第2話 名を持たない子
私がまだ小さかった頃のことを、私はときどき夢で見る。
夢の中の世界は、今よりずっと曖昧で、輪郭が薄い。
匂いも音も、布を一枚かぶせたみたいに遠い。
けれど、その曖昧さの中でも、ひとつだけはっきりしているものがある。
父の沈黙だ。
沈黙が怖いわけじゃない。
父の沈黙は、私を置き去りにしない沈黙だった。
何かを決める前に、必ずそこに留まる沈黙。
あの頃の私は、言葉を知らなかった。
だから「名」も知らなかった。
でも――呼ばれたい、と思っていた。
呼ばれて、振り向いて、戻れる場所が欲しかった。
その欲しさが、私の胸の奥で小さく鳴っていた。
⸻
父の住まいは広かった。
英雄に与えられた家は、きれいで、余計な部屋が多く、音がよく響いた。
私は寝台の上に置かれると、空気が冷えるのを感じた。
冷えた空気は、泣き声を誘う。
泣き声は、世界にある唯一の抗議だったのかもしれない。
父は、泣き声に慌てた。
慌て方が、戦場のそれではなかったのが印象的だ。
剣士が危機に反応するときは、鋭い。
迷いがなく、速い。
でも父はそのとき、速いのに、迷っていた。
どう抱けばいいか。
どうすれば痛くないか。
どうしたら落ち着くのか。
父は剣を抜かなかった。
抜く理由がないのに、抜けるはずがない。
代わりに父は、布を増やし、火を入れ、湯を沸かした。
湯の匂いが部屋に満ちると、私の泣き声は少しだけ細くなる。
湯気は、どこか柔らかい。
父はそれを見て、何度も湯を沸かした。
部屋の中に、生活が増えていく。
生活が増えると、広い家の冷たさは薄くなる。
そして、父は私を抱いたまま、椅子に座った。
椅子の脚が床を鳴らさないように、ゆっくりと。
抱き方は慎重で、不器用で、でも壊さない。
壊さない手つきは、私の中で最初に覚えた「強さ」だった。
父は私の顔を覗き込む。
「……」
何か言おうとして、言えない顔。
父は喉を鳴らして、短く息を吐いた。
「……おい」
その呼びかけは、私を落ち着かせなかった。
呼ばれているのに、呼ばれていない感じがしたから。
父もそれを感じたのだと思う。
父は眉を寄せた。
困ったときの父の顔は、派手じゃない。
ただ、ほんの少しだけ目が細くなる。
「……違うな」
父は小さく呟いた。
違う。
何が違うか、当時の私は知らない。
でも父の声の温度が、違いを知っていた。
父は別の言葉を探した。
「……娘」
その言葉には、少しだけ温度があった。
けれど、まだ遠い。
遠い温度は、私の胸の奥に届かない。
父は私の頬に指を当てる。
剣を握ってきた指は硬い。
硬いのに、触れ方は驚くほど柔らかい。
「……痛いか」
痛いわけがない。
けれど私は、声を漏らした。
声は言葉じゃない。
ただ、息が震えただけ。
父はその震えを、受け取ってしまう。
「……すまない」
謝る必要なんてない。
それでも父は謝る。
謝るのは、私を人として扱うからだ。
父はしばらく黙っていた。
火鉢の音だけがした。
湯が沸く音が、遠くで小さく鳴った。
その沈黙の中で、父の胸の奥にある言葉だけが、きっと騒いでいた。
――観測。
父が丘で聞いたという、その言葉。
冷たくて、刃のように落ちる言葉。
誰かの目的を、私の体に括りつける言葉。
父はその言葉を、私に向けて使わなかった。
「観測対象」
「星の娘」
「天の贈りもの」
どれも、呼びかけの形をしているのに、呼びかけではない。
肩書きだ。
その肩書きは、呼んだ瞬間に私を遠くへ押しやる。
父は、私を遠くへ押しやりたくなかった。
だから父は、何も言えない。
言えない時間が長いほど、部屋は静かになる。
静かすぎると、私は不安になる。
不安になると、泣く。
父は泣き声を聞いて、すぐに抱き直した。
抱き直すと、私の呼吸は少しだけ落ち着く。
落ち着くと、父も落ち着く。
その繰り返しが、最初の数日間だった。
⸻
父は、生活を作った。
寝台の横に小さな籠を置き、布を敷き、私のための場所を作る。
火鉢の位置を変えて、熱が直接当たらないようにする。
湯を沸かす道具を一番近い場所へ移す。
窓に厚い布を掛け、夜の光を少しだけ弱める。
父は剣で世界を守った男だと言われたらしい。
でも私の記憶の中の父は、剣ではなく布を扱っている。
布は柔らかい。
柔らかいものは、弱そうに見える。
でも柔らかいものは、冷たい光を薄めることができる。
柔らかいものは、命の輪郭を守ることができる。
父はそれを、知っていたのかもしれない。
父は時々、部屋の隅に置いてある剣を見た。
ただ見るだけ。
手を伸ばさない。
剣はそこにあるのに、そこには行かない。
その距離が、父の決意みたいに見えた。
私は父の顔を見上げた。
目は淡く、深い。
怒りを抱えていない目。
でも、疲れている目。
父は私が目を開けているのに気づくと、少しだけ口元を緩めた。
それは笑顔というほど派手ではない。
ただ、角が丸くなるだけ。
「……起きているのか」
父はそう言って、私の額に指を置いた。
熱を確かめる動き。
確かめるのは温度だけではない。
私がここにいることを確かめている。
私は声を出せない。
だから、ただ瞬きをした。
父は、その瞬きを受け取る。
「……よし」
父はよく「よし」と言った。
その「よし」は、勝利の「よし」ではない。
物語の「よし」でもない。
ただ、今日が続くための合図。
よし。
それを聞くと、私は安心した気がする。
合図があると、世界は始まる。
⸻
ある日、父は私を抱えて外へ出た。
外へ出ると、空気が変わる。
匂いが濃くなる。
音が増える。
そして、視線が生まれる。
父はその視線を嫌った。
嫌うというより、避けた。
視線は、物語を作るからだ。
視線はこう囁く。
「勇者だ」
「英雄だ」
「何かを持っている」
「特別なものだ」
特別。
それは甘い言葉に見えて、実は冷たい。
特別は、肩書きへ繋がる。
肩書きは、名を削る。
父はそれを知っているから、外では少しだけ歩幅が早い。
それでも、買わなければいけないものがあった。
布。
乳の代わりになるもの。
火鉢の灰。
湯を温めるための薬草。
父は市場ではなく、なるべく人の少ない路地の店を選んだ。
店の主は年配の女性で、父を見ても騒がなかった。
騒がない人は、ありがたい。
父は短く言う。
「……赤子に必要なものを」
女性は私を見た。
見る目が、軽い。
噂を見る目ではなく、体温を見る目。
「まあ、可愛らしい子だこと」
父が、ほんの少しだけ肩の力を抜いたのを、私は覚えている。
女性は手際よく布を選び、薬草を包み、籠をまとめた。
父は代金を払おうとして、手が止まった。
女性が、当たり前みたいに尋ねたからだ。
「お嬢ちゃんのお名前は?」
名前。
父の動きが一瞬止まった。
剣士が敵の間合いを測るときみたいに、時間が止まる。
父は何か言おうとして、言えない。
「……」
沈黙が落ちる。
女性はすぐに察したのだろう。
責める顔をしなかった。
むしろ、少しだけ柔らかく笑った。
「急がなくてもいいわ。
でもね、名前は……帰り道になるから」
帰り道。
その言葉が、父の胸に入ったのを感じた。
父は“道”に敏感だ。
剣士だからではない。
守るために、逃げるために、戻るために、道が必要だから。
父は短く息を吐き、低い声で言った。
「……そうだな」
父はそれ以上答えなかった。
答えられなかった。
でも、その日から父の沈黙は少しだけ違った。
ただの沈黙ではなく、探している沈黙になった。
店の外に出ると、風が頬を撫でた。
父は私を抱え直し、布の端を整えた。
その動きはいつもと同じ。
同じ動きがあると、私は安心する。
父は路地を歩きながら、誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。
「……名前」
その呟きは、私に向けたものではない。
父自身に向けた誓いだった。
⸻
家に戻ると、父は買ってきた布を広げた。
布の色は地味で、派手ではない。
夜に溶ける色。
目立たない色。
目立たない色は、物語を呼びにくい。
父は私を寝台に寝かせ、布をそっと掛けた。
布が肌に触れると、私は少しだけ呼吸が深くなる。
父は火鉢の灰を整え、湯を沸かした。
湯気が上がる。
湯気は部屋を柔らかくする。
父は椀を手に取り、しばらく湯気を見ていた。
湯気の向こうで、父の目が遠くなる。
丘の夜を思い出しているのかもしれない。
冷たい言葉――観測。
それを、父は嫌った。
父は湯気を見ながら、私を見た。
「……お前を、そう呼ぶつもりはない」
私は分からない。
でも父の声の温度が、拒絶でなく守りだと感じた。
父は、机に紙を置いた。
紙は白い。
白い紙は、光を吸う。
白い紙は、何もないのに怖い。
父も紙を前にすると、少しだけ指が止まる。
父は木炭を取った。
剣ではなく、木炭。
黒い粉が指につく。
黒は汚れじゃない。輪郭だ。
父は紙に線を引いた。
一本。
短い線。
それから、もう一本。
曲線。
何かを書こうとしているのに、形にならない。
父は木炭を置き、額を指で押さえた。
「……名は、ただの音じゃない」
父の声は低い。
自分に言い聞かせる声。
「名は……戻れる場所だ」
戻れる場所。
女性が言った言葉が、父の中で響いている。
父は戦場で何度も戻ってきた。
帰り道を失う怖さを知っている。
だからこそ、私に帰り道を作りたい。
父は私の方へ視線を向けた。
私は眠っていた。
眠っているのに、眉がほんの少し寄っている。
不安の癖が、幼い顔にも出るらしい。
父は静かに立ち上がり、私の傍へ行った。
布を整え、頬に指を当て、温度を確かめた。
「……大丈夫だ」
その言葉は、私に向けたものだけど、父にも向けている。
父は椅子に座り、しばらく私の寝息を聞いた。
寝息は細い。
細いのに、続く。
続くことが、奇跡みたいだったのかもしれない。
父は、私の寝息に合わせるように呼吸した。
呼吸を合わせると、二人の世界が出来上がる。
その世界には、まだ名がない。
けれど、温度がある。
父は小さく呟いた。
「……呼びたい」
呼びたい。
私を。
名で。
肩書きではなく。
父は再び机へ戻った。
紙を見た。
木炭を持った。
今度は、さっきより長く線を引いた。
ゆっくり、確かめるように。
そして、途中で止まった。
父は木炭を置き、指を開いたり閉じたりした。
剣を握る手ではなく、子を抱く手。
その手の形を、父はまだ覚え直している。
父は、紙の上に書かれかけた線を見つめながら、ぽつりと口にした。
「……お前の名は、
お前のためのものだ」
その言葉が、私の胸の奥に落ちた。
当時の私は理解できない。
でも温度だけは分かる。
名が欲しい、と私が思った理由は、たぶんそれだ。
自分のための何かが欲しかった。
誰かの目的ではない、誰かの物語ではない。
私が戻れる音が欲しかった。
父はその夜、何度も紙に線を引いては消した。
何度も湯を沸かし、何度も私の寝息を確かめた。
そして、最後に私の傍へ戻り、布の端を整えた。
「……眠れ」
命令ではない。
祈りでもない。
ただのお願い。
私は眠っていた。
眠っているから、答えられない。
でも父は答えを求めていなかった。
父が欲しかったのは、答えではなく――明日だ。
明日、私を呼ぶための音。
明日、私が戻るための道。
父は部屋の灯りを少し落とし、窓の布を確かめた。
外の星が、布の向こうで淡く光っている。
星は冷たい。
けれど布があると、冷たさは薄まる。
父はその布の前で、しばらく立っていた。
何かに祈るようで、何かを拒むようでもある背中。
そして、小さく息を吐いた。
「……観測など」
言葉の続きを、父は飲み込んだ。
飲み込んだ言葉は、剣の代わりに胸にしまわれる。
父は私の方へ戻り、寝台の横に腰を下ろした。
椅子ではなく、床。
床は冷たいのに、父はそこを選ぶ。
私の近くにいるために。
父は、私に向けて、まだ決まらない音をいくつか落とした。
短い音。
柔らかい音。
夜に溶ける音。
それは名ではなかったけれど、名になりかけている音だった。
私はその音を、眠りの底で聞いた気がする。
聞いて、胸の奥の何かが少しだけほどけた気がする。
呼ばれる予感。
戻れる予感。
その予感があったから、私は眠れた。
父の沈黙は、探している沈黙になっていた。
そして私は、呼ばれる日を待っていた。
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