第21話 戸口の鉢に水を
朝は、匂いから始まる。
火鉢の赤い匂い。
木の匙が器を撫でる匂い。
湯気が白くほどける匂い。
そして、父の外套に残る風の匂い。
匂いが揃うと、私は「ここ」に戻れる。
戻れると、胸の奥の糸がほどけきらない。
父は鍋の前で口をすぼめて息を吐いた。
「ふー」
湯気がゆらり、と揺れる。
揺れは遠い光ではなく、近い揺れだ。
近い揺れは刺さらない。
私は椅子の上で、その揺れに合わせた。
「……ふー」
息が通ると、喉の奥が少し開く。
開くと、言葉が落ちる場所ができる。
言葉が落ちる場所があると、慌てずにいられる。
父は頷き、短く言った。
「よし」
その二音が胸に入ると、世界の角が丸くなる。
丸くなると、器の音も、布の影も、安心の形になる。
父は粥をよそい、私の前に置いた。
器の底に布が敷かれている。
布があると、置く音が尖らない。
尖らないと、胸が忙しくならない。
熱くない。
父はいつも、熱をそのまま渡さない。
冷ます時間も一緒に渡す。
その時間があるから、私は飲み込める。
食べ終えると、父は器を片づけた。
置く。拭く。重ねる。
一つずつ、きちんと終わる。
終わりがあると、次が怖くない。
父は最後に台所の隅の壁へ歩いた。
紐で吊られた小さな板――名前の木札。
父はその前に立つと、必ず一度だけ呼吸を置く。
その一拍で、家の空気が整う。
「ルミシア」
名が置かれる。
名が置かれると、私は輪郭を持つ。
輪郭があると、外の余白が少し遠い。
私は木札を見上げ、二音で返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
それで、朝の形が完成する。
――その完成の中に、今日は、違う匂いが混ざった。
土の匂い。
乾いた匂い。
湿り気が足りない匂い。
私は足を止めた。
外の匂いは、ときどき胸の糸をほどこうとする。
でも今の匂いは刺さらない。
刺さらないのに、気になる。
気になるということは――そこに何かがある。
私は廊下の布の壁を見た。
揺れる影の向こうに戸口がある。
戸口の向こうに、鉢植えが置かれている。
小さな花が、そこにいる。
花は音を立てない。
押し込まない。
匂いで「ここだよ」と言う。
乾いた匂いがする。
乾いていると、花は苦しいのだろうか。
胸の奥が、じんと熱くなった。
熱いのに痛くない。
返したい熱。
私は父の袖を引いた。
言葉では言えない。
でも引くと、父は必ず気づく。
父は私の指先の向きを見て、私の呼吸を見た。
「……息は」
私は口をすぼめて吐いた。
「……ふー」
吐けた。
吐けるなら、私は大丈夫の範囲にいる。
父は頷いた。
「よし」
父は布の壁の手前で立ち止まり、結び目を一つ締め直した。
不格好でもほどけない結び目。
それから、布の陰から戸口の方を少し覗いて言った。
「……土が、乾いたな」
父も同じ匂いを嗅いだのだ。
父は私と目を合わせた。
柔らかい目。
柔らかい目は、私を急がせない。
「……水を、やる」
水。
その言葉で、胸がきゅっと狭くなる。
水は生活のものだ。怖いものじゃない。
でも水は音を立てる。
桶は重い。
注ぐ音は尖りやすい。
尖る音は、胸の糸を切りかける。
私は指を握りそうになった。
握ると余計に固くなる。
固くなると、余白が増える。
父の声が落ちた。
「……出なくていい」
許し。
それだけで、狭さが少し広がる。
父は続けた。
「……家の中で、できる」
家の中。
匂いが揃っている場所。
木札がある場所。
布がある場所。
父の「よし」が届く場所。
私は小さく頷いた。
父は台所へ戻り、棚から小さな器を出した。
椀より浅く、掌に収まる器。
父は器の底に薄い布を敷いた。
布は音を丸くする。
父は水桶に手をかけた。
――ごと。
頭の中で先に音が鳴る。
想像の音だけで、胸が忙しくなる。
けれど父は、桶を持ち上げなかった。
代わりに桶の横に布を敷き、器を置いた。
置き方を整える。
整えるだけで、音の角が削れる。
父が言う。
「……息」
父が先に吐いた。
「ふー」
私は合わせて吐いた。
「……ふー」
二つの息が重なると、想像の音が薄くなる。
薄くなると、胸の糸がほどけきらない。
父は柄杓で水をすくった。
水が桶の中で揺れる。
揺れが落ち着くまで待ってから、器へ移す。
水が器に落ちた。
――とん。
小さな音。
布があるから、角が丸い。
父は器を私の前に置いた。
水面が、湯気の代わりに揺れている。
揺れは小さい。
小さい揺れなら、見ていられる。
父は言った。
「……これを、持つ」
父は直接渡さない。
まず、私の指の形を見て、持ちやすい縁を示す。
角を避ける。
落ちないくらいの場所。
父の手が、私の手の上に軽く重なった。
「……強くない。落ちないくらい」
落ちないくらい。
その言葉で、私は力を抜ける。
抜けると、器は器のままそこにある。
刺さらない重さ。
私は器を持ち上げた。
水が揺れた。
揺れが怖い。
怖いと息が浅くなる。
父がすぐに言った。
「……ふー」
父が吐く。
「ふー」
私は合わせて吐いた。
「……ふー」
息を吐きながらだと、揺れは揺れのまま収まる。
収まれば、器は落ちない。
父は廊下へ向かった。
私は少し離れてついていった。
近すぎると引っ張られる。
遠すぎると余白が増える。
父は、その間の距離を残して歩く。
布の壁の前で父は立ち止まり、布を少し持ち上げた。
戸口の線が見える。扉は閉まっている。
閉まっていると余白は増えない。
増えないなら、私は持てる。
父は床にもう一枚布を敷いた。
器を置く場所。
布があると置く音が丸くなる。
私は器をそこへ置いた。
――こん。
音が、尖った。
尖った音は刃になる。
刃は胸を切る。
胸が切れかけると息の道が狭くなる。
私は固まった。
指が器から離れない。
離れないと倒れるかもしれない。
倒れる想像が、さらに音を呼ぶ。
父の手が、私の手の上にそっと重なった。
押さえつけない温度。
温度だけで、私を戻す。
父は低い声で言った。
「……息」
父が先に吐く。
「ふー」
私は合わせて吐いた。
「……ふー」
息が通ると、指の力が少し抜ける。
抜けると、器は倒れない。
倒れないと分かると、胸が少し広がる。
父は器の周りの布を整えた。
端を折って、触れる部分を柔らかくする。
音を丸くするための形。
形があると、私は戻れる。
父が言う。
「……音は、来る。来ても、戻る」
戻る。
戻る道があると知っているだけで、尖りは刺さりにくくなる。
父は器を指し示した。
「……ここから。ひとしずくでいい」
ひとしずく。
全部じゃなくていい。
それは、私が持てる大きさ。
父は扉を、ほんの少しだけ開けた。
線が少し太くなる。
外の匂いが細く入る。冷たい匂い。
父はすぐ止めた。
線は線のまま。
太くしすぎない。
父は境目を守る。
父は扉の外の鉢を手で少しだけ寄せた。
押し込まない。
線の外に、土の淡い色が見える。
乾いた匂いがする。
私は器を持ち上げた。
水面が揺れる。
揺れは怖い。
でも父の声がある。
「……ふー」
父が吐く。
「ふー」
私は合わせて吐いた。
「……ふー」
息を吐きながらだと、揺れは小さくなる。
小さくなると、注げる。
父が私の指の位置を少し直した。
傾けやすい位置。
落ちないくらい。
倒れないくらい。
「……ここ。ゆっくり」
ゆっくり。
怖さを追い越さない速度。
私は器を傾けた。
水面が縁に近づく。
――ちゃ。
想像の音が胸を刺しそうになる。
刺さる前に、私は息を吐いた。
「……ふー」
父も重ねる。
「ふー」
二つの息が重なると、音の想像が薄くなる。
薄くなると、震えても折れない。
水が、落ちた。
――とぷ。
小さい音。
土が水を受け取る音。
尖っていない。
ひとしずく。
たったそれだけ。
それなのに、胸の奥が熱くなった。
熱いのに痛くない。
嬉しい熱。
私は器を戻した。
戻すとき、水が少し揺れた。
揺れは怖い。
でも、息がある。
「……ふー」
吐けた。
吐けるなら、揺れは揺れのまま収まる。
父が短く言った。
「よし」
その「よし」は、ひとしずくの「よし」だ。
小さな成功の「よし」。
小さな成功は落ちない。
落ちないから、胸に残る。
父が問う。
「……もう一つ。いけるか」
問いかけ。
私を急がせない。
私は土の匂いを吸った。
乾いていた匂いの中に、湿り気が生まれている。
湿り気は、命の匂いだ。
私は頷いた。
父の目が少しだけ細くなった気配がした。
声にしない笑い。
私が忙しくならない笑い。
私はもうひとしずく落とした。
――とぷ。
同じ小ささ。
同じ丸さ。
三滴目も落とした。
土の色が変わっていく。
淡い乾いた色が、深い色になる。
深い色は落ち着く色だ。
私は器を戻し、布の上にそっと置いた。
今度は音が尖らなかった。
布の折り方が効いたのだ。
父は頷いて言った。
「よし」
扉の線が閉じられる。
外の冷たい匂いが少し遠くなる。
遠くなると、胸が広がる。
父は鉢を元の位置に戻し、石を少し置き直した。
風で倒れないように。
倒れないための小さな工夫。
工夫は、強さではなく優しさだと思った。
父は布の壁を下ろし、結び目を確かめる。
不格好で、でもほどけない結び目。
父は言った。
「……終わり」
終わり。
終わりがあると、私は安心できる。
今日はここまで。
ここまでなら、私は持てる。
台所へ戻ると、火鉢の赤がまだ小さく息をしていた。
匂いが揃っている。
揃っている匂いは、胸の糸を結び直す。
私は器の水面を見た。
少し減っている。
減っていることが、嬉しい。
減った分だけ、土が受け取ったから。
父は器を受け取り、桶へ戻した。
戻す音も丸い。
父は最初から最後まで、音の角を削ることを忘れない。
私は指先を見た。
水を注いだ指。
震えた指。
でも折れなかった指。
胸の奥が、じんと温かい。
温かいのに忙しくならないのは、段階があったからだ。
ひとしずくでいい、という線があったからだ。
私は小さく吐いた。
「……ふー」
吐けた息が、まだ私の中に残っている。
残っているなら、輪郭は落ちない。
父は台所の隅の壁へ歩いた。
名前の木札の前。
いつも通り、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
名が置かれる。
名が置かれると、私は戻れる。
扉の線のそばまで行っても、戻れる。
私は木札を見上げ、二音で返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
その「よし」は、朝の「よし」より少しだけ深かった。
深いのに重くない。
重くない深さは、胸に残る。
私は廊下の方を見た。
布の壁の向こうに戸口がある。
戸口の向こうに鉢植えがある。
土は、少しだけ湿った。
外はまだ大きい。
でも外の中にも、守れる小さなものがある。
守るには、剣じゃなくて、息と布と、ひとしずくでいいこともある。
私はそのことを胸にしまって、もう一度だけ息を吐いた。
「……ふー」
吐けた。
吐けたなら、今日も「ここ」で大丈夫だ。
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