第2話 名前は帰り道
私がまだ小さかった頃のことを、私はときどき夢で見る。
夢の世界は今より曖昧で、輪郭が薄い。
匂いも音も、布を一枚かぶせたみたいに遠い。
けれど、その曖昧さの中でも――ひとつだけ、はっきりしているものがある。
父の沈黙だ。
沈黙が怖いわけじゃない。
父の沈黙は、私を置き去りにしない沈黙だった。
何かを決める前に、必ずそこに留まる沈黙。
逃げない沈黙。
あの頃の私は言葉を知らなかった。
だから「名」も知らなかった。
それでも――呼ばれたい、と思っていた。
呼ばれて、振り向いて、戻れる場所が欲しかった。
その欲しさが、胸の奥で小さく鳴っていた。
◇
英雄に与えられた家は広かった。
きれいで、余計な部屋が多く、音がよく響いた。
広すぎる家は、空気まで冷える。
私は寝台に置かれると、冷えた空気を感じた。
冷えは泣き声を誘う。泣き声は、世界にできる唯一の抗議だったのかもしれない。
父は泣き声に慌てた。
慌て方が、戦場のそれじゃないのが印象的だ。
剣士が危機に反応するときは鋭い。迷いがなく、速い。
でも父は、速いのに迷っていた。
どう抱けばいいか。
どうすれば痛くないか。
どうしたら落ち着くのか。
父は剣を抜かなかった。
抜く理由がないのに、抜けるはずがない。
代わりに父は、布を増やし、火を入れ、湯を沸かした。
湯の匂いが部屋に満ちると、私の泣き声は少しだけ細くなる。
湯気は、どこか柔らかい。
父はそれを見て、何度も湯を沸かした。
生活が増える。
生活が増えるほど、広い家の冷たさが薄くなる。
そして父は、私を抱いたまま椅子に座った。
椅子の脚が床を鳴らさないよう、ゆっくりと。
抱き方は慎重で、不器用で、でも壊さない。
壊さない手つきは、私の中で最初に覚えた「強さ」だった。
父が私の顔を覗き込む。
「……」
何か言おうとして、言えない顔。
父は喉を鳴らし、短く息を吐いた。
「……おい」
呼ばれているのに、呼ばれていない感じがした。
ただの音。帰り道にならない音。
父もそれを感じたのだろう。眉を寄せた。
「……違うな」
小さな呟き。
違う。何が違うか、当時の私は知らない。
でも父の声の温度が、その違いを知っていた。
父は別の言葉を探した。
「……娘」
少しだけ温度がある。
けれどまだ遠い。遠い温度は胸の奥まで届かない。
父は私の頬に指を当てた。
剣を握ってきた指は硬い。硬いのに、触れ方は驚くほど柔らかい。
「……痛いか」
痛いわけがない。
それでも私は声を漏らした。言葉ではない、息の震えだけ。
父はその震えを受け取ってしまう。
「……すまない」
謝る必要なんてない。
それでも父は謝る。謝るのは、私を“人”として扱うからだ。
火鉢が小さく鳴った。
湯が沸く音が、遠くで細く続く。
沈黙の中で、父の胸の奥にある言葉だけが、きっと騒いでいた。
――観測。
丘で父が聞いたという、冷たくて刃のような言葉。
誰かの目的を、私の体に括りつける言葉。
父はその言葉を、私に向けて使わなかった。
「観測対象」
「星の娘」
「天の贈りもの」
どれも呼びかけの形をしているのに、呼びかけじゃない。
肩書きだ。肩書きは、呼んだ瞬間に私を遠くへ押しやる。
父は私を遠くへ押しやりたくなかった。
だから父は、何も言えない。
言えない時間が長いほど、部屋は静かになる。
静かすぎると私は不安になる。不安になると泣く。
父は泣き声を聞いて、すぐに抱き直した。
抱き直すと私の呼吸が落ち着く。落ち着くと父も落ち着く。
その繰り返しが、最初の数日間だった。
◇
父は生活を作った。
寝台の横に小さな籠を置き、布を敷き、私の場所を作る。
火鉢の位置を変え、熱が直接当たらないようにする。
窓に厚い布を掛け、夜の光を少しだけ弱める。
剣で世界を守った男――と人は言う。
でも私の記憶の中の父は、剣ではなく布を扱っている。
柔らかいものは弱そうに見える。
けれど柔らかいものは、冷たい光を薄められる。
柔らかいものは、命の輪郭を守れる。
父は時々、部屋の隅の剣を見た。
見るだけで、手は伸ばさない。
剣はそこにあるのに、そこには行かない。
その距離が、父の決意みたいに見えた。
私が目を開けていることに気づくと、父は口元をほんの少しだけ丸くした。
笑顔というほど派手ではない。ただ角が取れるだけ。
「……起きているのか」
父の指が私の額に置かれる。
熱を確かめる動き。確かめるのは温度だけじゃない。
私がここにいることを確かめている。
私は声を出せない。
だから、ただ瞬きをした。
父は、その瞬きを受け取る。
「……よし」
父はよく「よし」と言った。
勝利の「よし」でも、物語の「よし」でもない。
ただ、今日が続くための合図。
それを聞くと、世界が始まる気がした。
◇
ある日、父は私を抱えて外へ出た。
外へ出ると空気が変わる。
匂いが濃くなる。音が増える。そして――視線が生まれる。
父は視線を嫌った。嫌うというより避けた。
視線は、物語を作るからだ。
「勇者だ」
「英雄だ」
「何かを持っている」
「特別なものだ」
特別。甘い言葉に見えて、実は冷たい。
特別は肩書きへ繋がる。肩書きは名を削る。
父はそれを知っているから、外では歩幅が少しだけ早い。
それでも買わなければいけないものがあった。
布。
乳の代わりになるもの。
火鉢の灰。
湯を温める薬草。
父は市場ではなく、人の少ない路地の店を選んだ。
店の主は年配の女性で、父を見ても騒がない。
騒がない人は、ありがたい。
父は短く言う。
「……赤子に必要なものを」
女性は私を見た。
見る目が軽い。噂を見る目ではなく、体温を見る目。
「まあ、可愛らしい子だこと」
父の肩の力が、ほんの少し抜けた。
女性は手際よく布を選び、薬草を包み、籠をまとめた。
父が代金を払おうとしたとき――手が止まる。
女性が、当たり前みたいに尋ねたからだ。
「お嬢ちゃんのお名前は?」
名前。
父の動きが止まった。
剣士が敵の間合いを測るときみたいに、一瞬だけ世界が固まる。
「……」
沈黙が落ちる。
女性はすぐ察したのだろう。責める顔をしなかった。
むしろ、少しだけ柔らかく笑った。
「急がなくてもいいわ。
でもね、名前は……帰り道になるから」
帰り道。
その言葉が、父の胸に入ったのが分かった。
父は“道”に敏感だ。剣士だからじゃない。
守るために。逃げるために。戻るために。
道が必要だと知っているから。
父は短く息を吐き、低い声で答えた。
「……そうだな」
父はそれ以上、言えなかった。
けれど、その日から父の沈黙は少しだけ変わった。
ただ黙る沈黙じゃない。探している沈黙になった。
店を出ると風が頬を撫でた。
父は私を抱え直し、布の端を整える。
同じ動きがあると、私は安心する。
路地を歩きながら、父は誰にも聞こえない声で呟いた。
「……名前」
それは私に向けた呼びかけじゃない。
父自身に向けた誓いだった。
◇
家に戻ると、父は買ってきた布を広げた。
地味な色。夜に溶ける色。目立たない色。
目立たない色は物語を呼びにくい。
父は私を寝台に寝かせ、布をそっと掛けた。
布が肌に触れると、呼吸が少しだけ深くなる。
父は火鉢の灰を整え、湯を沸かした。
湯気が上がる。湯気は部屋を柔らかくする。
父は椀を手に取り、しばらく湯気を見ていた。
湯気の向こうで目が遠くなる。丘の夜を思い出しているのかもしれない。
冷たい言葉――観測。
父は湯気を見ながら、私を見た。
「……お前を、そう呼ぶつもりはない」
私は分からない。
けれど父の声の温度が、拒絶じゃなく守りだと感じた。
父は机に白い紙を置いた。
白い紙は何もないのに怖い。父の指が少しだけ止まる。
父は木炭を取った。
剣ではなく木炭。黒い粉が指につく。黒は汚れじゃない。輪郭だ。
一本、線を引く。
もう一本。曲線。
形にならない。父は木炭を置き、額を指で押さえた。
「……名は、ただの音じゃない」
低い声。自分に言い聞かせる声。
「名は……戻れる場所だ」
戻れる場所。
私は眠っていた。
眠っているのに眉が少し寄っている。不安の癖が幼い顔にも出るらしい。
父は静かに立ち上がり、私の傍へ行った。
布を整え、頬に指を当て、温度を確かめる。
「……大丈夫だ」
私に向けた言葉で、父自身を支える言葉。
父は椅子に座り、私の寝息を聞いた。
寝息は細い。それでも続く。続くことが奇跡みたいだったのかもしれない。
父は寝息に合わせて呼吸した。
呼吸を合わせると、二人の世界が出来上がる。
その世界にはまだ名がない。
でも温度がある。
父は小さく呟いた。
「……呼びたい」
名で。
肩書きじゃなく。
父は机へ戻った。紙を見た。木炭を持った。
今度はさっきより長く線を引き――途中で止めた。
指を開いたり閉じたりする。
剣を握る手じゃない。子を抱く手だ。
父は紙の上の“書きかけ”を見つめながら言った。
「……お前の名は、お前のためのものだ」
その言葉が胸の奥に落ちた。
理解はできない。けれど温度だけは分かった。
自分のための何かが欲しかった。
誰かの目的でも、誰かの物語でもない。
私が戻れる音が欲しかった。
父はその夜、何度も線を引いては消した。
何度も湯を沸かし、何度も寝息を確かめた。
最後に私の傍へ戻り、布の端を整える。
「……眠れ」
命令じゃない。祈りでもない。
ただのお願い。
父が欲しかったのは答えじゃない。
――明日だ。
明日、私を呼ぶための音。
明日、私が戻るための道。
父は窓の布を確かめた。
外の星が、布の向こうで淡く光っている。星は冷たい。けれど布があると冷たさは薄まる。
父は小さく息を吐いた。
「……観測など」
続きの言葉を飲み込む。
飲み込んだ言葉は剣の代わりに、胸にしまわれる。
父は床に腰を下ろした。椅子じゃない。私の近くにいるために。
そして、まだ決まらない音をいくつか落とした。
短い音。
柔らかい音。
夜に溶ける音。
名ではない。
でも――名になりかけている音。
私は眠りの底でそれを聞いた気がする。
胸の奥の結び目が、少しだけほどけた気がした。
呼ばれる予感。戻れる予感。
その予感があったから、私は眠れた。
父の沈黙は、探している沈黙になっていた。
そして私は――呼ばれる日を待っていた
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