第18話 花が連れてきた『またね』
戸口は、家の皮膚みたいだと思う。
内側の温度と外側の温度がぶつかるところ。
匂いが入り、音が刺さり、風が勝手に形を変えるところ。
私は戸口が苦手だった。
扉そのものが怖いのではなく――扉の向こうの“余白”が怖い。
余白は、何でも入ってくる。何でも、私をほどいてしまう。
だから父が廊下に掛けた布の壁は、私にとって命綱だった。
布は揺れる。揺れる壁は硬くない。硬くないと、刺さらない。
⸻
朝の台所は、いつも通りの匂いをしていた。
火鉢の赤。木の匙。湯気の白。
私は椅子の上で布の端を指先で撫でていた。布の目を辿ると、考えが小さくなる。小さい考えなら、胸が忙しくならない。
父は粥の椀を温め、匙で少しずつ冷ましていた。
口をすぼめて、息を吐く。
「ふー」
湯気が揺れる。
私は真似をした。
「……ふー」
音は薄い。でも息は通る。
息が通ると喉が少し開く。開くと、名の二音が胸の奥に落ち着く。
父は頷いて、短く言った。
「よし」
それから父は台所の隅の壁へ歩いた。
紐で吊られた小さな板――名前の木札。
父はその前で一度だけ呼吸を置く。
呼吸を置くと、家の空気が整う。
「ルミシア」
名が置かれる。
名が置かれると、私は輪郭を持つ。輪郭があると、外の余白が少し遠くなる。
私は木札を見上げて、二音で返した。
「……るみ」
父は大げさに喜ばない。大げさな喜びは、私を忙しくするから。
ただ頷いて、いつもの大きさで言う。
「よし」
それで、朝が完成する。
⸻
その日、父は珍しく外套を整えていた。
外へ出るための手つき。剣ではなく、生活の手つき。
それでも外の匂いが混ざる気配だけで、私の胸は少し固くなる。
父は私の結び目を指で確かめた。
不格好な輪。けれど落ちない輪。落ちない輪は、私の息の形にも似ている。
父は低い声で言った。
「……少し、行く」
少し。
遠くへ行かない約束の音。
私は父の外套の端を掴んだ。
掴むと、父の手が上から軽く重なった。押さえつけない温度の手。
「……ここで待てるか」
問いかけ。私を物にしない音。
私は頷いた。頷けるのは、家の匂いがまだ胸にあるから。
父は戸口へ向かう前に、廊下の布の壁を指で確かめた。
結び目を一つ、締め直す。不格好でもほどけない結び目。
扉が開く音は小さかった。
父は扉を大きく開けない。外の空気を細い線だけ入れる。線なら、まだ扱える。
「……行ってくる」
私は声で返せない。
けれど外套の端を、もう一度掴んで離した。
それが返事になることを父は知っている。
扉が閉まる。
閉まる音が布に一度吸われる。吸われると、音の角が丸くなる。
私は台所へ戻った。
火鉢の赤が小さく息をしている。湯気はもう薄い。でも木の匂いが残っている。
残っている匂いは、私を「ここ」に繋ぐ。
昼は明るい。
明るいと、外の気配が滲みやすい。
私は窓の布の端を見て、薄いところがないか確かめた。薄いところは刺さる。刺さると、上を思い出す。
だから私は、家の中の近いものを見た。
布。木。火鉢。器。
そして、廊下の向こうの木札。
木札は、見るだけで息が深くなる。
私の帰り道。
私は小さく吐いた。
「……ふー」
吐けた。
吐けると、胸の糸が一本戻る。
そのとき――
かすかな音がした。
――こつ。
硬い音じゃない。木を叩く音でもない。
床に何かが触れたみたいな、小さな音。
私は体を固くした。
固くなると息が浅くなる。浅くなると、次の音が来る前に胸が忙しくなる。
――こつ、こつ。
足音。足音が戸口の外を通っている。
私は椅子の布を掴んだ。
掴むと布がねじれる。ねじれると胸の糸もねじれる。
私は息を探した。父の「ふー」を思い出して、口をすぼめる。
「……ふー」
音は薄い。でも息は出た。
出た息で、胸の糸が少し緩む。
足音が止まった。
止まると、余白が増える。
余白は怖い。怖いと喉が固くなる。
次に来たのは、声だった。
扉の向こう。布の壁の向こう。
でも声の温度は、刺さらなかった。
「……あの。おうちのひと、いる?」
幼い声。高い。けれど尖っていない。
子どもの声は時々予測できないから怖い。けれど今の声は、そっと置かれたみたいだった。
私は動けなかった。
声で返すことはできない。返す言葉も見つからない。
相手は沈黙を怖がらなかったらしい。
少し間を置いて、また声がした。
「……おはな、ここにおくね」
花。
花という言葉は、胸を少し柔らかくする。
きれいは刺さることもあるのに、花のきれいは湯気みたいに柔らかいことが多い。
「……ミーナ、だよ」
名前。
名前は大事だ。
木札の前で置かれる名前は、私を戻す。
でも戸口の外から置かれる名前は――少し怖い。外の名前は、物語を連れてくることがあるから。
私は息を止めかけた。
止めかけた瞬間、木札の場所を思い出した。
台所の隅。木の板。父の声。「ルミシア」と置かれる音。
私は椅子から降りた。
布の上に足を置く。布は冷たくない。冷たくないと、急がずに動ける。
台所の隅へ向かう。
足音を立てないように、というより、音が刺さらないように小さく。
息を吐きながら歩く。
「……ふー」
吐きながら歩くと、胸がほどけすぎない。
木札が見えた。
木札を見ると心臓の位置が分かる。心臓の位置が分かると、息の位置も分かる。
私は木札の前で立ち止まって、もう一度吐いた。
「……ふー」
戸口の外で、足音が遠ざかる。
――こつ、こつ、こつ。
小さくなる。
小さくなると余白が小さくなる。余白が小さくなると、吸える。
私は木札を見上げて、胸の中で二音を転がした。
(るみ)
声に出すと、外に漏れてしまいそうで怖い。
だから胸の中でだけ言う。胸の中の音は落ちない。
しばらく動けなかった。
戸口の方を見るのが怖い。
でも、花を置いたと言った。花はそこにあるのだろうか。
花があるなら、匂いがするはずだ。
匂いは刺さらないことが多い。匂いなら、見なくても分かる。
私は鼻で空気を吸った。
――土の匂い。
――草の匂い。
――冷たい外の匂い。
そして、その中に、ほんの少しだけ甘い青の匂い。
花の匂い。
匂いがあるなら、そこにある。
そこにあるなら、怖いものばかりじゃない。
私は廊下の布の壁のところまで行った。
布の影に隠れるように立つ。影の中なら、戸口の余白が薄くなる。
布を指先でつまんで、ほんの少しだけ持ち上げた。
布越しに、扉の下の隙間が見える。
隙間の向こうに、何か小さな色がある。
白ではない。黒でもない。柔らかい色。
私は布を下ろした。
一度下ろして、息を吐く。
「……ふー」
息が通ると、もう一度見られる。
私はもう一度布を持ち上げた。
扉の前に、小さな花が置いてあった。
茎が短い。花びらが薄い。
風で揺れないように、小さな石で押さえてある。
花は、扉を叩かない。
声を押し込まない。
ただ、そこに置かれている。
私はその距離がありがたかった。
扉は開けなかった。
開けると余白が増える。増えた余白は、私をほどくかもしれない。
でも花は、扉の内側からも見える位置にある。
見える位置に置いたのは、ミーナという子が考えたのだろうか。
「おはな、ここにおくね」
その言葉は、押しつけじゃなかった。
“置くね”だから。受け取れなくてもいい、という匂いがする。
私は布を下ろし、廊下の壁にもたれた。
胸がじんと熱い。熱いのに痛くない。嬉しさに似ている。
でも嬉しさは大きくなると忙しくなる。忙しくなる前に、息で整える。
「……ふー」
吐けた。
吐けると、熱は熱のまま落ち着く。
そのとき、扉の外から、もう一度だけ声がした。
遠い声。もう走り出している声。
「……あとで、またね!」
またね。
続きがある約束。
約束は怖いこともある。
でも今のまたねは軽い。花と同じ重さ。花と同じ距離。
私は返事ができなかった。
返事ができないことが悔しい。悔しいと胸が狭くなる。狭くなると息が浅くなる。
私は木札の場所を思い出して、息を吐いた。
「……ふー」
吐くと、狭さが少し広がる。
そして私は、今度は小さく声に出した。
誰に聞かせるでもない。木札に向けて。自分に向けて。
「……るみ」
二音は落ちなかった。
家の中に残った。
それが、私には大事だった。
⸻
父が戻ってきたのは、陽が少し傾いた頃だった。
扉が開く音は小さく、布の壁がそれを一度吸う。
吸われた音は丸くなって、胸を刺さない。
父の足音が廊下を通る。
私は台所の椅子の上に戻っていた。戻っていても、心臓の半分は戸口に残っている。
父は台所に入る前に一拍置いて、私の顔を見た。
父はいつも、呼吸を先に見る。
「……息は」
私は答えの代わりに、吐いた。
「……ふー」
それで十分だと父は知っている。
父は頷いた。
「よし」
外套を掛け、手を洗い、火鉢の炭を少し整える。
生活の手つき。いつもの形。
いつもの形が戻ると、私の胸も戻る。
私は父の袖を引いた。
言葉で言えないから、手で引く。引けば、父はすぐ気づく。
「……どうした」
私は戸口の方を指した。
指先が少し震える。震えは怖さだけじゃない。伝えたい震えだ。
父は廊下へ出た。
布の壁のところで一度立ち止まり、布を少し持ち上げる。
扉の前の花を見つけた。
父はすぐに扉を開けなかった。
余白を増やさない。父は外の扱い方を知っている。
「……花か」
私は頷いた。
父は扉をほんの少しだけ開けた。
線のような隙間。
その隙間から手を伸ばし、花をそっと取る。外の空気が少し入る。けれど布の壁がそれを薄くする。
父は花を持って台所へ戻った。
花の匂いが、家の匂いに混ざる。混ざっても刺さらない。
刺さらないのは、花が“押し込まれたもの”じゃないからだ。
父は空の器を探し、水を少し入れて、花を挿した。
花は首を傾けて、そこで落ち着いた。
父は私に目を向けた。
「……誰が」
私は言葉を探した。
喉が固くなる前に、吐く。
「……ふー」
息が通ると、音が出る。
「……み」
ミ。
出たことが嬉しくて胸が熱くなる。熱で忙しくなりそうで、私はもう一度吐いた。
「……な」
ミーナ。全部ではない。
でも、私の口から出た。
父は目を見開かない。
驚きで大きくなる目は、私を忙しくする。
ただ静かに頷いて、正しい形を置いた。
「……ミーナ」
その置き方は、私の音を消さない。
私の音の帰り道になる。
「……来たのか」
私は首を振った。
来たのではない。置いた。置いて、帰った。
私は手を開く仕草をした。置く、の形。
それしかできないけれど、父は分かった。
「……置いていった」
私は頷いた。
父は花を見て、少しだけ呼吸を置いた。
剣の間合いではなく、生活の間合い。
「……外からでも、やさしく来る」
やさしく来る。
その言葉が胸に落ちた。外は全部刃じゃない。
父は私に尋ねた。
「……どう思う」
問いかけ。急がせない音。
私は花の匂いを吸って、吐いた。
「……ふー」
それだけで、父は声に出さない笑いをした気配がした。
私が忙しくならない笑い。
父は言った。
「……礼をしたいか」
礼。
重い言葉。でも父の言う礼は、肩書きの礼じゃない。生活の礼だ。押しつけじゃない礼。
私は迷った。
礼はしたい。けれど扉を開けるのが怖い。余白が増えるのが怖い。
父は迷いを待った。置き去りにしない沈黙。
私は小さく頷いた。
父も頷く。
「……会わないで、できる」
会わないで。できる。
その二つの言葉が、胸をほどいた。
父は棚から小さな布切れを取り出した。柔らかい色の布。
端を折って、小さな袋の形にする。不格好。
でもほどけにくい結び目で口を結ぶ。
袋に乾いた薬草を少し入れる。
匂いがやさしい。刺さらない匂い。生活の匂い。
父は紐を私の指に掛けた。
軽い。軽いと、持てる。
「……落ちないくらい」
その言葉で、私は指の力を整えられる。
廊下の布の壁へ向かう。
私は父の後ろを、少し離れてついていった。
離れると余白が増える。でも布の壁がある。木札がある。戻れる道がある。
父は扉を大きく開けずに、細い隙間から袋を外へ置いた。
置く場所は、花が置かれていたところ。
同じ距離。同じ重さ。
扉を閉め、布の壁を整える。結び目を指で確かめ、短く言う。
「よし」
その「よし」は、外と内の境目を守る「よし」だ。
⸻
台所へ戻ると、花が器の中で静かに立っていた。
花の匂いが家の匂いに混ざる。混ざっても刺さらない。
刺さらないなら、外は少しだけ近づけるのかもしれない。
父は台所の隅の壁へ歩いた。
名前の木札の前に立つ。いつも通り、一度だけ呼吸を置く。
「ルミシア」
名が置かれる。名が置かれると、私は戻れる。
私は木札を見上げて、二音で返した。
「……るみ」
父は頷き、いつも通りに言った。
「よし」
その二音と二音で、今日が家の内側に納まる。
戸口の外から来たものが、刺さる音ではなく、花だった。
名前を置いたのは、肩書きではなく、幼い声だった。
私はまだ外が怖い。
でも、外が全部刃ではないことを、花が教えてくれた。
そして父は、刃を抜かずに受け取る方法を知っていた。
器の中の花は、静かに揺れた。
揺れは硬い正しさにならない。揺れるから、やさしい。
私はその揺れに合わせて、息を吐いた。
「……ふー」
吐けた。
吐けるなら――「またね」も、怖がりすぎなくていいのかもしれない。
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