがすぐに言い直す。
「うん! じゃ、るみ! るみ、でいい!」
その「でいい」は投げやりじゃない。
合わせてくれる「でいい」。
私の形を、私の形のまま持ってくれる言い方。
胸の狭さが少し広がる。
広がると、私は言葉を落とせる。
私は息を先にする。
「……ふー」
そして、木札を握りすぎないように持って、口を動かした。
「……るみ」
外へ出た二音は、小さい。
小さいから落ちない。
落ちないから刺さらない。
扉の外で、ミーナの声が弾んだ。
大きくなりかけて、すぐ小さくなる。
「うん! るみ! ごめんね、へんなの言っちゃった!」
へんなの、じゃない。
悪くない。
でも私には“形”が必要だ。
形がないと、言葉は糸になって絡まるから。
私はうまく言えない。
だから、代わりに息を吐いた。
「……ふー」
それは返事みたいだった。
父はそれを聞いて、短く言った。
「よし」
父は扉を線のまま少しだけ開け、花を受け取った。
花の匂いが家の匂いに混ざる。
混ざっても刺さらない。
父は花を器に挿し、水を足した。
水の音が小さい。
小さい音は、胸を忙しくしない。
ミーナの声が、もう一度戸口から届く。
「ねえ、るみ。きょうね、いっしょに“おはな番”しようよ!」
“おはな番”。
番をする。守る。育てる。続ける。
続くことは怖いこともある。
でも、守ることは温かい。
私は木札を見た。
呼び名の木札。
「るみ」が、そこにある。
そこにあると、続きの言葉が絡まりにくい。
私は言葉を探す代わりに、二音をもう一度置いた。
「……るみ」
それだけでいい。
今の私は、それだけで形になる。
扉の外で、ミーナが嬉しそうに笑った。
「うん! るみ! じゃあ、またね!」
足音が遠ざかる。
こつ、こつ。
遠ざかると余白が小さくなる。
小さくなると、私は深く息を吸えた。
父は扉を閉め、布の壁を整えた。
結び目を指で確かめる。
不格好で、でもほどけない結び目。
父が短く言った。
「よし」
その「よし」は、境目を守る「よし」。
台所へ戻ると、花が器の中で静かに揺れた。
揺れは硬い正しさにならない。
硬くないから、刺さらない。
父は私の掌の木札を見て、低い声で言った。
「……持てたな」
持てた。
言葉の形を、手で持てた。
持てると、外の言葉に引っ張られにくい。
私は木札の紐を指でなぞった。
紐は細い。
細いのに、ほどけない結び目がある。
結び目があると、細さは怖くない。
父は台所の隅の壁へ歩いた。
名前の木札の前。
いつも通り、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は木札を見上げた――けれど、今日は少しだけ違うことをした。
父の声が終わる前に、胸の中で息を整える。
「……ふー」
そして、自分から二音を置いた。
「……るみ」
家の中に落ちた二音は逃げない。
逃げないから、私の輪郭も逃げない。
父は頷いた。
「よし」
大きくしない褒め方。
私が忙しくならない大きさ。
私は手の中の木札を見た。
黒い線で刻まれた「るみ」。
それは私の全部ではない。
でも今の私が、落とさずに持てる私だ。
外はまだ大きい。
言葉は時々、糸になって絡まる。
絡まった糸は痛い。
けれど木札の形があると、言葉は紐になる。
紐は結べば戻れる。
戻れるなら、外の声に触れても、私は私のままでいられる。
私は小さく息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、木札の紐をもう一度だけ結び直すみたいに、胸の中を静かに整えてくれた。
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