第13話 湯気に息を重ねる
湯気は、音がないのに、そこにいる。
白くて、やわらかくて、指でつかめない。
なのに、目で追っていると胸の奥がほどけていく。
私はそれを、朝の合図みたいに思っていた。
火鉢の赤が小さく息をして、鍋の底が静かに温まりはじめる。
その空気の変わり目で、家の中の冷たさが少しだけ薄くなる。
薄くなると、私は息が吸える。
父は台所にいる。
足音は小さい。小さいけれど、迷いがない。
迷いのない音は、私の胸を急がせない。
私は椅子の上で、布の端を指先で撫でていた。
布の手触りは、世界がここで止まっている証拠だ。
外は広い。外は大きい。
けれど布の内側の空気は、父の手で整えられている。
父が鍋を覗き込み、木の匙を軽く当てた。
かすかな音。硬い音ではない。
木が水に触れる音は、刺さらない。
ほどなくして、湯気が立った。
ふわり。
その瞬間、私は息を吸った。
湯気の匂いは白い。白いのに、正しさの匂いじゃない。
生活の匂いだ。
父は椀を温め、粥をよそい、匙で少しずつ冷ます。
そのとき、父の口元がほんの少し動いた。
「ふー」
声ではない。息の音。
湯気を少しだけ揺らす、温い風。
私はその音が好きだった。
好きというより、安心する。
父の息は、私の息の道を作ってくれる。
父がもう一度、同じように息を吐く。
「ふー」
湯気がゆらりと揺れて、椀の上の空気が丸くなる。
丸くなると、胸の奥が緩む。
――私は見てしまった。
父が息を吐いて、湯気が揺れて、粥がちょうどいい温度になる。
それがひとつの“形”になっているのを。
形が見えると、真似したくなる。
真似すれば、私も世界を整えられる気がした。
父みたいに、刺さるものを丸くできる気がした。
私は口を少しすぼめた。胸に息を集めた。
そして、父の真似をした。
「……ふ」
音が出る前に、息が喉の奥でつかえた。
ふ、の先がほどけてしまう。
息が途中で止まると、胸の奥がきゅっと狭くなる。
狭くなると焦る。焦ると、息はもっと通らない。
もう一度。
今度は強く吐こうとして、頬が膨らんだだけだった。
湯気は揺れない。
揺れない湯気は、私を置いていくみたいに見える。
置いていかれるのは怖い。
怖いと胸が忙しくなる。忙しい胸は、呼吸を追い出す。
私は布を掴んだ。
布が手の中でねじれていく。
ねじれると、さらに忙しくなる。
父は、その動きを見逃さなかった。
匙を置く。置き方が静かだ。
音が立たない。音が立たないから、胸の糸が切れずに済む。
父は椅子の前にしゃがんだ。
目線が近づく。影が大きくならない。
父の顔は派手じゃないのに、近づくと安心する。
安心するのは、表情の柔らかさだけじゃない。父が「急がない」からだ。
父が低い声で言った。
「……やってみたか」
問いかけ。
問いかけは、責めない。
私は頷いた。
頷いた瞬間、悔しさが胸に落ちた。
悔しさは熱を持つ。熱を持つと涙が出そうになる。
涙が出ると、私は壊れる気がする。
壊れる前の自分を、私は知っている。
息が止まって、視界が白くなって、音が刺さって、身体が硬くなる。
そうなると、戻る道が分からなくなる。
父は私の頬に指を当てた。
指は冷たくない。火鉢の赤の近くの指だ。
その温度が、頬の熱を少しだけ落ち着かせる。
父が短く言った。
「……息をしろ」
私は吸おうとした。
でも吸えない。喉の奥が固い。
固い喉は、息の道を塞ぐ。
父は、それを見て――先に息を吐いた。
「ふー」
さっきの、湯気を冷ます息と同じ。
同じ速度。同じ長さ。同じ温度。
父の息は、私の胸の前に道を引く。
道が引かれると、私はそこをなぞれる。
私は父の「ふー」に合わせて、ゆっくり息を吐いた。
音にはならない。
でも、息は出た。
出た瞬間、胸の奥が少しだけ広がる。
広がると、もう一度吸える。
父は、また同じように息を吐いた。
「ふー」
私はそれに合わせて、今度は少しだけ音を乗せた。
「……ふ」
ふ、が出た。
それだけなのに、胸の奥がぱちりと鳴った。
火鉢が炭を噛む音に似ている。小さくて、でも確か。
父は大げさに喜ばない。
大げさに喜ぶと、私の胸は忙しくなる。
父はただ、頷いた。
「……よし」
その「よし」は、できた「よし」じゃない。
戻れた「よし」だった。
戻れた「よし」なら、私は受け取れる。
受け取れると、息が続く。
父は椀を持ち直し、また粥を冷ますために息を吐いた。
「ふー」
湯気がゆらりと揺れた。
揺れる湯気を見ると、また真似したくなる。
でもさっきみたいに焦らない。
父の呼吸の速度を思い出す。
私は小さく息を吸って、ゆっくり吐いた。
「……ふー」
今度は音が続いた。
長い音。身体の中を通って出ていく音。
湯気が、ほんの少し揺れた。
揺れた。
揺れたのを見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
熱いのに痛くない。嬉しい熱。
私はもう一度。吸って、吐く。
「……ふー」
湯気がまた揺れた。
今度はさっきより、少しだけ大きく。
父は椀を私の口元へ運び、言った。
「……熱いぞ」
私は口を開けた。
粥は温かい。温かさが喉を通ると、息の道がさらに広がる。
広がると、私の「ふー」はもっと通りやすくなる。
父は匙を引き、もう一度、湯気に息を吹きかけた。
「ふー」
私は、そのあとに続けた。
「……ふー」
二つの息が重なる。
重なると、湯気が少し踊る。
踊る湯気は、星みたいに遠くない。
手の届く場所で揺れている。
その揺れは、私を怖がらせない。
私は気づいた。
これは“真似”じゃない。
父と同じ速度で、同じ長さで、同じ温度で――
「一緒に息をする」ことだ。
息を合わせると、胸の中の糸がほどけにくくなる。
ほどけにくくなると、私は自分のままでいられる。
父は私の顔を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
笑った、というほどじゃない。
でもそれは、父の「嬉しい」だった。
「……よし」
その「よし」を聞くと、私はさらに息がしやすくなる。
外のことを思うと、胸が忙しくなることがある。
だから私は、台所の内側のものを見た。
椀。火鉢。布。
そして――壁に掛かった小さな板。
名前の木札。
木札は揺れていた。
揺れているのに怖くない。
揺れは硬い正しさにならない。揺れは、生きている形だから。
父は椀を片づける前に、私を抱き上げた。
抱き上げる前に一拍。
一拍があると、私は自分の息を持ったまま移動できる。
世界が急に大きくならない。
父は木札の前に立ち、一度だけ呼吸を置いた。
呼吸を置くと、家の空気が整う。
父の声が落ちる。
「ルミシア」
名が置かれる。
名が置かれると、私は戻れる。
私の輪郭が、外の物語から守られる。
私は木札を見ながら、さっきの「ふー」を思い出した。
息で湯気を揺らしたこと。
父と息が重なったこと。
それが胸の奥に、灯りみたいに残っている。
私は小さく息を吸って、木札の前で吐いた。
「……ふー」
湯気はもう薄い。
でも、私の息はここにある。
ここで出せる。ここで戻れる。
父の手が背中に置かれる。
押さえつけない。温度を足すだけの手。
「……よし」
私はその「よし」を胸に入れて、もう一度息をした。
息は目に見えない。
でも湯気みたいに、確かにそこにいる。
私にとって朝は光じゃなく、息の形でできている。
そして、その形を父と一緒に作れるようになってきた。
湯気のまねをしようとして、うまくいかなくて、悔しくて。
それでも父の呼吸が道を引いてくれて、私はそこをなぞって、息を取り戻した。
それだけのことなのに、世界は少しだけ、ほどけにくくなった気がした。
私は父の外套の端を掴んだ。
掴むと、父は上から軽く手を重ねた。
ほどけないための手。
私は小さく、もう一度だけ言った。
「……ふー」
父は頷いた。
「……よし」
その二つの音で、今日の朝も、ちゃんと形になった。
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