第16話 揺れる影、近い光
夜は、音が少ないぶん、空が大きい。
昼のあいだは、湯気の匂いが家の中に残って、布が光を薄くして、父の足音が「ここ」に私を繋いでくれる。
でも夜になると、息をしているのは火鉢の赤だけで、他のものは黙る。
黙ると余白が増える。余白が増えると、私は上を思い出してしまう。
星。
星はきれいだと言う人がいる。
私はその言葉を、まだ信じられない。
きれいなものが、いつもやさしいとは限らない。
光は、ときどき刺さる。
遠い光ほど、私を小さくする。
小さくなると、息の道が狭くなる。
その夜、布の中で目を閉じても、まぶたの裏に星が浮かんだ。
窓の外にあるはずの光が、頭の中まで入り込む。
入り込むと胸の奥が忙しくなる。
私は布を握った。
握ると布がねじれる。
ねじれると、胸の糸もねじれる。
ねじれた糸は、ほどけやすい。
息を探す。
探すのに、息が浅い。
浅い息は、探すことすら難しい。
「……ふー」
小さく吐こうとして、喉の奥で止まった。
止まった息は胸の内側を押してくる。
押されると、怖い。
私は起き上がった。
寝具の布を掻き分け、暗い部屋を見た。
暗さはやさしい暗さだった。
けれど、その暗さの上に、もっと大きい暗さがある気がした。
窓の方。
布の向こう側。
布が薄いところから外の気配が滲む。
滲みは、刃より怖い。
刃は避けられる。
滲みは、いつの間にか中に入ってくる。
私は膝を抱えたまま、しばらく動けなかった。
動くと世界が動く。
世界が動くと、上が近づく気がする。
足音がした。
小さい足音。迷いのない足音。
父の足音は、夜でも刺さらない。
刺さらない音は、私の胸の糸をほどきにくい。
戸が少しだけ開いた。
父の影が入る。
影は大きいのに、怖くない。
父の影は、私を覆う壁だから。
父は部屋に入る前に、一拍置いた。
その一拍があると、私は置いていかれない。
父は「急がない」を夜にも持ってくる。
父が低い声で言った。
「……起きているか」
私は頷いた。
頷くと目の奥が熱くなる。
熱くなると涙が来る。
涙は胸を忙しくする。
父はすぐには抱き上げなかった。
抱き上げるのではなく、まず私の呼吸を見た。
浅い呼吸を見た。
父は床に膝をつき、私と同じ高さに目を合わせる。
影を落とさない角度。声を大きくしない距離。
「……息」
父が先に、ゆっくり吐いた。
「ふー」
湯気を冷ますときの息と同じ速度。
同じ長さ。
同じ温度。
私はそれに合わせて吐いた。
音にはならない。
でも息は出た。
出た瞬間、胸の奥の糸が一本だけ戻る。
父はもう一度、同じように吐いた。
「ふー」
私は今度は小さく音を乗せた。
「……ふー」
音が出ると喉が少し開く。
開くと次の息が入ってくる。
入ってくる息は、私を「ここ」に戻す。
父が頷く。
「よし」
その「よし」は、眠れた「よし」ではない。
戻れた「よし」だ。
戻れた「よし」なら、私は受け取れる。
父の指が私の頬に触れた。
温度を足す指。熱を確かめる指。
「……何が見えた」
見えた。
言葉は小さいのに、見えたものは大きい。
私は音を探して、喉の奥を動かした。
「……う」
音だけが出る。
う、の先が出ない。
悔しい。悔しいと胸が狭くなる。
父は急がない。
急がないことで、言葉が育つ場所ができる。
「……上か」
私は頷いた。
頷くと、また胸が忙しくなる。
忙しさが戻りかける前に、父がもう一度息を吐いた。
「ふー」
私は合わせて吐く。
「……ふー」
息を重ねると、上は少し遠くなる。
父は立ち上がった。
立ち上がる前に一拍。
一拍があると、世界が急に大きくならない。
父は部屋の隅へ歩き、小さな箱を持ってきた。
木でできた四角い箱。
穴が開いていて、中に灯りを入れるための箱。
灯りの箱。
父はそれを渡さなかった。
渡す代わりに私の前に置き、掌で軽く押さえた。
押さえるのに、押さえつけない。
「ここにある」と教える押さえ方。
父が言った。
「……これか」
私は指先で箱の角に触れた。
木の冷たさ。
でも冷たすぎない。生活の冷たさ。
私は箱を抱き寄せた。
抱き寄せると胸の奥が少し落ち着く。
落ち着くのに、まだ足りない。
足りないと、上が戻ってくる。
私は箱をぎゅっと抱きしめた。
ぎゅっとしすぎると木が痛い。
痛いと世界が尖る。尖ると上が刺さる。
父の手が、私の腕の上にそっと重なった。
「……強くない。落ちないくらい」
落ちないくらい。
その言葉で、力が少し抜けた。
抜けると、木の角は角のままでも刺さらない。
父は火鉢の方へ行った。
火鉢の赤が小さく息をしている。
赤は近い。近い光は怖くない。
でも、赤を箱に入れたら――
強くなる光は、刺さるかもしれない。
父は火鉢のそばで立ち止まり、静かに呼吸を置いた。
それから炭も足さず、赤をいじらないまま戻ってきた。
父は私の前にしゃがみ、箱の穴の奥を見た。
箱の内側の暗さ。
父が言った。
「……火は入れない」
入れない。
それは優しい制限だった。
制限はときどき檻になる。
でも父の制限は、私を守る線だ。
線があると、息ができる。
父は箱の紐を手に取り、ゆっくり結び目を作り始めた。
不格好な結び目。
でもほどけにくい。
ほどけにくい結び目は、戻る道を作る。
父は私を抱き上げた。
抱き上げる前に一拍。
一拍があると、私は箱を抱いたまま移動できる。
箱の重さが、私の輪郭を保つ。
父は私を台所へ連れて行った。
夜でも残っている匂い。
木。布。火。
それらの匂いは、上の匂いと違う。
上は冷たい。家は温い。
台所の隅の壁には、小さな板が掛かっていた。
名前の木札。
父は木札の前に立つと、必ず一度だけ呼吸を置く。
呼吸を置くと、家の空気が整う。
父は灯りの箱の紐を、木札のすぐ近くの釘に引っかけた。
箱が壁に吊られる。
木札の横に、箱。
二つの木が並ぶ。
父は火を入れないまま、箱を少し揺らした。
揺れると、穴の形が壁に影を落とす。
影は黒い。
でも刺さらない黒だ。
生活の黒。
木札の下で、影が揺れた。
揺れは硬い正しさにならない。
揺れるから、やさしい。
私は箱を見上げた。
上を見るのに、怖くなかった。
星を見る上とは違う。
これは近い上だ。
父の手が作った上だ。
父が低い声で言った。
「……上が怖いなら、近い光を見る」
近い光。
火が入っていないのに、光と言う。
光は明るさだけじゃないのだろうか。
影も光の一部なのだろうか。
父は箱をもう少し揺らした。
影が少し踊る。
踊る影は、私に「ここ」を見せる。
星は遠くで私を小さくする。
影は近くで私を大きくする。
私は息を吸った。
吸うと喉の奥が少し開く。
箱に向かって、小さく吐いた。
「……ふー」
息が当たって箱が少し揺れる。
揺れると影も揺れる。
影が揺れると、壁の硬さが薄くなる。
もう一度吐く。
「……ふー」
今度は、父も同じ速度で吐いた。
「ふー」
二つの息が重なる。
箱が揺れる。影が揺れる。
揺れが、胸の糸の張りをほどよくする。
張りすぎない糸は切れない。
父の手が、私の背中に置かれた。
押さえつけない温度の手。
「……よし」
その「よし」を聞くと、箱を抱えたい気持ちが少し落ち着いた。
抱えなくても、ここにある。
吊られている。
木札のそばで。
戻れる場所のそばで。
私は父の胸に顔を寄せた。
外套の匂い。布と火と風の匂い。
その匂いは、星より近い。
父は木札の前で、名を置いた。
「ルミシア」
名が置かれる。
名が置かれると、私は物語ではなくなる。
私は私になる。
父が続けて、短く言う。
「よし」
私はその二音を胸に入れて、揺れる影を見た。
影は揺れている。
揺れているのに怖くない。
むしろ揺れがあるから、息がしやすい。
父が私の髪の結び目を指で確かめた。
不格好な結び目。
でも落ちない結び目。
父が囁くように言った。
「……抱いて眠りたいか」
私は迷った。
抱けば安心する。
でも抱けば、影が遠くなる気がした。
父は迷いを待った。
置き去りにしない沈黙。
私は小さく首を振った。
抱かない。
壁に吊るしてある。そこにある。
それを信じたい。
父が頷く。
「……よし」
父は私を寝具へ連れていった。
抱き上げる前に一拍。
一拍があると、夜の余白が急に大きくならない。
布の中へ入る。
布の匂い。
包まれると世界の角が削れる。
父は布の端を整え、窓の布も指で確かめた。
薄いところがないか。
光が刺さらないように。
外が滲まないように。
父は寝具の脇に座り、低い声で言った。
「……息」
父が先に吐く。
「ふー」
私は合わせて吐く。
「……ふー」
息が重なると胸が落ち着く。
落ち着くと、まぶたが重くなる。
重くなると、上が遠くなる。
それでも、隙間から星が来そうになる。
来そうになると拳を握る。
握ると胸が忙しくなる。
私はあわてて吐いた。
「……ふー」
父がすぐに重ねる。
「ふー」
二つの息が重なる。
息は見えない。
でも息は影を揺らす。
影は私の「ここ」を、揺らさずに教えてくれる。
父が最後に、静かに言った。
「……上を見なくていい」
上を見なくていい。
それは許しだった。
私は布の中で耳を澄ませた。
遠くで火鉢が小さく鳴る。
近くで父の呼吸がある。
壁の向こうで、灯りの箱がほんの少し揺れている気配がする。
揺れがあると、硬い夜ではなくなる。
私は目を閉じた。
まぶたの裏に星が浮かびかけた。
でも今日は、星の代わりに箱の影を思い出せた。
穴の形の影。揺れる影。父の息で揺れた影。
私は小さく吐いた。
「……ふー」
父が同じ速度で吐いた。
「ふー」
その二つの息で、夜の余白は少しだけ小さくなった。
小さくなった余白に、私は身体を置けた。
眠りに落ちる直前、父の声が低く、短く落ちる。
「ルミシア」
そして――
「よし」
名と「よし」が、私の帰り道になる。
火の入っていない灯りが、私の近い光になる。
夜は空が大きい。
でも家の中には揺れる影がある。
揺れる影があるなら、私は上を怖がりすぎなくていい。
そう思いながら、私は息を吸った。
深く吸えた。
それだけで、夜は少しだけやさしくなった。
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