第11話 触れていい輪郭
朝は、いつも匂いから始まる。
湯が温まる匂い。
濡れた布が、少しだけ甘くなる匂い。
火鉢の炭が、赤い息をひそかに続ける匂い。
幼い私にとって、朝は光ではなかった。
光は刺さることがある。窓の向こうの世界を、勝手に大きくしてしまうことがある。
朝は匂いで、温度で、音でできている。
そして――父の短い言葉で、形になる。
「……よし」
その一言は鐘の音より確かだった。
胸の奥に、柔らかい境界を作ってくれるから。
私は布の中で目を開けた。
天井がある。天井があると安心する。星が直接見えないから。
けれど家の天井は高く、余白が多い。余白は夜の名残を溜めやすい。
だから私は、まず匂いを探す。
匂いは帰り道だ。
――湯気の匂いが、まだ薄い。
代わりに遠くで木がきしむ音。廊下のどこかで、父が歩いている気配。
父の足音は小さい。小さいのに迷いがない。
扉が少しだけ開いて、空気が動いた。
父が顔をのぞかせる。
覗き込む、と言っても大きくは覗き込まない。影を落とさない角度で、目だけがこちらを見る。
「……起きているか」
低い声。短い声。
私は瞬きをした。
それが返事になることを父は知っている。
父は一度だけ頷いた。
「よし」
朝が始まる。
父は私を抱き上げる前に、必ず一拍置く。
その一拍があると、私は動きに置いていかれない。世界が急に持ち上がらない。
鍛えられた腕が私の身体の下に入る。
強い腕。でも壊さない腕。
私は父の外套の匂いに顔を寄せた。
布と火と風が混ざった匂い。そこに戻ると、胸の奥のざわつきが丸くなる。
父は私を抱いたまま、台所へ向かった。
台所は家の中で一番「生活の匂い」がする場所だ。
土鍋の匂い。木の匙の匂い。乾いた薬草の匂い。そして火の匂い。
父は私を椅子に座らせた。
椅子の上には布が敷いてある。硬さが直接伝わらないように。
父は火鉢を覗き込み、炭を少し足した。
ぱちり、と小さな音。赤が濃くなる。赤が濃くなると、空気が少し柔らかくなる。
鍋に水を張り、火にかける。
しばらくは何もしない。
何もしない時間があると、朝は急がない。
急がないと、私は呼吸ができる。
父はその間に、私の髪を整え始めた。
夜の空みたいな黒髪を手のひらで集めて後ろへ持っていく。
指が髪を梳くたび、静電気みたいな小さな感覚が走る。少しくすぐったい。
父は結び目を作る。
結び目はいつも不格好で、左右の輪が少しだけ違う。
でも、ほどけにくい形だ。
不格好でも、戻せる。
父の手は、そういうものを作る。
結び終えると、父は私の額に指を当てた。
熱を確かめる指。いつもと同じ場所、いつもと同じ圧。
「……冷えるな」
父は私の肩に布を一枚足した。
布が増えると、世界との距離が一段増える。距離があると、外が刺さりにくい。
鍋の水が小さく音を立て始める。
泡が底から生まれて弾ける音。その音は胸の奥をほどく。
湯気が立つ。
白いものがふわりと上がる。
白いのに冷たくない。白いのに刺さらない。
湯気を見ると、呼吸が深くなる。
父は椀を温め、粥をよそい、匙で少しずつ冷ましていく。
息を吹きかける音。小さな「ふー」。それが私には大きな安心だった。
父は匙を私の口元へ運び、低い声で言った。
「……熱いぞ」
私は口を開けた。
粥は温かい。温かいものが体の内側に入ると、朝が内側にもできる。
父は私の顔を見て、短く言った。
「よし」
食べた「よし」。生きている「よし」。今日が続く「よし」。
私はその「よし」を胸に入れて、湯気を見続けた。
湯気は天井の余白へ上がって、薄くなって消える。消えるのに、温度は残る。
残る温度が、私の中に灯る。
⸻
食事が終わると、父は椀を片づけた。
椀が机に当たらないよう布を敷き、音を丸くする。丸い音は刺さらない。刺さらない音は胸を守る。
父は台所の隅の壁へ歩いていった。
そこに、小さな板が掛かっている。
木の板。紐で吊られた木の板。
板には黒い線が刻まれている。私は文字が読めない。
けれど、その形は覚えている。
――名前の木札。
父はそれを「札」と呼ぶこともある。
でも外に掲げる札ではない。誰かのために見せる札ではない。
この家の内側でだけ意味を持つ、静かな印だ。
父は木札に指を当てた。
木の表面を確かめるみたいに、そっと。
それを見るだけで、胸の奥が落ち着く。
父は私を抱き上げ、木札の前まで連れてくる。
抱き上げる前に、また一拍。
一拍があると、世界が急に動かない。
私は父の胸に抱かれながら、木札を見上げた。
木の目。削った跡。薄く残る段差。
そこに父の時間がある。
父の声が落ちる。
「ルミシア」
名が、木札の前で置かれる。
名は私の輪郭だ。
輪郭があると、私は“誰かの話”にならずに済む。
父は名を置いたあと、短く言う。
「……よし」
その二つの音で、息が深くなる。
湯気と同じ種類の安心が、胸の奥へ広がる。
――けれど、その朝は少しだけ違った。
父は名を置いたあと、木札をじっと見ていた。
いつもならすぐ手を離して次の作業へ移る。
でも今日は、指を当てたまま、ほんの少し長く止まった。
止まると、空気が重くなる。
重いのに怖くない。
父の考える重さだから。
父は木札から指を離し、私の髪の結び目を確かめた。
ほどけていないか。緩んでいないか。結び目は今日の輪郭だ。
父は低い声で言った。
「……毎朝、ここで呼ぶ」
毎朝。
それは続くという約束の音だった。
「……お前が迷ったら、ここに戻れ」
戻れ。戻れる場所がある。
私は全部は分からない。
でも声の温度で分かる。“迷ってもいい”という許しが混ざっている。
父はさらに言った。
「……俺も、戻る」
父も迷う。父も戻る。
その一言が胸の奥をじんと温めた。
父は強い。
でも強いままではない。強いふりもしない。戻ると言う。
戻ると言える人は、戻れる人だ。
私は木札を見つめた。
木札は小さい。小さいのが良い。
大きいものは外の正しさになる。小さいものは、私の手の大きさに合う。
父は私の額に指を当て、いつものように確かめた。
熱がないこと。――それだけじゃない。私がここにいること。
父は低い声で言った。
「……息をしろ」
私は息を吸った。湯気の匂い。木の匂い。父の外套の匂い。
匂いが混ざって、胸の奥が落ち着く。
父は頷いた。
「よし」
朝の「よし」が、もう一つ増えた。
⸻
その日、父は家の中の動きを少し変えた。
今までより木札の前にいる時間が増える。
木札の近くで私を抱いて立つ。
木札を見せる。見てから台所へ戻る。
繰り返しは安心だ。
繰り返しがあると世界は予測できる。予測できる世界は胸の奥を刺さない。
父は木札を、無理に触らせようとしなかった。
触らせないのではなく、急がせない。
急がせないことで、私は木札を怖いものにしないで済む。
――でも私は、触りたいと思った。
木の目を指でなぞりたい。黒い線を触りたい。
その線が私の輪郭につながっている気がするから。
私は父の腕の中で、手を少し伸ばした。
指先が空を掻く。届かない。
届かないと、胸が少し忙しくなる。
父はその動きを見て、私を下ろした。
椅子ではなく、床の布の上。転んでも痛くない場所。
父はしゃがみ、私の手を両手で包んだ。
「……触りたいか」
問いかけ。問いかけは私を物にしない。
私は声で答えられない。
でも目で答えた。木札を見る目で。
父は一拍置いた。
考える沈黙。置き去りにしない沈黙。
それから父は木札に手を伸ばし、紐を外した。
壁から外す。木札が“動くもの”になる。
動くものは怖い。――でも父の手の中にあると、怖さは薄まる。
父は木札を両手で持ち、私の胸の高さまで下ろした。
私の視線に合わせる。高いものを見上げさせない。
「……ゆっくりだ」
ゆっくり。
ゆっくりは、私の呼吸の速度だ。
私は手を伸ばした。
指先が木札に触れる。
木の冷たさ。
でも冷たすぎない。生活の冷たさ。
指先で木の目をなぞる。ざらり、とした感触。
削った跡の微かな段差。そこに父の時間がある。
黒い線に指を当てた。
線は少しだけ盛り上がっている。木炭の粉が染み込んで、木がその音を抱えている。
父の声が落ちる。
「ルミシア」
私はその音を聞きながら、線を触った。
音と線が重なる。重なると胸の奥に火が灯る。
私は口を動かした。
音を出したい。けれど舌が重い。喉がまだ慣れていない。
「……る」
かすれた息。音の欠片。
父の体が少しだけ止まった。
止まるけれど、大げさに喜ばない。音が逃げないように待つ。
父は頷きだけで、続けていいと教える。
私はもう一度息を吸った。
湯気の匂い。木の匂い。父の外套の匂い。
匂いが揃うと、音は通れる。
「……み」
二音目。
二音目が出ると、胸が熱くなる。痛くない熱。
父は低い声で、正しい形を置いた。
「ルミシア」
私の音のあとに、父の音が重なる。
否定ではない。帰り道を作るための音。
父は続けて短く言った。
「よし」
その「よし」は、いつもより少し震えていた。
震えているのに強い。強いのに刺さらない。
私は木札をもう一度撫でた。
木の目。黒い線。父の時間。
そして私は知った。
木札は外の札ではない。
肩書きを掲げる札ではない。
物語を呼び込む札ではない。
木札は、私のための印だ。
私が戻るための印だ。父が戻るための印だ。
父は木札をゆっくり持ち上げ、壁に掛け直した。
紐を結ぶ指が、不格好で、でもほどけにくい。
結び目の形は、私の髪と似ている。
父は結び目を確かめ、木札が揺れないように整える。
整えると、家の空気が落ち着く。
父は私を抱き上げ、木札の前に戻った。
戻った場所で、もう一度名を置く。
「ルミシア」
私は父の胸元の布を掴み、息を吐いた。
父が短く言う。
「よし」
その二つの音で、朝は完成した。
⸻
昼になると、窓の布の向こうが少しだけ明るくなる。
明るさは刺さることがある。
でも父は布の端を整えて、刺さる光を削っている。
父はその日、木札の真下に小さな布を掛けた。
白ではなく、淡い色。正しさの白ではなく、生活の色。
布があると、木札の影が柔らかく落ちる。
影は揺れる。揺れると硬くならない。
父は影を硬くしない。
父は私を抱きながら布の端を撫で、それから木札を見て言った。
「……ここは家だ」
家。
肩書きではない。物語でもない。
でも私にとっては一番大きい言葉だ。
私は外套の匂いを吸って、木札を見た。
揺れているのに、怖くない。
私は口を動かした。
「……る」
父が頷く。
「……み」
もう一度頷く。
音が続くと、胸の奥が少しずつ広がる。
私は最後の音を探した。
舌を動かし、喉の奥を探って――
「……あ」
小さな音。でも、出た。
「……るみ、あ」
完璧じゃない。
でも私の口から出た。木札の前で。湯気の匂いの中で。父の温度の中で。
父はその音を受け取って、しばらく黙っていた。
黙って、胸の奥で何かを整えていた。
そして低い声で言った。
「ルミシア」
正しい形。
でも私の音を消さない形。
父は続けて短く言う。
「よし」
その「よし」で、私は自分の音を怖がらずに済んだ。
木札は小さい。
でも家の中で一番大事な場所に掛かっている。
そこは、私の帰り道だ。
私はまだ外が怖い。星も怖い。音も視線も怖い。
でも木札がある。湯気がある。父の「よし」がある。
それだけで、今日を続けられる。
朝は匂いから始まる。
そして、名で形になる。
「ルミシア」
父が置くその音が、私の輪郭を守ってくれる。
私はその輪郭の中で息を吸った。
深く吸えた。
父が低く言った。
「よし」
木札の朝は、そうして完成する。
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