表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/64

第17話 「る」と「み」

朝は、いつも同じ形で始まる。


火鉢の赤が小さく息をして、鍋の底が温まり、湯気が生まれる準備をする。

布が光を薄くし、器の下の布が音を丸くする。

父の足音が、迷いのない細さで廊下を通る。


その「同じ」があると、私は呼吸を失わずに済む。

同じ形は、戻る道になる。

戻る道があると、胸の奥の糸はほどけきらない。


私は椅子の上で、指先を布の目に沿わせていた。

布の目はまっすぐで、すべって、止まる。

止まる場所があると、自分の身体がどこにあるか分かる。


父は台所で粥をよそっていた。

木の匙が椀を撫でる音は、細くて刺さらない。

父は音を消しているのではなく、音の角を削っている。

尖らない音は、私を急がせない。


湯気が立った。

白いのに冷たくない白。

それを見ると、胸の奥がゆるむ。


父が息を吐く。


「ふー」


その息が湯気を揺らす。

揺れは、星のきらめきと違う。

遠くで私を小さくする光ではなく、近くで私を戻す揺れだ。


私は小さく真似をした。


「……ふー」


音は薄い。

それでも息が通ると、喉の奥が少しだけ開く。

開くと、言葉の居場所ができる。


父は頷いて、短く言った。


「よし」


その「よし」は、できた「よし」じゃない。

息が戻った「よし」。

私はこの種類の「よし」なら、胸に入れられる。


粥を食べ終えると、父は椀を片づけた。

布を敷いて、音を丸くする。

丸い音が積み重なると、台所は柔らかい場所になる。


そして父は、いつもの場所へ歩いた。


台所の隅の壁。

そこに掛けられた、小さな板。


紐で吊られた木の板。

黒い線が刻まれている。

文字は読めなくても、その形を見れば分かる。


名前の木札。


父は木札の前に立つと、必ず一度だけ呼吸を置く。

呼吸を置くと、空気が整う。

整うと、私は外の大きさを思い出さずに済む。


父は私を抱き上げた。

抱き上げる前に、ほんの一拍。

その一拍があると、世界が急に持ち上がらない。


父の胸に抱かれて、私は木札を見上げた。

木の目。削った跡。

紐の結び目。

不格好なのに、ほどけない結び目。


結び目の形があるだけで、胸の中の糸も落ち着く。


父の声が落ちる。


「ルミシア」


名が置かれる。

木札の前で置かれる名は、いつもより重い。

重いのに刺さらない。

重いのに、温度がある。


父は続けて、短く言った。


「……よし」


名と「よし」。

二つが並ぶと、私は「ここ」に戻れる。

それは私の輪郭で、帰り道だ。


――その朝。

私は、その輪郭の内側で、妙な落ち着かなさを感じていた。


怖さじゃない。

熱に似ている。


火鉢の赤がぱちりと鳴る前の、内側の小さな弾み。

胸の奥で、何かが跳ねたがっている。


私は木札を見て、父の口の形を見た。

そして胸の奥で、同じ音を探した。


「ルミシア」


父の声の中の、最初の二つ。

短くて、丸い。

舌の上で転がりそうな音。


私は、言ってみたいと思った。


名を呼ばれた時に、返したい。

頷くのではなく、掴むのではなく――音で返したい。

音で返せたら、木札の前の私は、もっと「私」になる気がした。


でも、言葉は勝手に出てこない。

言葉は、息の道を通って出てくる。

息の道が狭いと、途中で引っかかる。


胸が忙しくなる。

忙しくなると、喉が固くなる。

固くなると、音が出ない。


私は父の外套の端を掴んだ。

掴むと、父の手が上から軽く重なった。

押さえつけない温度の手。


父はそれだけで、私の胸の変化に気づいたみたいだった。


木札の前から少しだけ離れ、私の顔が影にならない角度へ体をずらす。

父は、世界の角度を変えるのが上手い。


「……どうした」


問いかけ。

問いかけは、私を急がせない。


私は口を動かした。

言いたいのは「名」だ。

でも、その言葉すらまだうまく出せない。


私は木札を見て、父の喉を見て、口をすぼめて息を吐いた。


「……ふー」


息が通ると、喉が少し開く。

開いた場所へ、音を落としてみる。


「……る」


かすれた音。

でも、出た。


出た瞬間、胸の奥で赤がぱちりと鳴った気がした。

火鉢の赤じゃない。

私の内側の赤。


私はすぐ次の音を探した。

探そうとすると焦りが来る。

焦りが来ると息が浅くなる。

浅くなると、道が狭くなる。


「……っ」


喉の奥で止まった。

止まると、悔しさが胸に落ちる。

悔しさは熱い。

熱いのに、痛い。


痛いと涙が来そうになる。

涙が来ると、私は崩れる気がする。


崩れる前に、父の声が落ちた。


「……息」


父が先に吐く。


「ふー」


私は合わせて吐く。


「……ふー」


二つの息が重なると、胸の糸の張りがほどよくなる。

張りすぎない糸は切れない。

切れないなら、もう一度できる。


父は大げさに喜ばない。

大げさに喜ばれると、私の胸は忙しくなる。

忙しさは、音を逃がす。


父はただ、頷いた。


「……よし」


戻れた「よし」。

私はその「よし」を胸に入れたまま、もう一度息を吸った。


湯気の匂いがまだ残っている。

木札の木の匂いがある。

父の外套の匂いがある。


匂いが揃うと、道ができる。


「……る」


さっきより少しだけ、音が丸い。

丸い音は刺さらない。

刺さらないなら、続けられる。


次の音を置きたい。

「ミ」。

口の中で小さく跳ねる音。


私は息を吸って、吐いて、その流れに音を乗せた。


「……み」


出た。


二音。

「る」と「み」。


それだけなのに、世界が一瞬だけ静かになった気がした。

静かになるのは怖くない。

静かになるのは、整うことだ。


胸の奥が熱くなる。

熱いのに痛くない。

嬉しい熱。


私は父の顔を見た。

父は目を見開いていなかった。

驚きで大きくなる目は、私を忙しくする。


父はいつもの目をしていた。

ただ、少しだけ柔らかい目。


父は短く言った。


「……よし」


それだけ。


でも、その「よし」には、今の全部が入っていた。

二音を出したこと。

息を戻したこと。

焦って止まったこと。

止まってもまた戻ったこと。

そして――戻れたこと。


父は「すごい」と言わない。

父は「偉い」と言わない。

そういう言葉は、私の胸を大きく揺らすから。


父は、私が落とさずに持てる大きさで、喜びを渡す。

その大きさが、私にはちょうどいい。


私はもう一度、二音を確かめたくなった。

確かめるのは怖い。

うまくできなかったら、消えてしまいそうだから。


でも父の「よし」がまだ胸に残っている。

残っているうちなら、やれる気がした。


私は木札を見て、息を吸って、吐いた。


「……る。み」


音が少しだけ離れてしまった。

続かない。

続かないと胸が忙しくなる。


父がすぐに息を吐いた。


「ふー」


私は合わせる。


「……ふー」


息を重ねると、音の間が怖くなくなる。

怖くなくなると、また音を置ける。


私は小さく、もう一度。


「……るみ」


今度は繋がった。

短いのに、ひとつの形。

形になると、胸の奥が落ち着く。


父は頷き、いつものように正しい形を置いた。


「ルミシア」


正しい形は、私の音を消さない。

正しい形は、私の音の帰り道になる。


父は続けて、短く言った。


「よし」


私はその「よし」を聞いて、木札を見上げた。

木札は揺れていない。

揺れていないのに怖くない。


動かないことが怖い夜とは違う。

これは支えとしてそこにある動かない。


父は私を抱いたまま台所へ戻った。

台所の匂いが、また胸をほどく。

火鉢。木。布。生活の匂い。


父は私を椅子に座らせ、湯を少し注いだ。

湯気がふわりと立つ。


私は湯気を見て吐いた。


「……ふー」


父も同じように吐いた。


「ふー」


息が重なると、二音は胸の奥で落ち着く。

落ち着くと、音は逃げない。


父は湯を飲ませながら、私の髪の結び目を指で確かめた。

不格好で、でも落ちない結び目。

落ちない結び目は、音の形にも似ている。


父が低い声で言った。


「……今日の結び目、いい」


いい。

私はその言葉を、二音みたいに短く胸へ入れた。

短いものは、落としにくい。


私は湯を飲み終えて、父の外套の端を見た。

端を掴むと、父の手が上から重なる。

いつもの温度の手。

ほどけないための手。


私は、その手を感じながら、もう一度だけ言ってみた。


「……るみ」


今度は、父の目がほんの少しだけ細くなった。

笑った、というほどじゃない。

でもそれは、父の中のあたたかい場所が動いた証拠だと思った。


父は大きな声を出さない。

ただ、私の頭を軽く撫でて言う。


「……よし」


その「よし」は、朝の「よし」よりも静かだった。

静かだから、私の中で長く残る。


父は最後に、また台所の隅の壁へ歩いた。

木札の前。

一度だけ呼吸を置く。


「ルミシア」


父が名を置く。


私はその名に、二音で返した。


「……るみ」


父は頷き、いつも通りに言った。


「よし」


それで、朝の形が完成した。


二音は小さい。

でも小さいから、落とさずに持てる。

落とさずに持てるから、明日も同じ形を作れる。


同じ形が積み重なると、私は少しずつ、言葉の居場所を増やせる気がした。


外は広い。

星は遠い。

遠いものは時々、私を小さくする。


でも家の中には、近いものがある。

湯気。布。結び目。木札。父の息。父の「よし」。


そして今日、そこに私の二音が加わった。


私は椅子の上で、布の目を指でなぞりながら、胸の奥でそっと確かめた。


「るみ」


音は、逃げなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


続きが気になりましたら、ブックマークや★評価をいただけると、とても励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ