第10話 手の中の灯り
灯りは、星に似ている。
どちらも光る。どちらも、暗い場所に道をつくる。
でも私にとって、星は遠い。
遠すぎて、目が追いつかない。見上げた瞬間に胸の奥がひゅっと縮む。
灯りは近い。
手の届く場所にある。近い光は、刺さらないことがある。
その日、父は「近い光」をひとつ、作ろうとしていた。
⸻
朝の匂いは、湯気から始まった。
鍋の底で小さな泡が生まれ、白いものがふわりと広がる。湯気が立つだけで、私は息を吸える。目に見えないものが、ちゃんと“そこにある”と分かるからだ。
父は台所で手を動かしていた。
いつもの朝と同じ静けさ、同じ迷いのなさ。――けれど、机の上の並びが違う。
薄い紙。小さな木枠。紐。
そして、油の小瓶。
新しいものは世界を動かす。
動く世界は、呼吸を乱しやすい。
父は私の視線に気づき、椀を置いてからこちらへ来た。
しゃがむ。目線の高さを近づける。急に大きな影を落とさない。
髪をゆっくり集め、いつもの不格好な結び目を作る。
左右の輪は少し違う。でも、ほどけにくい形。
額に指を当てて、短く言った。
「……よし」
朝の合図。
その一言で、胸の奥の忙しさが少しだけ静まる。
父は机の上の木枠を指で軽く叩いた。
「……灯りだ」
灯り。
意味は分からなくても、“暗い”と一緒にいる音だと分かる。
「……外に行く」
外。
その音だけで、胸がきゅっと固くなる。指先が布を探す。呼吸が浅くなる。
父はすぐ、言い直した。
「……少しだけ」
少しだけ。
外の大きさを削る言葉。父の声が落ち着いていると、私は“少し”を信じられる。
父は木枠に紙を貼り始めた。
紙は薄く、白い。白は少し怖い。けれど父が扱うと、白は“正しさ”ではなく“材料”になる。
糊をつける手つきが慎重だった。
剣を握ってきた硬さが、破らないための硬さに変わる。端を押さえ、しわを伸ばし、余分な糊を布で拭う。
祈りみたいに丁寧だ。
父は祈らない。でも祈りみたいに、形を崩さない。
紙を貼り終えると、底に小さな皿を置き、油を垂らした。
紐を通し、持ち上げて見せる。
白い紙の箱。
中に火が入る予定の箱。
父は私の目を見て、低い声で言った。
「……怖ければ、見なくていい」
見なくていい。
外より先に、私を守る言葉。
私は手のひらを開いたり閉じたりした。
触りたい。でも熱いのかもしれない。熱は怖い。
父は灯りを机に戻し、私の手を上から包んだ。温度を足すだけの手。
「……触らなくていい。持つのは俺だ」
その一言で、息が戻った。
父が持つなら、世界は壊れにくい。
⸻
外へ出る準備は、父の手で小さくされた。
厚い布を一枚、二枚。
首元を締めないよう整え、袖口を折り返し、風の隙間を減らす。けれど閉じ込めすぎない。
抱き上げる前に、一拍。
その一拍はいつも、私の心臓を落ち着かせる。
扉の前で父は呼吸を置く。境目を守る呼吸。
扉を少しだけ開ける。冷たい空気が細い線になって入る。
私は外套の内側に顔を寄せた。
布と火と風の匂い。帰り道の匂い。
外は明るい。
明るいのに、音が多い。足音、荷車の軋み、遠くの呼び声。
その中に今日は、別の匂いが混ざっていた。
甘い匂い。焼いたものの匂い。布の新しい匂い。――それから鈴の音。
「ちりん」
刺さりそうになって、胸が小さく跳ねる。
父は道を選び、鈴の近い場所を避け、影の多い路地へ入った。影は暗いのに、刺さらない。
路地を抜けると、小さな広場があった。
石畳が少し開け、木の台が並ぶ。今日は布が張られ、紙の飾りが揺れていた。揺れる音が柔らかい。
父が小さく言った。
「……祭りだ」
祭り。外の中でも特別に大きい音。
大きい音は、物語を連れてきやすい。
私は外套を掴んだ。
父はすぐ、手の上から包む。
「……端だけ見る」
端だけ。
また大きさを削る言葉。
父は広場の端、壁沿いの影に立った。
人の流れが正面から当たらない場所。視線が刺さりにくい場所。
そこから、私は広場を見た。
子どもが走る。笑い声が跳ねる。
焼き菓子の匂い。布の露店。
そして――灯りの箱が、いくつも吊られている。
白い紙の箱。
父が作ったものと同じ形。
けれど、たくさんあると胸が忙しくなる。
星が増えると怖いのと同じで、灯りが増えると息が浅くなる。
父はすぐ気づいて、耳元で言った。
「……見なくていい。匂いだけでもいい」
匂いだけなら、できる。
私は外套の内側で息を吸った。甘い匂い。木の匂い。生活の匂い。
そのとき、誰かが父に声をかけた。
「……あれ? もしかして……」
跳ねた声。人を集める声。
視線が増える気配に、私は息を止めかけた。
父は動かない。動かないことで線を作る。
声の主は露店を手伝う若い男だった。汗の匂い。働く匂い。
男は父を見て目を輝かせる。
「すごい……! あなた、あの――」
肩書きが形になる前に、父の声が落ちた。
「……呼び方が違う」
男の言葉が止まる。
止まった視線が私に刺さりそうになる。
父は私を外套の奥へ寄せ、見える面積を減らした。
布が増えると、視線は薄まる。
「……今日は父だ」
父。
肩書きではなく、物語でもない言葉。
男は慌てて頭を下げた。
「す、すみません……!」
そして言い直す。
「お嬢ちゃん、寒くない?」
軽い問い。今を置く問い。
胸の固さが少しだけ解ける。
父は短く言った。
「……気にするな。今は祭りだ」
男は露店の裏から、小さな焼き菓子を持ってきた。
甘い匂い。丸くて、小さい。
「これ、甘いよ。食べられる?」
知らないものは怖い。
けれど父は、未知を小さくする。
父が受け取り、半分に割り、匂いと熱を確かめてから私の口元へ運ぶ。
父の手を通ると、世界は壊れにくい。
私は口を開けた。
甘い。甘いと胸の奥がふわりと緩む。
父が低く言った。
「……よし」
外の中での「よし」。
男は照れくさそうに笑った。
「……名前、聞いてもいい?」
名を求める問い。
肩書きではない問い。
父は一拍置く。置き去りにしない沈黙。
それから、外の空気に音を落とした。
「……ルミシア」
名が外へ出る。
でも冷たくならない。父の声の温度があるからだ。
「ルミシア。いい名前だ」
その言葉は、湯気みたいに柔らかかった。
刺さらない。
男は手を振って露店へ戻る。追いかけない。
それが、ありがたい。
⸻
広場の中央では、紙の灯りに火を入れる準備が始まっていた。
人が集まる。音が増える。胸が忙しくなる。
父は頷き、さらに端へ移動した。
移動は一歩だけ。一歩で視線の角度が変わり、音の刺さり方が変わる。父はこういうことを、いつも先にする。
低い石の段差に腰を下ろし、私を膝に座らせた。
高さが安定する。揺れが少ない。
父は鞄から、朝作った灯りを取り出した。
白い紙の箱。小さな木枠。
私の目を見て、低い声。
「……これを持っていろ」
怖い。
でも押しつけない声。
「……火は入れない。空のままだ」
空のまま。なら熱くない。
私は恐る恐る指を伸ばした。薄い紙の感触。けれど破れない。端が整っていて、指が引っかからない。
私は両手で持った。
箱が少し揺れて、小さく鳴る。刺さらない。自分の手の中の音だから。
父が言った。
「……近い灯りだ」
星より近い。
たくさんの灯りより小さい。私の手の大きさに合う。
広場の中央で、火が入れられた。
橙色が灯り、紙が柔らかく光る。
柔らかい光は刺さらない――はずなのに、たくさん灯ると胸が少しだけ縮む。
私は無意識に外套へ顔を寄せ、匂いを吸った。
父の手が背中に置かれる。押さえつけない温度の手。
「……見上げなくていい」
救われる言葉。
星も灯りも、上にあると怖い。上は遠いから。
父は私の手の中の空の灯りに、指を添えた。
「……これを見ろ」
私は手の中を見る。
空のままの灯り。白い紙の箱。薄いのに、ちゃんと形になっている。
父が続けた。
「……光は、ここから始めればいい」
ここ。手の中。近いところ。
その瞬間、広場の歓声が波になった。
人の気持ちがひとつになる音は、“正しい”みたいに見えてしまう。私は息が浅くなりかける。
父が耳元で言った。
「……息をしろ」
短い言葉。刺さらない言葉。
私は息を吸う。甘い匂い、紙の匂い、父の外套の匂い。匂いが戻ると、音の波は遠くなる。
灯りは揺れている。
揺れているから、硬い正しさにならない。生活の匂いに近づく。
父が小さく言う。
「……よし」
外の中で、呼吸が戻った「よし」。
私は手の中の灯りをもう一度見た。
火はないのに、なぜか温かい気がする。父の時間が折り目に残っているからだ。
私は口を動かした。
「……と」
父の体が少しだけ止まる。
止まるけれど、急に喜ばない。音が逃げないように待つ。
「……う」
頷きが、“続けていい”をくれる。
私は喉の奥を探して、拾った。
「……さ」
息を吸う。胸の奥に空間ができる。空間ができると、音は通れる。
「……とう、さ」
父の喉が小さく動いた。
声を出しそうで、飲み込む動き。大げさに笑わない。私が恥ずかしくなるのを知っている。
父は低い声で言った。
「……父だ」
灯りより近い音。
私の手の中より、もっと近い音。
そして、いつもの一言。
「よし」
広場の歓声より強い「よし」。
肩書きよりも、物語の圧よりも。胸の奥に、痛くない熱を残す。
⸻
帰り道、父は灯りを鞄にしまった。
私が持った空の灯りは、潰れないよう布で包まれる。包み方が丁寧だ。壊さないための丁寧さ。
路地へ戻ると音が減る。匂いも減る。
減ると、胸の奥の忙しさがゆっくりほどける。
扉の前で父は呼吸を置き、境目を整えてから中へ入った。
家の匂いが戻る。火鉢、湯気、布。
私は深く息を吸った。戻れる。
父は灯りを取り出し、台所の内側の壁――名の札の近くに、そっと吊るした。
外のためではない。中のための灯り。
灯りは空のままだ。
火は入っていない。けれど湯気の中で、白い紙は少しだけ柔らかく見えた。
父は私を抱き上げ、灯りの前へ連れていく。
「……ここに置く」
近い光を、家の内側に残す。
父は額に指を当てて、短く。
「……よし」
それから、名を置く。
「ルミシア」
私は見上げない。上は遠いから。
代わりに、灯りの影が壁に揺れるのを見る。揺れているから、正しさにならない。
私は小さく息を吐き、もう一度だけ音を出した。
「……とう」
父は頷く。
「……父だ」
そして短く。
「よし」
灯りをひとつ。名をひとつ。呼びかけをひとつ。
それだけで、世界は少しだけ、呼吸がしやすくなる。
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