第22話 爪先ひとつの勇気
敷居は、木の線だ。
床と外のあいだに一本だけ走る、細い境目。
扉が閉まっていても、そこだけは「外に触れられる」気がして、私はあまり好きではない。
好きではないのに――目が行く。
戸口の前に置かれた鉢植えの土は、今日も少し乾いた匂いを返していた。
湿り気は残っている。けれど乾いた匂いが勝ちかけるときがある。
勝ちかける匂いは、弱い声みたいに私の胸を叩く。
叩く、というほど強くはない。
でも、気づいてしまったら、放っておけない。
台所の朝は、いつもの形で始まった。
火鉢の赤が小さく息をして、湯気が白くほどけて、布が光を薄くする。
父が鍋の前で口をすぼめ、息を吐いた。
「ふー」
湯気がゆらり、と揺れる。
私は椅子の上で、その揺れに合わせて吐いた。
「……ふー」
息が通ると、喉の奥が少し開く。
開くと、心臓の位置が分かる。
位置が分かると、怖さが全部にならない。
父は頷いて、短く言った。
「よし」
その「よし」が落ちると、台所の角が丸くなる。
丸い場所なら、土の匂いのことも考えられる。
父は片づけを終えると、台所の隅の壁へ歩いた。
紐で吊られた小さな板――名前の木札。
父はその前で一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
私は見上げ、二音を返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
それで、朝が整う。
整ったまま、父は廊下へ目を向けた。
私も同じ方を見た。
布の壁。揺れる影。戸口の気配。
そして、乾きかけた土の匂い。
父は私の呼吸を一度見てから、低い声で言った。
「……今日も、水だ」
水。
その音だけで、胸がきゅっと狭くなる。
水は怖いものじゃない。
けれど水は音を連れてくる。尖る音を。
尖ると、胸の糸が切れかける。
切れかけると、息の道が狭くなる。
私は指先を握りそうになって、息を吐いた。
「……ふー」
父は頷き、続けた。
「……今日は、違うやり方」
違う。
違う、は怖い。余白が増える。
増えた余白に、星の冷たさが入り込むことがある。
私は椅子の布をつまんだ。
布の目を指で辿る。
辿ると考えが小さくなる。小さい考えなら持てる。
父はその動きを見逃さず、急がない声で言った。
「……出なくていい」
その許しで、胸の狭さが少し広がった。
父は廊下の布を指さした。
戸口へ向かう道に、布が増えていた。
冷えを消す布。音を丸くする布。
布があると、床は刺さらない。
そして父は、戸口の手前――敷居の前に、もう一枚布を敷いた。
丁寧に端を折る。折り目を作る。
折り目は、迷わない線になる。
父が言う。
「……敷居まで、行く」
敷居。
木の線。境目。
胸がぎゅっとなる。
ぎゅっとなると息が浅くなる。
浅い息は、遠い冷たさを呼ぶ。
父の手が私の肩に置かれた。
押さえつけない温度。温度だけが、私を守る線になる。
「……半歩は、いらない」
半歩はいらない。
その上で、父は段階を置く。
「……指先だけでいい」
指先だけ。
身体全部が外へ行かない。
余白は増えにくい。
私は小さく頷いた。
頷いた瞬間、喉が固くなる前に息を吐く。
「……ふー」
父は私を抱き上げた。
抱き上げる前に、一拍。
その一拍があると、世界が急に動かない。
私は父の外套の端を掴んだ。
掴む力は「落ちないくらい」。
父の言葉が、私の指を整える。
廊下へ出る。
布の上は冷たくない。
冷たくないと、足が急がない。
急がないと、心が追いつける。
布の壁の手前で父は止まった。
結び目を確かめ、締め直す。
不格好でもほどけない結び目。
父が低く言った。
「……息」
父が先に吐く。
「ふー」
私は合わせて吐く。
「……ふー」
二つの息が重なると、胸の糸の張りがほどよくなる。
ほどよい張りなら、切れない。
父が布を少し持ち上げた。
戸口が見える。
敷居の線が見える。
木の線は、思ったより薄い。
薄いのに、怖い。
薄いものほど刺さることがある。
布が薄いと光が刺さるみたいに。
私は固まった。
固まると息が止まる。
止まると、胸の奥が冷たくなる。
上の冷たさ。
星の冷たさ。
遠い線が、胸の内側に入り込む。
息を探す。
でも息が浅い。
浅い息は、探すことすら難しい。
父の腕は、強く抱かなかった。
強く抱かれると私は崩れる。
父はただ温度のまま、そこにいる。
父が小さく言った。
「……戻っていい」
戻っていい。
逃げていい、ではない。
戻れる道がある、という言葉。
私は父の外套の匂いを吸った。
布と火と風の匂い。
近い匂いが、遠い冷たさを薄める。
父がもう一度吐いた。
「ふー」
私は合わせて吐く。
「……ふー」
息が通った。
通っただけで、胸の中に小さな明かりが生まれる。
火を入れない明かり。影の明かりみたいなもの。
父は敷居の手前へ一歩進んで、止まった。
止まる。
止まると世界も止まる。
止まると余白は増えにくい。
父が言う。
「……足は、布の上のまま」
布の上のまま。
それが私の身体を守る線になる。
父は続けた。
「……指先だけ。木に触れるだけ」
触れるだけ。
押さない。越えない。
ただ触れる。
私は右手を見た。
指先が小さく震えている。
震えは悪いことじゃない。
震えは身体が「慎重」を欲している証だ。
父の指が私の手首にそっと添えられた。
握らない。引っ張らない。
落ちないための支えだけ。
「……落ちないくらい」
その言葉で、私は力を少し抜けた。
抜けると、震えは震えのまま刺さらない。
私は指先を伸ばした。
敷居の木の線が目の前に来る。
――その瞬間、頭の中に別の線が走った。
遠い線。空の線。星が並ぶ線。
私を観ている線。
冷たくて、まっすぐで、逃げ場がない線。
逃げ場がないと、息が止まる。
私は指を止めた。
宙に浮いた指が、世界を不安定にする。
父がすぐに言った。
「……指先じゃなくていい」
段階を下げる。
下げることで、私を守る。
押さない。
父は続けた。
「……爪の先でもいい」
爪の先。
さらに小さい。
小さいなら、持てるかもしれない。
父が耳元で言う。
「……息、先」
先に息。
息が先なら、線は刺さりにくい。
父が吐く。
「ふー」
私は合わせて吐く。
「……ふー」
吐きながら、指を少しだけ下げた。
近づいても、息がある。
「……ふー」
もう一度吐いて、私は落としていく。
爪の先が、敷居の木に触れた。
ほんの一瞬。
冷たいと思った。
でも刺さらない冷たさだった。
石の冷たさとも、夜の冷たさとも違う。
生活の木の冷たさ。
それは「ここ」と同じ種類の冷たさだった。
胸の奥が熱くなる。
熱が膨らむと忙しくなる。
父の声が落ちた。
「……よし」
その「よし」が、熱を壊さずに落ち着かせる。
私はもう一度触れた。
今度は少し長く。
木の目を、爪の先が辿る。
辿ると、敷居は「線」ではなく「木」になる。
木になると、外の冷たい線の怖さが薄れる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
触れているのに、吐けた。
吐けるなら、ほどけない。
父の指は手首から離れない。
離れないのに支配しない。
戻る道を残しているだけ。
父が言った。
「……戻る」
戻る。終わり。
終わりがあると、私は勝利を落とさずに持てる。
私は爪を木から離した。
離すとき、名残が残った。
名残は怖さじゃない。
もう一度できるかもしれない、という小さな熱。
父は布の上へ一歩戻った。
戻ると外の匂いが薄くなる。
薄くなると胸が広がる。
父は布の壁を下ろし、結び目を確かめた。
不格好で、でもほどけない結び目。
それがあるだけで、境目は硬くならない。
台所へ戻ると、火鉢の赤が小さく息をしていた。
家の匂いが揃う。
揃うと、胸の糸は元の長さに戻る。
私は自分の指先を見た。
敷居に触れた指先。
冷たくない。痛くない。刺さらない。
その指先で、布の目をなぞった。
布の目はまっすぐで、やさしい。
まっすぐなものが家にあると、外の線も怖がりすぎなくていい。
父が私を見て言った。
「……明日も、同じでいい」
同じでいい。
進まなくていい、じゃない。
進む形を、同じにする。段階を重ねるということ。
私は小さく頷いて、息を吐いた。
「……ふー」
父は頷き、短く言った。
「よし」
父は台所の隅の壁へ歩いた。
名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
名が置かれる。
名が置かれると、敷居に触れた私も「ここ」に戻れる。
私は木札を見上げ、二音で返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
敷居は、外へ行くための線じゃない。
戻るための線でもある。
触れた。触れても壊れなかった。
息が通った。通った息が、私をほどけないように支えた。
外はまだ大きい。
でも、木の線の冷たさは刺さらなかった。
私は指先を胸の前でそっと握り、力を抜いた。
落ちないくらい。壊さないくらい。
そして、もう一度だけ息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息は、敷居に置いた小さな勇気を、私の中で静かに乾かしてくれた。
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