第19話 初めての自己紹介
戸口は、まだ少し怖い。
扉そのものが怖いのではない。
扉の向こうにある“余白”が、私の胸の糸をほどこうとする。
でも、戸口の前に置かれた花は、刺さらなかった。
花は音を立てない。押し込まない。
ただ、そこにいる。
だから私は、今朝も台所で息を探した。
火鉢の赤が小さく息をして、鍋の底が静かに温まる。
木の匙が器に触れる音は細く、布は光を薄くする。
父の足音が迷いなく廊下を通る。
その「同じ」が積み重なると、胸の中に“戻れる場所”ができる。
父が粥を冷ましながら息を吐いた。
「ふー」
湯気がゆらりと揺れた。
私はそれに合わせて、小さく吐いた。
「……ふー」
息が通ると、喉の奥が少し開く。
開くと、名前の二音が胸の奥で落ち着く。
落ち着くと、世界の角が丸くなる。
父は頷いて、短く言った。
「よし」
その「よし」を胸に入れていると、外のことを少しだけ思える。
思えるのに、崩れない。
崩れないというだけで、私は少し大きくなった気がする。
父は片づけを終えると、廊下の布の壁の方へ目を向けた。
布は揺れている。
揺れは硬い正しさにならない。
硬くないから、刺さらない。
父は私の髪の結び目を指で確かめ、外套の襟を整えた。
外に出るための手つき。
その気配だけで、胸がきゅっと狭くなりかける。
父は私の呼吸を見て、低い声で言った。
「……大丈夫だ。今日は、戸口だけ」
戸口だけ。
遠くへ行かない約束の音。
私は小さく頷いた。
父は廊下に出る前に、一拍置いた。
その一拍があると、私は置いていかれない。
廊下の布の壁をそっと持ち上げ、父は扉を細い線だけ開けた。
外の冷たい空気が、細い線で入ってくる。
線なら、まだ扱える。
父の手が外へ伸びた。
すぐに戻る。
戻ってきた父の手には、昨日の薬草の袋がなかった。
袋がない。
そのことが、胸の奥をじんと熱くした。
返したものが、どこかへ消えたということは――受け取られたということだ。
父は扉を閉める前に、外の地面を少しだけ見下ろした。
戸口の前には、花が一輪。
昨日より少し違う色。
花びらが薄くて、風の匂いをまとっている。
父はその花も、扉を大きく開けずに受け取った。
家の中へ入ってくる外を、必要な分だけにするやり方。
父は花を台所の器に挿し、水を足した。
花の匂いが、家の木の匂いに混ざる。
混ざっても刺さらない。
むしろ、少しだけ空気が柔らかくなる。
私は花を見ながら息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息に、父が短く重ねた。
「ふー」
二つの息が重なると、花の色も怖くない。
怖くないと、胸が広がる。
広がると、次のことを考えられる。
父は棚から、小さな木片を取り出した。
薄い板。掌に収まるくらいの大きさ。
木の目がまっすぐで、角が削られている。
父は火を使わない。
音が少ない方法を選ぶ。
父の小刀は、剣みたいに光らない。
光らない刃は、刺さらない。
父は木片に、静かに線を刻み始めた。
削る音が、小さく鳴る。
こすれる音。木の粉の匂い。
私はその動きを見て、胸の奥が落ち着くのを感じた。
父が何かを作る時、世界は父の手の大きさに合わせて縮む。
縮むと、私は息を落とさずに済む。
しばらくして、父は木片を私の前へ差し出した。
そこには、黒い線が刻まれている。
私は文字を全部は読めない。
でも、その形は覚え始めている。
「ミーナ」
父は低い声で、形の上に音を置いた。
「……ミーナの木札だ」
木札。
木札という言葉は、私の胸を戻す。
壁に掛かった名前の木札の前で、父がいつも私を呼ぶから。
父は続けた。
「……名を、置く。礼の代わりじゃない。『ここで聞いた』の印だ」
印。
外の決まりの印ではなく、生活の印。
押しつけじゃない印。
父は紐を通し、木札に小さな結び目を作った。
不格好な結び目。
でもほどけにくい結び目。
「……持てるか」
問いかけ。
私を物にしない音。
私は両手を出した。
父は木札を私の掌に置いた。
木の温度が、少しだけあたたかい。
父の手から移った温度。
私は木札を握りしめそうになった。
握りしめると、角が痛い。
痛いと、胸が尖る。
父の手が私の手の上に軽く重なった。
「……強くない。落ちないくらい」
落ちないくらい。
その言葉で、私は力を抜ける。
抜けると、木札は刺さらない。
父は廊下へ向かった。
私は父の背中の少し後ろについた。
近すぎると息が乱れる。
遠すぎると余白が増える。
父は、その間の距離を知っている。
廊下の布の壁の前で、父は立ち止まった。
布を指で確かめ、結び目を一つ締め直す。
それから私を見て言った。
「……布の内側でいい。出なくていい」
出なくていい。
それは許しだ。
外を怖がる私は弱いのだと思っていた。
でも父は、出なくていいと言う。
出なくていいなら、私は息をしていい。
父は布の向こう側へは出なかった。
扉へ行く前に、布の内側で、私の肩に手を置いた。
押さえつけない温度の手。
「……もし声をかけられたら、息をする。言葉は、出せる分だけ」
出せる分だけ。
その言い方が、私の胸をほどいた。
全部じゃなくていい。
全部を出せない私は、失敗ではない。
そして――
扉の向こうで、足音が止まった。
こつ。
こつ。
硬い音ではない。
でも私は体が固くなった。
固くなると息が浅くなる。
浅い息は、音の次に来るものを怖がる。
父の声が低く落ちた。
「……息」
父が先に吐く。
「ふー」
私は布の内側で合わせて吐いた。
「……ふー」
息が通ると、喉が少し開く。
開くと、音が刺さらない。
扉の外から、幼い声がした。
「おはよー!」
明るい声。
明るいのに、尖っていない。
声の端が丸い。
花と同じ種類の丸さ。
「きのうの、においのふくろ、ありがと!」
ありがと。
その言葉が胸の奥に落ちて、熱くなった。
熱いのに痛くない。
受け取られた、という熱。
父は扉を大きく開けないまま返した。
「……受け取ったか」
「うん! おかあさんがね、いいにおいって!」
おかあさん。
大人の影。
大人の影は、時々物語を連れてくる。
物語は圧になる。
圧は胸を忙しくする。
私は木札を握りそうになって、父の「落ちないくらい」を思い出して力を抜いた。
抜くと、木札は温度のままそこにある。
外の声が続く。
「ねえ、きょうはね、おはな、もっときれいなのにした!」
花。
花は怖くない。
でも、次の言葉が怖かった。
「ねえねえ、なまえ、ききたい!」
名前。
胸がきゅっと狭くなった。
名前は大事だ。
大事だから、外に渡すのが怖い。
渡した名前が、物語になったらどうしよう。
肩書きの代わりに名前が使われたらどうしよう。
父の声が、すぐに線を引いた。
「……名は、ここで言う。扉の外に出さない」
出さない。
父は私の名前を守る。
守るために、閉じるのではなく、置き方を選ぶ。
父は布の内側へ少し戻り、私と目を合わせた。
目が柔らかい。
柔らかい目は、私を急がせない。
「……言えるか。二音でもいい」
二音でもいい。
私の胸の奥で、あの音が転がった。
るみ。
私は息を吸った。
吸うと喉が固くなりかけた。
固くなる前に吐く。
「……ふー」
吐けた。
吐けると、言葉の居場所ができる。
父が小さく頷いた。
「……今」
扉の外で、ミーナが息を吸う音がした。
待っている音。
せかさない待ち方。
私は木札を胸の前に持ち上げた。
木札の文字を指でなぞる。
ミーナ。
その形が、私の中の恐さを少し薄くする。
私は、口を動かした。
「……る」
音が出た。
かすれた音。
でも、出た。
胸が熱くなる。
熱くなると、次の音が逃げそうになる。
逃げる前に息を吐く。
「……ふー」
そして、続けた。
「……み」
二音。
外へ向けた二音。
短いのに、私の輪郭。
扉の外で、空気が一瞬止まった。
それから、ミーナの声が弾けた。
「るみ! るみっていうの!? かわいい!」
かわいい。
その言葉は、私の胸を忙しくしそうだった。
忙しくなると息が浅くなる。
父の声が落ちる。
「……大きな声をだすな。ここは家だ」
叱っているのに刺さらない。
父は声の大きさを整える。
刃ではなく、息で整える。
ミーナはすぐに声を小さくした。
「……うん。ごめん。るみ、だね」
るみ。
自分の音が、相手の口に乗る。
それは怖いはずなのに――不思議と怖くなかった。
ミーナの声は、私を物語にしなかった。
肩書きにも、飾りにも、しなかった。
ただ、音として持ってくれた。
父は扉を細い線だけ開けた。
線の向こうに、小さな影が見える。
髪が揺れて、花を抱えている影。
ミーナが花をそっと置いた。
置く音が小さい。
石で押さえる音が小さい。
小さい音は、刺さらない。
ミーナが言った。
「これ、るみに」
“るみに”。
その言い方が、胸の奥をじんと温めた。
私に、だ。
家に、ではなく。
父に、でもなく。
私に。
父は花を受け取った。
受け取る動きは急がない。
急がないと、私の呼吸は追いつける。
父は一拍置いてから言った。
「……ミーナ」
ミーナが返す。
「なに?」
父は私の手の中の木札を目で示した。
「……これは、お前の名だ。ここで聞いた。忘れない」
ミーナは一瞬、言葉をなくした。
それから、信じられないみたいに笑った。
「え、なにそれ! すごい! うれしい!」
うれしい。
その言葉は、刺さらない。
花と同じ温度。
ミーナが、扉の隙間へ顔を寄せようとした。
その瞬間、父の手が扉の縁に置かれた。
押し返さない。
ただ、線を示す。
「……ここまでだ」
ミーナはすぐに止まった。
止まれる子だった。
止まれるというだけで、私は少し安心した。
ミーナは背伸びして、扉の隙間の向こうへ小さな声を投げた。
「るみ、またね。こんど、いっしょにおはな、みたい」
“いっしょに”。
その言葉が胸に落ちて、少しだけ怖い。
でも怖さの中に、あたたかさもある。
混ざった感情は扱いにくい。
私は息を吐いた。
「……ふー」
父がすぐに重ねた。
「ふー」
息が重なると、混ざったものも落ち着く。
落ち着くと、私は小さく頷ける。
ミーナはそれを見えないはずなのに、嬉しそうに言った。
「じゃ、いくね!」
足音が遠ざかる。
こつ、こつ、こつ。
余白が小さくなる。
小さくなると、私は深く息を吸えた。
父は扉を閉め、布の壁を整えた。
結び目を指で確かめ、短く言った。
「よし」
その「よし」は、境目を守る「よし」だ。
台所へ戻ると、花の匂いが増えた。
器の中の花が二輪になっている。
色が違うのに、喧嘩していない。
違いは怖いものだと思っていた。
でも、違っても並べられる。
父は花に水を足し、私を見た。
「……疲れたか」
私は首を振った。
疲れた、というより――熱い。
胸が熱い。
熱いのに、壊れそうではない。
私は木札を見た。
手の中の「ミーナ」の木札。
木の温度が、まだ残っている。
私は小さく言った。
「……み、な」
今度は扉の外じゃなく、家の中で。
家の中なら、音は落ちない。
木札の前なら、もっと落ちない気がした。
父は頷いて、正しい形を置いた。
「ミーナ」
そして、私の方を見て言う。
「……よし」
その「よし」を受け取った瞬間、胸の熱が落ち着いた。
熱が落ち着くと、嬉しさが嬉しさのまま残る。
父は台所の隅の壁へ歩いた。
壁に掛かった名前の木札の前で、一度だけ呼吸を置く。
呼吸を置くと、家の空気が整う。
父の声が落ちる。
「ルミシア」
名が置かれる。
名が置かれると、私は戻れる。
外へ二音を渡しても、戻れる場所がある。
私は木札を見上げ、二音で返した。
「……るみ」
父は頷いた。
「よし」
それで、今日の形が完成した。
戸口の向こうには、まだ余白がある。
余白は、全部がやさしいわけじゃない。
でも、花が来る余白もある。
名を大切に持ってくれる声もある。
私はまだ、外へ出ない。
でも、外に向けて二音を置けた。
その二音は、落ちなかった。
木札の木の匂いと、花の匂いと、父の外套の匂いが混ざった台所で、私は息を吐いた。
「……ふー」
吐けた息は、今日の私をほどけないように、静かに支えてくれた。
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