第15話 甘い匂い、借りる勇気
甘い匂いは、私の胸をほどく。
湯気の匂いが息の道を作るなら、甘い匂いは心臓の角を丸くする。
角が丸くなると、世界は少しだけやさしく見える。
やさしく見えると、外のことを考えても、胸が忙しくなりすぎない。
私はまだ小さくて、甘さの“理由”を知らない。
でも、甘さが“安心の形”になり得ることは知っている。
その日の朝。
私は台所の椅子の上で、指先を口元に持っていった。
指に残った粉の匂いを探すみたいに。もちろん粉は残っていない。
けれど私は、甘い匂いの記憶を舌で探した。
父は火鉢の前で炭を整えていた。
炭の赤が小さく息をしている。
父の指先が炭に触れる距離はいつも同じで、危ない近さにならない。
父は、近さの扱い方を知っている。
父は私の動きを横目で見て、低い声で言った。
「……腹か」
腹。
それだけの言葉なのに、私は頷いた。
腹という言葉は、胸ほど忙しくならない。
腹は、生活の場所だから。
父は鍋に水を張り、火にかけた。
湯気の準備が始まる。
湯気が立つと、私は息がしやすくなる。
息がしやすいと、言葉が出やすくなる。
私は父の背中を見ながら、小さく音を出した。
「……あ」
意味のない音。
でも、音を出すと胸が軽くなる。
父は振り返らない。振り返らないのに、聞いている。
父は棚から小さな袋を取り出した。
布袋。中身がさらさらと鳴る。
父は短く言った。
「……甘いの、作るか」
甘いの。
その音だけで胸の奥があたたかくなる。
私は頷いた。大きく頷くと嬉しさが暴れてしまう。
だから小さく。小さく、でも確かに。
父は袋の口を開け、粉を器にあけた。
白い粉。
白は刺さることもあるのに、粉の白は刺さらない。
生活の白だから。
父は別の小さな瓶を出した。
蜂蜜の瓶。
蓋を開けると、匂いが広がる。
甘い匂い。鼻の奥で、あたたかく溶ける匂い。
私は思わず息を吸った。
父はそれを見て、短く言った。
「……よし」
父は粉に水を少しずつ加え、木の匙で混ぜ始めた。
ぐるり。ぐるり。
木が器の底を撫でる音は丸い。丸い音は刺さらない。
私は椅子の上で身を乗り出した。
近づくと、怖さも増える。
でも甘い匂いは、怖さを薄める。
父は私の視線に気づき、匙を止めた。
止め方が静かだ。音が立たない。
父は私に匙を渡してきた。
匙は私の手より大きい。
でも父の手は、私の手の上から包むだけで、握り方を教えてくれる。
「……混ぜる」
混ぜる。
まっすぐな言葉。迷いが少ない。
だから私はやりやすい。
私は匙を握り、器の中をぐるりと回した。
粉が水を吸って重くなる。
重いものを動かすのは楽しい。
形が変わると、世界が少し自分のものになる。
夢中になってぐるぐる回した。
すると粉が器の外へ少し飛んだ。
白い粉が台の上に散る。
散る。
散る=乱れる。
乱れる=戻れない。
そんな連想が身体の奥で起こって、胸が忙しくなりかけた。
私は止まった。
父の手が、私の手の上に軽く重なった。
奪わない。押さえつけない。
ただ、輪の大きさを小さくする。
父は低い声で言った。
「……小さく」
小さく。
呼吸と同じ言葉。
私は匙の動きを小さくした。
器の中だけを回す。粉はもう飛ばない。
飛ばないと、胸が落ち着く。
父が短く言った。
「よし」
父は蜂蜜を少し垂らした。
とろり、と音がしそうでしない。
甘い匂いがさらに濃くなる。
濃くなると、胸がふわりと緩む。
父は生地の塊を手で丸めようとした。
その動きが、ほんの少しぎこちなかった。
父の手は強い。
でも強い手は、柔らかいものを扱うのが難しい。
柔らかいものは、強さをそのまま受け止めてしまうから。
父の指が生地をつまむ。
くっついて伸びた。
伸びると形が崩れる。
父の眉が、ほんの少しだけ寄った。
それだけで、父の中に迷いが生まれたと分かる。
迷いは怖い。父の迷いは、世界の迷いになる気がするから。
私は息を吸って、吐いた。
「……ふー」
湯気じゃなくて、生地に向かって。
意味は分からない。
でも私は知っている。父の息はいつも世界を丸くする。
だから真似をした。
父は一瞬だけ私を見て、口元を少し丸くした。
「……ふー」
父も息を吐いた。
二つの息が重なる。
生地は揺れない。けれど父の眉は戻った。
父は丸めようとして――失敗した。
べちゃっと潰れて、指に広がった。
台の上に落ち、形が崩れた。
甘い匂いの中に、少しだけ焦げる匂いが混ざった。
火鉢の赤が近すぎたのかもしれない。
父は生地を持ち上げ、しばらく見ていた。
沈黙が落ちる。沈黙は刺さらない。
でも私は胸が少しだけ忙しくなった。失敗の気配がするから。
父が低い声で言った。
「……だめだ」
だめ。
その言葉が胸に刺さりかけた。
だめ=終わり。終わり=戻れない。
私は指先が布を探した。息が浅くなる。
父はすぐに言い直した。
父は言い直せる。
「……これじゃない」
これじゃない。
終わりじゃない言葉。別の道がある言葉。
父は壊れた生地を器に戻し、粉を少し足した。
白が散る。
散る白が怖くなりそうで、私は息を探した。
父が、いつもの速度で言う。
「……息」
父が先に吐く。
「ふー」
私は合わせて吐く。
「……ふー」
胸の糸が戻る。戻ると、粉の白も刺さらない。
父は再び混ぜた。今度は少し慎重に。
生活の慎重さ。父に似合う慎重さ。
それでも、生地は父の指にくっつく。
生地は父の指の形を勝手に写し取る。
父の指が強いほど、写し取り方が乱暴になる。
父はもう一度丸めようとして――また崩した。
崩れた。
私は息を止めかけた。
甘い匂いが、少しだけ焦げ臭くなる。
焦げる匂いは刺さる。失敗の匂いだから。
父は、生地を見て、短く息を吐いた。
「……くそ」
珍しい言葉。珍しいものは胸を忙しくする。
忙しくなると、怖くなる。
父はすぐに言葉を飲み込んだ。
飲み込んで、呼吸を置いた。
呼吸を置くと、父の肩が少し下がる。
父は私を見た。
見る目が柔らかい。
柔らかい目は、私を置いていかない。
「……甘いの、食べたいか」
私は頷いた。
頷くと胸の奥が熱くなる。泣きそうになる。
父は続けた。
「……借りる」
借りる。
父の口から出たその言葉は、重かった。
剣を抜くより重い言葉に聞こえた。
父は負けが怖いのではない。
誰かに何かを渡すのが怖いのだ。
自分の線が壊れることが怖いのだ。
私は父の外套の端を掴んだ。
掴むと、父の手が上から軽く重なった。
いつもの、ほどけないための手。
父は布を一枚取り、私の肩にかけた。
布が増えると外の気配が薄まる。
父は私を抱き上げた。
抱き上げる前に一拍。
一拍があると、決断についていける。
廊下へ。戸口へ。
あの硬い音が来る場所へ。
胸が固くなりかけた。
けれど廊下には布の壁が掛かっていた。
揺れる壁。
布があると、戸口の気配は薄まる。
父は布の向こう側へ行く前に、私の耳元で言った。
「……ここで待て」
待て。ここ。
場所があると、私は崩れない。
父は私を布の内側の影に座らせた。
そして一瞬だけ額に指を当てて、短く言う。
「……よし」
それから父は布の向こうへ出ていった。
私は布の陰で、息を探した。
湯気の匂いは遠い。
でも布の匂いがある。木の匂いがある。家の匂いがある。
扉が少しだけ開く音。冷たい空気が細い線になる。
外の声。女の声。柔らかい声。
「……はい?」
父の声が答える。
「……すまない」
すまない。
父が誰かに謝るのは、もっと珍しい。
でも父の声は揺れていない。線を失っていない。
女が少し笑った。
「何かありました?」
父は一拍置いた。言葉を選ぶ沈黙。
「……甘いものを作ろうとした。失敗した」
短い正直。言い訳がない。刺さらない。
女の声が明るくなる。
「まあ。いいじゃないですか。甘いものは、難しいですよ」
難しい。
父を責めない言葉。
私の胸にもやさしい。
父が続けた。
「……少し、分けてほしい。粉と……蜂蜜の扱いを」
生活の言葉。肩書きじゃない。物語じゃない。
女は迷いなく言った。
「いいですよ。少し待ってくださいね」
瓶が触れ合う音。紙が擦れる音。生活の音。
生活の音は刺さりにくい。だから息が吸える。
私は小さく吐いた。
「……ふー」
女が戻ってくる気配。
「はい、これ。粉と、蜂蜜。あと、これも……」
甘い匂いが少し濃くなった気がした。
父の声が低く落ちる。
「……礼をする」
女が軽く笑う。
「いいんです。今度、うちの店で薬草をひとつ買ってくれれば」
軽い約束。重くない交換。父の線を壊さない。
父が短く言う。
「……分かった」
扉が閉まる。足音が戻る。
父が布をくぐってきた。
手に紙包みと瓶。
匂いが甘い。
甘い匂いが、私の胸をほどく。
父は私の前にしゃがみ、頬を軽く撫でた。
「……戻る」
戻る。家の内側へ。息の道へ。
台所へ戻ると、湯気の匂いが迎えた。
火鉢の赤が、まだ小さく息をしている。
父は粉を器に入れ、蜂蜜を少し垂らした。
さっきより少ない。少ないと、くっつきにくい。
父が言う。
「……混ぜるか」
私は頷いた。
匙を渡される。父の手が上から軽く添えられる。
私はゆっくり混ぜた。
器の中だけ。
粉は飛ばない。
飛ばないと胸が落ち着く。
父は生地に触れる前に、指に粉を薄くつけた。
薄い壁。
くっつきを防ぐための壁。
父の手で、生地が丸くなる。
完全じゃない。少し歪む。
でも形になっている。
父はその丸を、鉄板にそっと置いた。
じゅ、と小さな音。
甘い匂いが熱で少し濃くなる。
濃くなると、胸がふわりと緩む。
父が息を吐く。
「……ふー」
私は真似をする。
「……ふー」
二つの息が重なって、熱が少し丸くなる。
焼けて、色づいて、父がひっくり返す。音が小さい。小さい音は安心だ。
やがて父は皿に乗せ、半分に割った。
そして熱を逃がすために息を吐く。
「……ふー」
私は合わせる。
「……ふー」
父が私の口元へ小さな欠片を運ぶ。
「……熱いぞ」
私は口を開けた。
甘い。
柔らかい。
舌の上で温度がほどける。
ほどけると、胸の奥もほどける。
父が私の顔を見て言う。
「……どうだ」
私は頷いた。
父の口元がほんの少しだけ丸くなる。
父が短く落とす。
「よし」
その「よし」は、失敗の上に落ちた「よし」だった。
失敗があっても戻れる。
借りても線は壊れない。
父は片づけながら、ぽつりと言った。
「……借りるのは、悪くない」
その音は、父の中の新しい結び目みたいだった。
私は父の外套の端を掴んだ。
掴むと、父の手が上から軽く重なる。
いつもの、ほどけないための手。
父は最後に、台所の隅の壁へ歩いた。
そこに掛かっている名前の木札。
父は木札の前で一度だけ呼吸を置く。
家の空気が整う。
父の声が落ちる。
「ルミシア」
名が置かれる。
名が置かれると、私は戻れる。
焦げる匂いも、失敗の気配も、全部を“途中”にできる。
私は木札を見ながら、息を吐いた。
「……ふー」
父が頷く。
「よし」
その二音で、甘い匂いは“安心の形”になった。
失敗は終わりじゃなく、途中になる。
途中なら、戻れる。
戻れるなら、続けられる。
私は甘い余韻を舌に残したまま、深く息を吸った。
湯気と木と甘さが混ざった匂いが、胸の奥を満たす。
満たされると、世界は少しだけやさしくなる。
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