第12話 不格好な結び目
結び目というものは、不思議だ。
たった一本の輪が、髪を――それどころか、ほどけかけた私の呼吸を、ここに留めてくれる。
世界はいつも大きい。
音、光、匂い、誰かの視線。
それが一度に押し寄せると、胸の奥の糸がするするとほどけて、息の仕方が分からなくなる。
だから私は、結び目が好きだった。
結び目は、ほどける前の私を引き留めてくれる。
そしてそれは――いつも父の指先が作るものだった。
けれど、その朝。
私は初めて「自分の指」で、その形を作りたくなった。
⸻
朝の台所は、まだ夜の冷えを薄く残していた。
火鉢の赤が、小さく息をしている。
鍋の底は、泡が生まれる前の静かな気配。
湯気の準備だけが、ゆっくりと空気を柔らかくしていく。
私は布の中で目を開けて、まず匂いを探した。
湯気の匂い。木の匂い。父の外套の匂い。
匂いは、言葉より先に私を「家の内側」へ戻してくれる。
足音がした。硬い音ではない。けれど迷いのない音。
父が戸を少しだけ開け、影を落とさない角度で顔をのぞかせる。
「……起きているか」
私は瞬きをした。
それが返事になることを、父は知っている。
父は一度だけ頷いた。
「よし」
その二音で、朝が始まった。
⸻
父は私を抱き上げる前に、必ず一拍置く。
その一拍があると、私は置いていかれない。世界の動きが急に大きくならない。
鍛えられた腕が私を持ち上げ、胸の温度が近づいた。
私は自然に外套の端を掴む。掴むと、父は上から軽く手を重ねる。
ほどかないための手。
台所へ行く。
火鉢に炭が足される。ぱちり、と小さな音。赤が少し濃くなる。
濃い赤は、部屋の空気を柔らかくする。
鍋に水が張られ、火にかけられる。
父は急がない。急がないことで、私の呼吸は追いつく。
椀が温められ、匙が並べられる。
布が敷かれ、器の硬い音が丸くなる。
父は生活の音を、刺さらない音に変えるのが上手だった。
そして――湯が沸く前に。
父は、私の髪を整え始めた。
⸻
夜の色の髪を手のひらで集める。
指が髪を梳くたび、さらり、と細い音がする。
その音は柔らかくて、私の胸を騒がせない。
父の指は大きい。剣を握ってきた指。
けれど今は、髪を引っ張らない。髪の重さを測るように動く。
どこを持てば痛くないか。
どこで止めればほどけないか。
そういうことを、父の指は知っている。
私は、じっと見ていた。
見ているうちに、胸の奥で小さな火が点いた。
怖さじゃない熱。
「私も、その形を作れるだろうか」という熱。
次に父がする動きが、分かってしまった。
分かると、手が出したくなる。
自分の世界が少しだけ、自分のものになりそうな気がするから。
私はそっと、父の手首に触れた。
止めるためではない。
「待って」を置くために。
父の動きが止まった。
止まり方が静かだ。驚かない。叱らない。
ただ、止まる。
「……どうした」
問いかけ。
父の問いかけは、私を物にしない。
私は胸の奥の火を言葉にしようとして、口を動かした。
「……わ」
音が喉の奥でほどけた。続きが出ない。
出ないと悔しい。悔しいと胸が狭くなる。狭くなると息が浅くなる。
父はそれに気づいて、すぐ一拍置いた。
置き去りにしない沈黙。
その沈黙があると、心臓が間に合う。
「……やりたいか」
私は小さく頷いた。
小さい頷きは、刺さらない。
父は、すぐに「だめだ」と言わなかった。
代わりに、髪から指をそっと離した。
髪がふわりと落ちる。
頬に触れて、くすぐったいのに怖い。乱れの予感。
胸が忙しくなりかけた瞬間、父の手が私の肩に触れた。
押さえつけるのではなく、温度を足す触れ方。
「……ゆっくりだ」
ゆっくり。
父の言うゆっくりは、私の速度だ。
⸻
父は私を椅子からそっと下ろし、布を敷いた場所に立たせた。
転んでも痛くない場所。痛くないと思えるだけで、私は少し勇気が出る。
父が前に回り込み、手を差し出す。
「……手を出せ」
私は両手を出した。
父は私の手のひらをゆっくり開き、指の形を整える。
私の指は力が入りやすい。
力が入ると、掴むものを傷つける。髪を引っ張ってしまう。
父は指先を自分の指で軽くなぞった。
固いところを柔らかくするみたいに。
「……強くしない。落ちないくらい」
落ちないくらい。
剣の強さじゃない。生活の強さ。
父は私の背後に回り、私の手を髪に触れさせた。
自分の髪に触れるのは、近すぎて変だ。
怖さとくすぐったさが混ざる。
私は髪を掴もうとして、指が空を掻いた。
髪はすり抜けて逃げる。逃げると胸の奥がざわつく。
もう一度――と掴んだら、今度は強すぎた。
頭皮の奥で、ちくりと痛みが跳ねた。
息が止まりかける。
痛いと、世界は白くなる。白くなると、怖い。
その瞬間、父の手が私の手の上に重なった。
奪わない。押さえつけない。
ただ、上から包む。
「……痛いか」
私は頷いた。頷いた瞬間、目の奥が熱くなる。
涙が来る。涙が来ると、胸の糸がほどけそうになる。
父は耳元で、ふう、と息を吐いた。
湯気を冷ますときの息と同じ。刺さらない息。
ふう。
私はその音に合わせて、浅く息を吸う。
次に少しだけ深く。
次にもう少し。
父は私の呼吸の速度に合わせて、手の重さを少しずつ変える。
私が落ち着くほど、父の手は軽くなる。
「……よし」
できた「よし」じゃない。
戻れた「よし」。
⸻
私はもう一度、髪を集めた。
父の手は上にある。私の指が強くなりすぎないように、見えない柵みたいに守っている。
指の間に、髪の束ができた。
束ができると、世界が少しだけ整う。整うと息が吸える。
父が布の輪――髪留めを私の手に渡した。
輪は柔らかいのに、落ちない強さがある。
「……これを通す」
通す。
簡単そうなのに、胸が忙しくなる。
崩れたらどうしよう。落ちたらどうしよう。うまくいかなかったら――
私は輪を広げた。指が震える。
震えは怖さだけじゃない。
力の置き場所を探している震えだ。
束を輪に通そうとして――失敗した。
輪が指からすり抜けた。
髪がふわりと落ちた。
頬に触れて、くすぐったいのに怖い。
乱れた。
乱れた。
乱れた。
胸の奥がざわざわ音を立てる。呼吸が浅くなる。指先が布を探す。
喉の奥が固くなる。
私は声にならない音を漏らした。
「……っ」
輪を握りしめた。握りしめすぎて指に食い込む。
痛いのに、やめられない。
父は輪を奪わなかった。
奪わずに、私の両手を包み込んだ。
輪ごと包む。乱れた髪ごと包む。
「……戻せる」
戻せる。
その一言が、胸の奥の糸を引き戻す。
ほどけきる前に止まる。
「……失敗しても、戻せる」
失敗という言葉が、父の口から出ると刃にならない。
失敗は「途中」になる。
父は頬にかかった髪をそっと払い、輪を指から外して整え直した。
動きが急がない。急がないと、私は置いていかれない。
父は背後で、もう一度、髪を集めさせた。
今度は父が先に集めない。
私が集めるのを待つ。
待つ沈黙。置き去りにしない沈黙。
私は髪を集めた。
さっきより少しだけ、束がしっかりした。
しっかりしたことが、胸の奥を少し誇らしくする。
父が囁く。
「……落ちないくらい」
私は力を少し抜いた。
束は落ちなかった。落ちなかったことが嬉しくて、胸がふわりと温かくなる。
輪を広げる。
今度は指の腹で持つ。落とさないように。
父は上から手を重ねるだけで、輪を握らない。
私の手を、“私の手”のままにしてくれる。
私は束を輪に通した。
通った。
胸の奥で、火鉢みたいにぱちりと鳴った。
小さな成功の音。
私はすぐ二回目を――と焦って、輪が絡まった。
束が少し崩れる。
崩れの気配に胸が忙しくなる。
父の低い声。
「……止まれ」
止まる。
止まると、崩れは崩れきらない。
止まると、息が戻る道が残る。
父は輪をほどくのではなく、私の指の角度をほんの少し変えた。
それだけで、輪の通り道が開く。
「……こっちから」
道が示されると、迷いが減る。
迷いが減ると、息が深くなる。
私はもう一度、輪を通した。
二回目が通った。
髪が結ばれた。
⸻
私は結び目を触った。
左右の輪が違う。高さも少しずれている。不格好だ。
でも、落ちない。ほどけない。
確かめているうちに、胸が熱くなった。
熱いのに痛くない。泣きたいのに笑いたい。
嬉しさが大きくなりそうで、少しだけ怖い。
大きいものは、私の胸を忙しくするから。
父は結び目を見て――直さなかった。
直さない代わりに、指で軽く押さえて確かめる。
きつすぎないか。痛くないか。ほどけないか。
そして、低い声で言った。
「……いい」
たった二音。
それだけで、胸の奥がほどけた。
父は私の頭の横で、小さく続ける。
「……不格好でも、それはお前の形だ」
お前の形。
その言葉は木の匂いみたいに静かで、でも確かな重さがあった。
私はもう一度、自分の結び目を触った。
そこに私の指の跡がある。父の指だけじゃない。私の跡。
父の手が肩に置かれる。押さえつけない温度の手。
「……湯を飲むか」
私は頷いた。
父が椀に温い湯を注ぐ。湯気がふわりと立つ。
湯気は刺さらない。湯気は呼吸の形を教えてくれる。
一口飲む。温度が喉を通る。
それだけで胸の熱が少し落ち着く。
父の口元がほんの少し丸くなる。
笑った、というほどではない。
でも、それが父の「嬉しい」だと私は知っている。
「……よし」
できた「よし」。戻れた「よし」。
二つが混ざった「よし」。
⸻
それから父は、台所の隅の壁へ歩いた。
そこに掛かっている、小さな板。紐で吊られた板。黒い線が刻まれた板。
――名前の木札。
父は木札の前に立つと、いつも一度だけ呼吸を置く。
呼吸を置くと家の空気が整う。整うと私は戻れる。
父は私を抱き上げた。
抱き上げる前に、また一拍。
その一拍があると、私は成功の余韻を落とさずにいられる。
木札の前で、父の声が落ちる。
「ルミシア」
名が置かれる。
名が置かれると輪郭ができる。
輪郭があると、私は“誰かの話”にならずに済む。
私は今日、失敗した。乱れて、呼吸が浅くなって、ほどけそうになった。
でも父は奪わなかった。
上から包んで、戻れる道を作っただけだった。
そして私は、自分の手で、もう一度やれた。
だから今、置かれる名は、いつもより温かい。
私は口を動かした。音を出したい。
音は勝手に出てくれない。呼吸の道を通って出てくる。
息を吸う。
湯気の匂い。木の匂い。父の外套の匂い。
匂いが揃うと、道ができる。
「……る」
父は待つ。大げさに喜ばない。沈黙で守る。
もう一度、息を吸う。
「……み」
胸の奥で小さな灯りが点く。
最後の音を探す。舌を動かす。喉の奥を探す。
「……あ」
小さな音。
でも、つながった。
「……るみ、あ」
完璧じゃない。
でも、私の口から出た。
不格好な結び目のまま。それでも落ちない音。
父は低い声で、正しい形を置く。
「ルミシア」
そして短く。
「よし」
その「よし」で、私は自分の音を怖がらずに済んだ。
木札は壁で揺れている。
揺れているのに怖くない。
揺れは硬い正しさにならない。揺れは生きている形だから。
父の手が背中に置かれる。押さえつけない温度の手。
「……明日も、やるか」
明日も。続く。
続くという言葉は、星より近い。
私は声では答えられない。
代わりに、父の外套の端をぎゅっと掴んだ。
その掴み方が返事になることを、父は知っている。
父は小さく頷いた。
「……よし」
木札の下で、不格好な結び目が揺れる。
揺れても落ちない。
揺れても戻れる。
私はその揺れを見ながら、息を吸った。深く吸えた。
結び目は、朝のいちばん最後に来る。
そして私の一日を、ほどけないように――静かに支えてくれる。
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