第1話「丘の上の贈りもの」
私の最初の記憶は、光ではない。
星の瞬きでも、天の高みでもない。
それは――手のひらの温度だった。
世界は暗く、まだ輪郭を持っていなかった。
音は遠く、匂いは曖昧で、私は自分がどこにいるのかも知らなかった。
けれど、ひとつだけ確かなものがあった。
胸の奥に、柔らかく積もる温かさ。
抱かれているという感覚。
包まれているという安心。
その温度の持ち主を、私は後になって知る。
アレイオス・フェルディア。
剣士であり、英雄と呼ばれた男。
そして――私の父。
⸻
その夜、都は静かだった。
祝宴の夜でも、戦勝の夜でもない。
ただ、いつもの夜が、いつものように更けていく夜だった。
城壁の内側は穏やかで、石畳を渡る風は冷たい。
遠くで酔いの笑い声が跳ね、窓の灯りがひとつ、またひとつ消えていく。
それらの音を背中に受けながら、父は歩いていた。
父は派手な身なりを好まなかった。
肩に掛ける外套も、飾りのない濃い色を選ぶ。
靴音も、必要以上に響かせない。
それは隠れるためではなく、余計なものを連れてこないためだった。
夜の都は、英雄を呼び戻す声で満ちている。
「ここに立て」
「讃えられろ」
「救ったのだから、受け取れ」
そんな声が、どこからともなく湧いてくる。
父は、その声を知っていた。
だから、夜に歩くときはいつも、少しだけ早かった。
けれどその夜は、違った。
足が、勝手に方向を変えた。
父の歩みは、城門の方へ向かっていった。
門番は父に気づいたが、声をかけなかった。
英雄と呼ばれる男への礼は、言葉ではなく沈黙に変わることがある。
父もまた、頷きだけを返し、門を出た。
城外。
草の匂いが濃くなる。
土の湿り気が、昼間の熱を隠している。
遠くで虫の声が細く続き、夜は深い。
父は、丘へ向かった。
城外にある小高い丘。
都の喧噪が届かないわけではないが、空が広い場所。
星が、いつもより近く見える場所。
夜空は満天だった。
星々は、ただ輝いていた。
誰かを祝うでもなく、誰かを裁くでもなく。
人の営みとは関係なく、冷たく、静かに、淡々と。
父は丘の頂に立ち、息を吐いた。
そこから先は、剣士の息ではなかった。
戦場で呼吸を整える息ではなく、ただ一人の男としての息。
そして――風が止んだ。
虫の声が、ひとつ、またひとつ消えた。
夜の匂いが、薄くなる。
星の光が、まるで布を透かしたように柔らかく変わる。
父は、背中に何かを感じたのだろう。
剣を抜かない。
代わりに、体の向きをゆっくり変えた。
そこに、誰かがいた。
人の形をしているのに、人ではない。
足元が地に触れていないのに、落ちない。
衣は夜空の色と同じで、揺れ方が風と違う。
目は星のように淡く、しかし星よりも確かにこちらを見ていた。
父はその存在を見て、驚かなかった。
驚きはしただろう。
けれど、恐れで動けなくなる驚きではない。
父は一歩下がらない。
一歩進みもしない。
その距離が、父の作法だった。
「……お前が、呼んだのか」
父の声は低く、短い。
叫びではなく、問い。
相手を押し込めない言葉。
存在は、ほんの少し首を傾けた。
星明かりが、その動きに追いつかない。
「呼んだのは、私ではない」
声は、音というより、胸の内側に落ちる言葉だった。
聞こえるのに、耳を通らない。
理解が先に来て、後から震えが来る。
父は眉をわずかに寄せた。
「なら、誰だ」
「天の意思だ」
存在は夜空を見上げた。
星々のひとつひとつが、その瞬間だけ、少し強く光ったように見えた。
「地上は繁栄し、やがて心を失った。
人は、自らの痛みを忘れ、他者の痛みを笑うようになった。
その報いとして、破滅が近づいた。
……お前は、それを止めた」
父は反射的に視線を逸らした。
誉れの言葉を受け取らない癖が、体に染みついていた。
「止めたのは、俺だけじゃない」
「だが、お前が剣を振るった。
そして剣を収めた。
剣で終わらせず、終わらせた後に背を向けた」
父の指が外套の端を掴んだ。
その仕草には癖がある。
言葉が胸に刺さるとき、父は布を確かめるように触る。
確かめるのは布ではなく、自分の境界線だ。
「……何が言いたい」
存在は、今度は夜空ではなく、父の胸元――心の辺りを見た。
「地上の人間が、悔い改めたのか。
それを確かめる」
父の背筋が、わずかに硬くなる。
剣士の緊張。
だが父は剣を抜かない。
「どうやって」
「観測だ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が一段冷えた。
星の光が、刃のように見えた。
父は一拍置く。
沈黙は、拒絶ではない。
父にとって沈黙は、言葉の中身を量る時間だ。
「……俺に、何をさせる」
存在は、両手を前に差し出した。
その腕の中に、小さな包みがあった。
布にくるまれた、命。
声も上げず、ただ静かに呼吸している。
私だった。
存在は言った。
「この子を地上で育てよ」
父の目が揺れた。
揺れたのは恐れではない。
思いがけなさ。
そして、何かを受け取ってしまったという驚き。
「……子どもを?」
「天の血を引く。
だが、人ではないとは言わぬ。
神でもないとは言わぬ。
この子は“境界”にいる」
父は包みを見つめた。
視線が柔らかい。
剣士の目ではなく、決断の目。
戦場の敵を測る目ではなく、守るべきものを測る目。
「観測とは、何だ」
存在は淡々と答える。
「この子が地上で成長し、見たもの、触れたもの、覚えたもの――
それが、地上の答えとなる。
この子が恐れたなら、地上は恐れの地。
この子が救われたなら、地上には救いがある」
父の喉が動いた。
言葉が詰まるときの動き。
「……それは、この子を道具にするということか」
存在の目が、ほんの少しだけ細くなる。
怒りではない。
試すような静けさ。
「道具にするかどうかは、お前次第だ。
この子は“観測”のために託される。
だが、父となるのもまた、お前次第だ」
父は包みへ手を伸ばした。
伸ばした指が、途中で止まる。
触れることで、責任が確定してしまう。
それを知っている止まり方だった。
父は、もう一度だけ尋ねた。
「俺に育てられると思うのか」
存在は、躊躇いなく答えた。
「お前は剣で勝った。
だが、剣で全てを解決しなかった。
それだけで十分だ」
父の手が、再び伸びた。
包みを受け取る。
重さは軽い。
けれど、その軽さが、世界の重さに繋がっている。
その瞬間、私は小さく息を吸った。
布の中で、かすかに身じろぎした。
泣き声は出なかった。
ただ、温度を探すように動いた。
父の腕が、反射的に包む。
抱き方に迷いがある。
迷いがあるのに、壊さないようにしている。
壊さないようにする手は、世界を壊さない手でもある。
存在は言った。
「忘れるな。
この子は境界にいる。
お前が与えるものは、地上の形だ」
父は低く答えた。
「……わかった」
その言葉は誓いではない。
英雄が掲げる理想でもない。
ただの返事。
ただの返事だから、強い。
存在は一歩下がり、夜に溶けるように薄くなった。
風が戻る。
虫の声が戻る。
星の光が、元の冷たさに戻る。
丘の上には、父と私だけが残った。
父は空を見上げなかった。
星を睨みもしなかった。
ただ、私を抱え直し、布の端を少し整えた。
「……寒いか」
私が答えられるはずはない。
それでも父は問いかける。
問いかけることで、父は自分を父にしていく。
父は丘を下りた。
足元の草を踏む音が、小さく続く。
その音が、私の最初の子守唄になった。
⸻
城門へ戻る途中、父は何度も立ち止まった。
立ち止まるたびに、腕の中の重さを確かめる。
呼吸が続いているか、布が苦しくないか。
そして、私の頬に指をそっと当てる。
頬に触れる指は、固い。
剣を握ってきた指。
けれど、その硬さの中に、震えがある。
震えは恐怖ではない。
責任の震え。
「守る」という言葉を、口にせずに抱えた震え。
門番が父を見て、目を見開いた。
父の腕にある包み。
夜の外で、何かを持ち帰る英雄。
噂は、こういう瞬間から生まれる。
けれど父は、門番に何も説明しなかった。
門番も、何も聞かなかった。
聞けば物語になる。
聞かないことで、まだ生活でいられる。
人はときどき、そういう選択ができる。
父はその沈黙に礼をするように、ほんの少しだけ顎を引いた。
門番は深く頭を下げ、門を開けた。
都の中へ入る。
石畳の冷たさが戻る。
灯りの匂いが戻る。
遠くの笑い声が戻る。
英雄を呼ぶ空気も戻る。
でも父は、今夜だけはその空気に飲まれなかった。
抱えているのは剣ではない。
物語でもない。
ただ、眠っている命。
父は、与えられた住まいへと向かった。
城から与えられた屋敷は大きすぎた。
大きすぎる家は、空気が冷える。
物が少ないほど、足音は響く。
孤独が増える。
父は玄関で靴を脱ぎ、私を抱えたまま、静かに歩いた。
部屋をいくつか通り過ぎ、一番奥の、窓の小さな部屋に入った。
そこには、簡素な寝台があった。
父が最初に選んだ寝台だった。
英雄のための豪奢な部屋ではなく、父のための部屋。
父はいつだって、過剰を嫌う。
過剰は物語を呼ぶから。
父は寝台の上に布を敷き、私をそっと降ろした。
私は、そこで初めて小さく声を漏らした。
泣き声ではない。
息が詰まるような、小さな音。
世界が冷えたからだ。
父の腕の温度が離れた。
布の上は冷たい。
私は、温度を失った。
父はすぐに気づいた。
英雄の素早さではない。
父の素早さだ。
父は外套を脱ぎ、私の上に掛けた。
重みのある布。
布は夜と同じ色だった。
その色が、なぜか安心をくれた。
父は寝台の縁に腰を下ろし、しばらく私を見つめた。
その目は、迷っている。
どう抱けばいいのか、どう眠らせればいいのか。
何を言えばいいのか。
父は、自分を語らない男だ。
剣で語る男でもない。
行動で示す男だ。
だから父は、まず行動をした。
火鉢に火を入れた。
湯を沸かした。
部屋の空気を温めた。
寝台の布をもう一枚重ねた。
その間、父は何度もこちらを見た。
見ながら、何度も短く息を吐いた。
そして、部屋が温まった頃。
父は、ようやく言葉を落とした。
「……ここが、お前の家だ」
家。
その言葉は、まだ私には分からない。
けれど、父の声が柔らかいことは分かった。
父は、私の布を少し整えた。
頬に触れた。
触れ方は慎重で、不器用で、でも確かだ。
「怖いか」
答えられない問い。
それでも父は問う。
問うことで、私を個として扱う。
父は自分に言い聞かせるように続けた。
「……俺は、剣で守ってきた。
でも、お前は剣じゃ守れない」
その瞬間、父の視線が少しだけ遠くなった。
過去がそこにある。
戦いの記憶。
英雄の席。
拍手の音。
それらが父の首に触れた夜があったのだろう。
父は、首を振るように瞬きをして、今に戻った。
「……だから、別のやり方で守る」
別のやり方。
それは何なのか、父自身もまだ名前を知らない。
けれど父は、守ると言った。
言葉ではなく、空気で。
手のひらで。
沈黙で。
私は、その温度を覚えた。
世界の最初の輪郭として。
星の光より先に。
父は、寝台の横に座ったまま、しばらく動かなかった。
眠るでもなく、立つでもなく。
ただ、呼吸を整えるように、静かに私の寝息を待った。
そして私の呼吸が一定になった頃、父はようやく立ち上がった。
立ち上がるときも音を立てない。
扉を閉めるときも音を立てない。
英雄の家の中で、父は生活の音だけを残した。
その夜、都のどこかで酒が飲まれ、笑い声が弾み、誰かが英雄の名を叫んだかもしれない。
けれどその声は、この部屋までは届かなかった。
届いたのは、火鉢の小さな音と、湯の香りと、父の足音だけ。
私の最初の記憶は、星ではない。
父の手のひらの温度。
そして、言葉にならない安心。
その安心の中で、私は眠りに落ちた。
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