第20話 戸口で花に触れた朝
外は、まだ大きい。
戸口の向こうにある空気は、家の中の空気と違う。
匂いも、温度も、音の混ざり方も違う。
違うものは、ときどき私の胸の糸をほどこうとする。
でも最近、戸口の前に置かれる花は刺さらない。
花は叩かない。押し込まない。
ただ、そこにいて、匂いで「来たよ」と言う。
その朝も、台所はいつもの形で私を迎えた。
火鉢の赤が小さく息をして、鍋の底が温まり、湯気が立つ準備をする。
布が光を薄くし、器の下の布が音を丸くする。
父の足音は迷いがなく、でも急がない。
父が粥を冷ましながら、息を吐いた。
「ふー」
湯気がゆらりと揺れる。
私はそれに合わせて、小さく吐いた。
「……ふー」
息が通ると、喉の奥が少し開く。
開くと、二音が胸の奥で落ち着く。
父は頷いて、短く言った。
「よし」
――その「よし」が胸に入っているうちは、外のことも少しだけ思える。
思えるのに、崩れない。
崩れないというだけで、私は少し大きくなった気がする。
父は片づけを終えると、廊下の方へ目を向けた。
布の壁が揺れている。
揺れる壁は硬くない。
硬くないから、刺さらない。
父は外套を整えずに、布の壁の前に立った。
それだけで分かった。今日は外へ行かない。
戸口のあたりで、何かが起こる。
父は私を見た。
目が柔らかい。
柔らかい目は、私を急がせない。
「……戸口まで、行くか」
問いかけ。
私を物にしない音。
私はすぐには頷けなかった。
戸口は、余白が増える場所。
余白が増えると、上の暗さを思い出すことがある。
思い出すと、息の道が狭くなる。
私は指先で布をつまんだ。
布の手触りを確かめる。
確かめると、胸の糸が少し落ち着く。
父は待った。
置き去りにしない沈黙。
その沈黙の中で、私は息を吐いた。
「……ふー」
吐けた。
吐けたなら、少しだけ動ける。
私は小さく頷いた。
父は、すぐに抱き上げなかった。
まず、廊下の布の壁の結び目を指で確かめた。
ほどけにくい結び目。
不格好でも落ちない結び目。
次に、床に小さな布を敷いた。
戸口へ向かう廊下の途中に。
足が冷たくならない布。
冷たくならないと、私は急がずにいられる。
父は私を抱き上げた。
抱き上げる前に、一拍。
一拍があると、世界が急に持ち上がらない。
私は父の外套の端を掴み、掴む力を「落ちないくらい」に整えた。
廊下へ出る。
布の壁の影が、戸口の気配を薄くしてくれる。
薄くなると、胸がほどけきらない。
その時、布の向こう側で、足音が止まった。
こつ。
こつ。
硬い音じゃない。
小さな足音。
それでも私の身体は固くなる。
固くなると息が浅くなる。
父の声が低く落ちた。
「……息」
父が先に吐いた。
「ふー」
私は布の内側で合わせて吐いた。
「……ふー」
息が重なると、胸の糸が一本ずつ戻る。
戻ると、声が刺さらない。
扉の向こうで、明るい声がした。
「るみー! いるー?」
その呼び方に胸が熱くなった。
熱いのに痛くない。
でも熱が大きくなると、私は忙しくなる。
忙しくなる前に、もう一度息を吐く。
「……ふー」
父は扉を大きく開けない。
細い線だけ。
外の空気を、線で入れる。
線なら扱える。
「……ここだ。大きな声は、いらない」
父の言葉は線になる。
刃ではないのに、刺さるものを止める。
「うん! 小さくする!」
ミーナの声が、すぐに丸くなった。
止まれる声。
止まれる子。
それだけで、私は少し安心した。
父は私を布の内側に座らせた。
戸口が真正面に見えない角度。
見えないと、余白は薄い。
薄い余白なら、息を落とさない。
父は私の肩に手を置いた。
押さえつけない温度の手。
「……出なくていい。半歩も、いらない」
半歩も、いらない。
それは許しだ。
でも同時に、私の中に小さな熱が生まれた。
――半歩。
半歩だけなら。
半歩があれば、匂いをもっと近くで確かめられる。
花を、扉の内側だけで眺めるのではなく――近づける。
その熱が怖くなった。
熱は嬉しさの熱で、嬉しさは大きくなると忙しくなる。
父が私の頬に指を当てた。
「……息」
父の指の温度が、熱を落ち着かせる。
私は小さく吐いた。
「……ふー」
扉の外で、花の匂いがふわりと濃くなった。
ミーナが何かを抱えている。
「ね、みて。きょうはね、これ」
花束ではない。
小さな鉢植えの匂い。
土の匂いと、青い匂い。
「ちっちゃいおはな。ここで、そだてるの」
育てる。
その言葉が胸に落ちた。
育つ。続く。
続くことは怖いこともあるけれど、やさしいこともある。
父が答えた。
「……いい。ここに置け」
置け。
父の線の中で、外の子は動ける。
動ける線なら、世界は硬くない。
石がころり、と小さく鳴った。
鉢が地面に置かれる音。
音が小さい。
小さい音は刺さらない。
ミーナが言った。
「るみ、さわる? さわっても、いいよ」
さわる。
触るという言葉は、私の胸をぎゅっとさせる。
触ると、世界が動く。
動く世界は、余白を増やす。
私は指を握った。
握ると心が少し尖る。
尖る前に息を探す。
「……ふー」
父が小さく頷いた。
「できる分だけでいい」の合図。
父は扉を、ほんの少しだけ広げた。
でも広げすぎない。
線は線のまま。外は外のまま。
冷たい空気が細く入る。
私は布の影で息を吐く。
「……ふー」
ミーナが、鉢植えを少しだけ扉の方へ近づけた。
近づけるのに、押し込まない。
近づける距離を、相手が選べるようにしている。
私はその距離がありがたかった。
父は私の手に、小さな布袋を持たせた。
薬草の匂い。刺さらない匂い。家の匂い。
父の声が落ちる。
「……これを、渡したいなら。手だけでいい」
手だけ。
半歩じゃない。
手だけなら余白は増えにくい。
私は布袋を握りそうになって、力を抜いた。
「落ちないくらい」。
父の言葉が、私の指を整える。
私はゆっくり、扉の方へ手を伸ばした。
伸ばすと、外の空気が指に触れる。
冷たい。
冷たいけれど、痛くない。
痛くない冷たさなら、戻れる。
胸が忙しくなりかけた。
忙しくなる前に、息を吐く。
「……ふー」
吐いた息が、私の指先を落ち着かせる。
父が同じ速度で吐いた。
「ふー」
二つの息が重なると、指先は震えたままでも折れない。
ミーナが、扉の外で両手を差し出した。
差し出し方が小さい。
急がない。奪わない。
「それ、なに?」
私は答えたい。
でも言葉はまだ遠い。
遠い言葉を無理に引っ張ると、ほどける。
私は代わりに息を吐いた。
「……ふー」
そして、音を落としてみた。
「……に、おい」
におい。
短い音。
不格好でも、私の口から出た。
ミーナが嬉しそうに笑った。
声は大きくならない。丸い笑い。
「におい! すき! ありがとう!」
ありがとう。
その言葉が胸に落ちて熱くなる。
熱は嬉しい熱。
でも膨らむと忙しくなる。
父の手が、私の背中に置かれた。
温度だけ。線を保つ温度。
私は布袋を、ミーナの手にそっと乗せた。
触れたのは指先だけ。
一瞬。
でもその一瞬が長く感じた。
外の余白が、少しだけ小さくなった気がした。
余白の中に、形ができたからだ。
布袋の形。手の形。ありがとうの音。
ミーナは布袋を鼻に近づけて、くん、と匂いを吸った。
「わ、いいにおい。るみ、これ、るみがつくったの?」
つくった。
私は「父と一緒に」と言いたい。
でも言えない。
言えないと悔しさが来る。
悔しさは胸を狭くする。
私は息を吐いた。
「……ふー」
狭さが少し広がる。
広がった場所に、二音を置く。
「……るみ」
私は自分を指さした。
ミーナはすぐに頷いた。
「るみが! すごい!」
すごい、は忙しくなる言葉だ。
でもミーナのすごいは軽い。
肩書きのすごいじゃない。
生活のすごい。花のすごい。
父が低く言った。
「……すごいは、小さくでいい」
ミーナが慌てて口を押さえる。
「うん! ちいさくする!」
小さくする。
それができる子。
それだけで私は、扉の向こうが少しだけ怖くなくなる。
ミーナが鉢植えを指で示した。
「ね、これね、ちょっとだけ、さわってみて」
ちょっとだけ。
戻れる道を残す言葉。
私は鉢植えを見た。
小さい花。花びらは薄い。
薄いのに刺さらない。
壊したらどうしよう。
壊すと謝らないといけない。
謝る言葉が出ない。
出ないと胸が忙しくなる。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父が同じ速度で吐いた。
「ふー」
二つの息が重なると、私は「壊さないくらい」の力を思い出せた。
落ちないくらい。
痛くないくらい。
壊さないくらい。
私は指先を、花びらの端へ近づけた。
触れる前に、もう一度吐く。
「……ふー」
そして、触れた。
花びらは冷たくなかった。
薄いのに、ちゃんとそこにある。
指に負けない。
負けないのに、刺さらない。
その感触が胸に落ちた瞬間、目の奥が熱くなった。
熱いのに痛くない。
涙が来そうな熱。
でも泣くと忙しくなる。
父の声が、すぐに落ちた。
「……よし」
その「よし」で、熱は壊れずに落ち着いた。
落ち着くと、私は言葉を一つだけ拾えた。
「……きれい」
きれい。
小さな音。
でも私の口から出た。
扉の外で、ミーナが息を止めたみたいに静かになった。
次に来たのは、もっと小さい声。
「……うん。きれいだね」
きれい、を一緒に持ってくれた。
物語にしない。飾りにしない。
ただ、同じ音として持つ。
胸がいっぱいになった。
いっぱいになると息が浅くなる。
浅くなる前に吐く。
「……ふー」
父が重ねる。
「ふー」
息が重なると、胸のいっぱいは苦しくなくなる。
いっぱいは、あたたかさになる。
ミーナが、扉の外で少しだけ首を傾けた。
「るみ、もっと、しゃべれる?」
もっと、は怖い。
もっと、は余白を増やす。
父の手が、私の肩から離れない。
離れない温度があるだけで、私は戻れる。
父が低く言った。
「……出せる分だけでいい」
出せる分だけ。
私はその言葉を胸に入れて、息を吐いた。
「……ふー」
そして、出せる分だけ、音を置いた。
「……あ、り」
あり、まで出た。
続きが出ない。悔しい。
でもここでは痛くない。戻れる道があるから。
ミーナがすぐに言った。
代わりに言うのではなく、拾うように。
「あり、が……?」
私は頷いた。
頷きは、今の私の言葉。
ミーナが笑った。
声は小さい。
「ありがと、だね! るみ、ありがと!」
私は最後まで言いたい。
でも無理はしない。
無理をすると、ほどける。
私は代わりに息を吐いた。
「……ふー」
父が短く言った。
「よし」
その「よし」は、最後まで言えた「よし」じゃない。
途中でも、音を置けた「よし」。
私はその種類の「よし」なら、胸に入れられる。
ミーナは鉢植えをそっと持ち上げて、元の場所へ戻した。
置く音が小さい。石の音が小さい。
小さい音は刺さらない。
「これ、ここにおいとくね。るみのいえのまえ。みず、あげてね」
水をあげる。
育てる。
続ける。
続くことが、今日は怖くなかった。
怖くないのは、父の線の中で、ミーナが動いているから。
父が答えた。
「……分かった」
扉の線を少しだけ閉めた。
外の余白を戻す。
戻し方が静かだと、胸が驚かない。
ミーナが最後に、小さな声を投げた。
「るみ、またね。ふー、も、する?」
ふー。
私の形。父の形。
私は胸が熱くなって、息を吐いた。
「……ふー」
扉の向こうで、ミーナも真似をした。
「ふー」
二つの息が、扉の線を挟んで重なった。
重なるのに、余白は増えない。
線があるから。布があるから。父の手があるから。
ミーナの足音が遠ざかる。
こつ。
こつ。
こつ。
音が小さくなると、余白が小さくなる。
私は深く息を吸えた。
父は扉を閉め、布の壁を整えた。
結び目を指で確かめ、短く言った。
「よし」
台所へ戻ると、花の匂いが増えていた。
器の花と、戸口の鉢植えの匂いが、家の木の匂いに混ざる。
混ざっても刺さらない。
刺さらないなら、外は全部刃じゃない。
父は台所の隅の壁へ歩いた。
紐で吊られた名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。
呼吸を置くと、家の空気が整う。
「ルミシア」
父が名を置く。
名が置かれると、私は戻れる。
手を外へ伸ばしても、戻れる。
触れても、戻れる。
私は木札を見上げ、二音で返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
その「よし」を聞いた瞬間、私は気づいた。
今日は、半歩の外を怖がりすぎなかった。
手だけ、という線の中で、私は外に触れた。
外の子と息を重ねた。
それは外へ出たわけじゃない。
でも、外が少しだけ小さくなった。
私は椅子に座り、指先を見た。
花びらに触れた指。
冷たくない。刺さらない。
私はその指で、布の目をなぞった。
布の目は、いつも通りまっすぐだ。
まっすぐなものが家にあると、外の曲がりは怖くない。
私は小さく吐いた。
「……ふー」
吐けた息は、今日の私の形だった。
戸口の向こうで置いた音も、触れた花びらも、落ちなかった。
同じ息があるなら。
同じ「よし」があるなら。
外は、いつか半歩より小さくなるかもしれない。
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