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第14話 布の壁、息の線

戸口の音は、刃に似ている。


見えないのに、まっすぐ来る。

避けようとしても、耳の奥に先に届いてしまう。

届いた瞬間、胸の糸がほどけかけて、息の道が狭くなる。


私はまだ小さくて、音の“意味”を知らない。

でも、音の“勢い”は知っている。

勢いは理由を問わない。勢いはただ刺さる。


その日の朝は、湯気がやさしかった。


鍋の底があたたまって、泡が生まれる前の静けさがある。

火鉢の赤が、小さく息をしている。

父が椀に湯を注ぐと、白い湯気がふわりと立った。


白いのに、正しさの白じゃない。

生活の白。

それを見ると、胸の奥がゆるむ。


父はいつも通り、急がない。


布を整え、器の下に布を敷き、音を丸くする。

木の匙が椀に触れる音は細く、刺さらない。

父の動きには角がない。

角がないことが、私の朝を支えてくれる。


私は椅子の上で、布の端を指で撫でていた。

布の目を辿ると、考えが静かになる。

静かになると、息が深くなる。

息が深くなると、湯気の白が怖くない。


父は粥を冷ましながら、いつものように息を吐いた。


「ふー」


湯気がゆらりと揺れる。

私はその揺れに合わせて、小さく息を吐いた。


「……ふー」


父は頷き、短く言う。


「よし」


その二音が胸に落ちると、世界の角がひとつ削れる気がした。

角が削れると、外のことも少しだけ考えられる。

でも外を考えると胸が忙しくなりやすい。

だから私は、台所の内側を見た。


火鉢。

椀。

布。

そして――壁に掛かった小さな板。


紐で吊られた木の板。黒い線が刻まれている。

文字は読めなくても、その形は覚えている。


名前の木札。


父はその前に立つと、必ず一度だけ呼吸を置く。

呼吸を置くと家の空気が整う。

整うと、私は戻れる。


父が木札の方を見やり、私の頭の結び目を指で確かめた。

不格好な輪が、今日は落ち着いている。

落ち着いていると、胸の奥も落ち着く。


そのときだった。


――ドン。


音が、来た。


戸口の方から。木を叩く硬い音。

扉を揺らす音。


私は一瞬で息を止めた。

目の前が白くなる。白いのに湯気の白じゃない。刺さる白。


指が布を探す。椅子の座面の布を、ぎゅっと掴む。

掴むと布がねじれる。

ねじれると、胸の中もねじれる。


――ドン、ドン。


二回目が来る前に、父が動いた。


父の動きは速い。けれど乱暴じゃない。

速さの中に、私が置いていかれない一拍がある。

それが父の速さだ。


父は匙を置いた。音を立てない置き方。

次に、私の前にしゃがんだ。目線が近くなる。影が大きくならない。


父は低い声で言った。


「……息」


短い命令。命令なのに刺さらない。

父の声が、胸の糸を引き戻す。


父は先に息を吐いた。


「ふー」


私はそれに合わせて、浅く息を吐いた。

吐けた。吐けると、少しだけ吸える。


――ドン。


三回目。胸がまた跳ねる。


父は私を抱き上げた。抱き上げる前に一拍。

一拍があると、心臓が父の動きに追いつける。


父は私を胸に抱え、台所の奥ではなく、廊下の角へ向かった。

戸口から真正面に見えない場所。

音が直線で刺さりにくい場所。


そこで父は一度だけ足を止め、私を外套の内側へ深く入れるように抱き直した。

布が増えると、音は薄まる。

薄まると、胸の糸が切れにくくなる。


父が耳元に言う。


「……ここ」


ここ。

この一語が、私に“場所”をくれる。

場所があると、崩れきらない。


それから父は、壁際に掛けてあった大きな布を引き抜いた。

普段、風除けに使っている布。

父はそれを、戸口へ向かう廊下の途中にさっと掛けた。


紐。

木の釘。

結び目。


父の指が動く。

不格好でも、ほどけにくい結び目。

いつもの髪の結び目と同じ種類の強さ。


布が垂れた瞬間、空気が変わった。

戸口の音が、布に一度吸われる気配がした。

まっすぐ刺さっていたものが、少しだけ丸くなる。


父は布の向こう側へ行った。

私には父の背中しか見えない。

背中は広い。広い背中は壁になる。


父は扉に近づく前に、一度呼吸を置いた。

境目の呼吸。扉を開ける時の呼吸。


扉が、少しだけ開いた。


冷たい外の空気が細い線になって入る。

私は反射的に父の外套を掴んだ。

掴むと、父の手が上から重なった。押さえつけない温度の手。


外の声が聞こえた。若い男の声。息が白い音。少し焦っている音。


「すみません! 配達で――」


父の声は低く、短い。


「……用件」


男が一瞬、言葉に詰まる気配。

父の声は脅しじゃない。けれど、線を引く声だ。


「え、えっと……荷がひとつ。こちらに届けろと」


紙の擦れる音。木箱の角が当たる音。

音が多い。多いと胸が忙しくなる。


私は布の陰で、息を探した。

父の「ふー」を思い出す。口をすぼめ、短く吐く。


「……ふー」


音にはならない。けれど息は出た。

出ると、胸の糸が少しだけ戻る。


外の男が、少し声を弾ませた。


「いやぁ、しかし……失礼ですが、あなたは……」


その“間”で、私は匂いを嗅いだ。

物語の匂い。

誰かが父を“誰かの話”にしようとする匂い。


父の声がすぐに落ちた。


「……呼び方が違う」


外の男が固まった気配。

風の音が、一瞬だけ大きく聞こえる。


「す、すみません! つい……その……」


男は言い直そうとして、言い直す先が見つからない。

肩書きが出てこないと、舌が迷う。


父は続けた。短く、でも揺れない。


「……今日は父だ」


今日は父。

それは家の内側を守る言葉だ。

剣じゃない。でも刃を止める。


外の男は慌てて声の温度を下げた。


「し、失礼しました……。では……ええと、こちらにお住まいの方へ……」


父は扉の隙間を広げないまま、荷を受け取った。

木箱の擦れる音がして、箱が父の手の中へ消える。

箱が消えると、音も少し減る。


男が、おずおずと聞いた。


「……中に、お子さんが?」


その一言で、私の胸がきゅっと固くなった。

“見られる”という気配。

気配は視線より先に刺さる。


父の背中がわずかに角度を変えた。

扉の隙間から私が見えない角度。

体で線を引く。


父は低い声で言った。


「……子だ」


それ以上、説明しない。

説明は物語になる。物語は圧になる。

父はそれを知っている。


男は慌てて咳払いをした。


「も、申し訳ない。詮索するつもりは……。ただ、荷の受け取りに印が――」


印。外の決まりの言葉。決まりは家に入りたがる。


父は短く答えた。


「……ここで」


木が擦れる音。紙に炭が走る音。

父が何かを書いている。

外の決まりを、最小限だけ満たす音。


男は最後に、言いかけた。


「それでは……本当に失礼ですが、あの……」


肩書きの匂いが、また来る。


父の声が先に落ちた。


「……それはいらない」


いらない。

必要なものだけ。

父の線はいつもそうだ。


外の男は諦めたように息を吐いた。


「……承知しました。では、失礼します」


足音が遠ざかる。砂利が鳴る。風が戻る。


扉が閉まった。


閉まる音が、布に一度吸われる。

それだけで、胸の固さが少し解けた。


父が布の向こう側から戻ってきた。

足音は小さい。

でも今日は、その小ささがいつもより大きく感じた。

身体が、まだ音に敏感になっているからだ。


父は私の前にしゃがみ、外套の内側から私の顔を覗いた。

覗く、というより、確認する。


父の指が頬に触れる。温度。

温度は言葉より早く、安心を運ぶ。


「……大丈夫か」


私は頷いた。

頷いたけれど、息はまだ浅い。浅い息は、すぐ戻らない。


父が短く言う。


「……息」


父が先に息を吐く。


「ふー」


私はそれに合わせて、少し長く吐いた。吐ける。吐けると、吸える。


「……ふー」


二つの息が重なると、胸の糸が一本ずつ戻ってくる。


父は小さく頷いた。


「よし」


その「よし」を聞いて、私はようやく布の存在に気づいた。

廊下に掛けられた大きな布。

戸口と私の間にできた、もうひとつの壁。


父は私の視線を追い、布に手を当てた。掌で布を撫でる。

布は揺れる。

揺れると、硬い正しさにならない。

揺れる壁は、刺さらない。


父は低い声で言った。


「……音が刺さる」


刺さる。

父が“刺さる”と言う時、それは私の胸のことだ。


私は言葉で答えられない。

でも父は続けた。


「……刺さるものは、薄くする」


薄くする。消すんじゃない。薄くする。

薄くすれば、息の道が残る。

残れば、戻れる。


父は布の上端をもう一度確かめ、結び目を締め直した。

不格好な結び目。でもほどけない。

父の結び目は、いつも家をほどけさせない。


父は私を抱いたまま台所へ戻った。

台所の匂いが戻る。湯気。火鉢。木。


私は息を吸った。深くはない。

でも、途切れない。

途切れないことが、今の私の勝ちだった。


父は受け取った箱を机の端へ置いた。

置く前に布を敷く。硬い音を丸くする。


箱の中身は、乾いた紙包みだった。

紙の匂い。生活の匂い。


父は包みを開き、中から細い紐と小さな木の杭を取り出した。


新しいもの。変わる気配。

胸が少しだけ忙しくなる。


父は私を見て、言った。


「……手伝えるか」


問いかけ。私を物にしない音。


私は頷いた。


父は紐を私の手に渡した。

ざらりとして、でも柔らかい。

握ると、自分の手が“ここにある”と分かる。

分かると、胸が少し落ち着く。


父は廊下の布を固定するための紐を通し、杭を打つ。

音が硬くならないように、木槌じゃなく掌の圧で少しずつ押し込む。

父は力を持っているのに、力を暴れさせない。


杭が入った。父が頷く。


「……今」


私は紐を回し、輪を作った。

輪は不格好。

でも、落ちない。


父の手が上からそっと添えられる。

奪わない。支えるだけ。


結び目ができた。

布の壁が少しだけ安定した。

安定しても、布は揺れる。

揺れるまま、そこにいる。


父が短く言う。


「よし」


その「よし」は、胸に温かく落ちた。


私は今日、音に刺されて息が浅くなった。

でも、父の布が壁になって、父の声が線になって、私は戻れた。

しかも、私の手が少しだけその壁に参加できた。


それが胸の奥をじんとさせた。

じんとするのに、痛くない。嬉しい熱だ。


父は最後に、台所の隅の壁へ歩いた。


名前の木札が掛かっている場所。


父は木札の前で一度だけ呼吸を置いた。

呼吸を置くと、家の空気が整う。


父の声が落ちる。


「ルミシア」


名が置かれる。

名が置かれると、私は戻れる。

外の音が刺さっても、外の決まりが入りたがっても、ここに戻れる。


私は木札を見ながら、息を吐いた。


「……ふー」


父の「ふー」と同じ速度で。

同じ長さで。


父が頷く。


「よし」


それから父は廊下の布へ視線を向け、低い声で付け足した。


「……次も、同じだ」


次も。

また戸口が鳴っても。

また音が来ても。

この壁がある。この線がある。この名がある。


私は父の外套の端をぎゅっと掴んだ。

それが返事になることを、父は知っている。


布の壁は、静かに揺れていた。

揺れているのに、怖くない。

揺れは硬い正しさにならない。

揺れは、生きている形だから。


戸口の音は刃に似ている。

でも、刃は布で薄くできる。

声で線を引ける。

名で戻れる。


その日私は、家が“壊れない”ことを、胸ではなく、息で覚えた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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