第1話 手のひらの温度
私の最初の記憶は、光ではない。
星の瞬きでも、天の高みでもない。
――手のひらの温度だった。
世界はまだ暗く、輪郭を持っていなかった。
音は遠く、匂いは曖昧で、自分がどこにいるのかも分からない。
けれど、ひとつだけ確かなものがあった。
胸の奥に、柔らかく積もる温かさ。抱かれている感覚。包まれている安心。
その温度の持ち主を、私は後になって知る。
アレイオス・フェルディア。
剣士であり、英雄と呼ばれた男。――そして、私の父。
◇
その夜、都は静かだった。
祝宴の夜でも、戦勝の夜でもない。
ただ、いつもの夜が、いつものように更けていく夜。
城壁の内側は穏やかで、石畳を渡る風は冷たい。
遠くで酔いの笑い声が跳ね、窓の灯りがひとつ、またひとつ消えていく。
それらの音を背中に受けながら、父は歩いていた。
父は派手な身なりを好まない。
外套は飾りのない濃い色。靴音も、必要以上に響かせない。
隠れるためではない。
余計なものを、連れてこないためだ。
夜の都は、英雄を呼び戻す声で満ちている。
「ここに立て」
「讃えられろ」
「救ったのだから、受け取れ」
父はその声を知っていた。
だから夜に歩くとき、足はいつも少しだけ早い。
けれど、その夜は違った。
足が、勝手に方向を変えた。
父の歩みは城門へ向かい、門番は気づいても声をかけなかった。
英雄への礼は、ときに言葉ではなく沈黙になる。
父もまた、頷きだけを返して門を出た。
城外。
草の匂いが濃くなる。土の湿り気が昼間の熱を隠し、虫の声が細く続く。
父は丘へ向かった。
都の喧噪が届かないわけではないが、空が広い場所。星が近く見える場所。
夜空は満天だった。
星々はただ輝いている。
誰かを祝うでも裁くでもなく、人の営みと関係なく、冷たく静かに。
父は丘の頂で息を吐いた。
そこから先は、剣士の息ではなかった。
戦場で呼吸を整える息ではなく、ただ一人の男としての息。
――そして、風が止んだ。
虫の声が、ひとつ、またひとつ消える。
夜の匂いが薄くなり、星の光が布越しのように柔らかく変わる。
父は背中に何かを感じたのだろう。
剣は抜かない。その代わり、ゆっくりと体の向きを変えた。
そこに、誰かがいた。
人の形をしているのに、人ではない。
足が地に触れていないのに、落ちない。衣は夜空の色で、揺れ方が風と違う。
淡い銀の瞳が、星より確かに父を見ていた。
父は驚きこそした。
だが、恐れで固まる驚きではない。
一歩下がらず、一歩進みもしない。
その距離が、父の作法だった。
「……お前が、呼んだのか」
低く短い問い。
押し込めない声。
存在は、ほんの少し首を傾ける。
星明かりがその動きに追いつかない。
「呼んだのは、私ではない」
声は音というより、胸の内側に落ちる言葉だった。
耳を通らず、理解が先に来て、後から震えが追いつく。
父は眉をわずかに寄せた。
「なら、誰だ」
「天の意思だ」
存在が夜空を見上げる。
星が、ひとつだけ強く瞬いた気がした。
「地上は繁栄し、やがて心を失った。
人は自らの痛みを忘れ、他者の痛みを笑うようになった。
その報いとして、破滅が近づいた。――お前は、それを止めた」
父は反射的に視線を逸らした。
誉れの言葉を受け取らない癖が、体に染みついている。
「止めたのは、俺だけじゃない」
「だが、お前が剣を振るった。
そして剣を収めた。
剣で終わらせず、終わらせた後に背を向けた」
父の指が外套の端を掴む。
言葉が刺さるとき、父は布を確かめるように触る。確かめるのは布ではなく、自分の境界だ。
「……何が言いたい」
存在は父の胸元――心のあたりを見る。
「地上の人間が、悔い改めたのか。
それを確かめる」
父の背筋が硬くなる。
剣士の緊張。だが、剣は抜かない。
「どうやって」
「観測だ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が一段冷えた。
星の光が刃に見える。
父は一拍、沈黙する。
拒絶ではない。言葉の中身を量る時間だ。
「……俺に、何をさせる」
存在は両手を前に差し出した。
その腕の中に、小さな包みがあった。
布にくるまれた命。声も上げず、静かに呼吸している。
私だった。
「この子を地上で育てよ」
父の目が揺れた。
恐れではない。思いがけなさと、“受け取ってしまった”驚き。
「……子どもを?」
「天の血を引く。
だが、人ではないとは言わぬ。神でもないとは言わぬ。
この子は“境界”にいる」
父は包みを見つめた。
剣士の目ではなく、守るべきものを測る目。
「観測とは、何だ」
存在は淡々と答える。
「この子が地上で成長し、見たもの、触れたもの、覚えたもの――
それが、地上の答えとなる。
この子が恐れたなら、地上は恐れの地。
この子が救われたなら、地上には救いがある」
父の喉が動く。
言葉が詰まるときの動き。
「……それは、この子を道具にするということか」
存在の目が、ほんの少しだけ細くなる。
怒りではない。試すような静けさ。
「道具にするかどうかは、お前次第だ。
この子は“観測”のために託される。
だが、父となるのもまた、お前次第だ」
父は包みへ手を伸ばした。
指が途中で止まる。触れた瞬間、責任が確定してしまう。そう知っている止まり方だった。
「俺に育てられると思うのか」
「お前は剣で勝った。
だが、剣で全てを解決しなかった。
それだけで十分だ」
父の手が、今度は止まらなかった。
包みを受け取る。重さは軽い。
けれど、その軽さが世界の重さに繋がっている。
私は小さく息を吸い、布の中で身じろぎした。
泣き声は出ない。ただ温度を探すように動く。
父の腕が反射的に包む。
抱き方に迷いがあるのに、壊さないようにしている。
壊さない手は、世界を壊さない手でもある。
存在は言った。
「忘れるな。この子は境界にいる。
お前が与えるものは、地上の形だ」
父は低く答える。
「……わかった」
誓いではない。英雄の理想でもない。
ただの返事。だから強い。
存在は一歩下がり、夜に溶けるように薄くなった。
風が戻り、虫の声が戻り、星の光が元の冷たさに戻る。
丘の上には、父と私だけが残った。
父は空を睨みもしない。
ただ私を抱え直し、布の端を整える。
「……寒いか」
答えられない問い。
それでも父は問う。問うことで、自分を父にしていく。
父は丘を下りた。
草を踏む音が小さく続く。
その音が、私の最初の子守唄になった。
◇
城門へ戻る途中、父は何度も立ち止まった。
腕の中の重さを確かめる。
呼吸が続いているか、布が苦しくないか。頬に指をそっと当てる。
剣を握ってきた固い指。
その硬さの奥に、震えがある。
恐怖ではない。責任の震えだ。
「守る」を言葉にせず、抱えた震え。
門番が父を見て目を見開く。
夜の外で何かを持ち帰る英雄。噂は、こういう瞬間から生まれる。
けれど父は説明しなかった。
門番も聞かなかった。
聞けば物語になる。
聞かないことで、まだ生活でいられる。
父は沈黙に礼をするように顎を引き、門番は深く頭を下げて門を開けた。
都へ入る。
石畳の冷たさ、灯りの匂い、遠い笑い声。英雄を呼ぶ空気。
それでも父は、今夜だけは飲まれなかった。
抱えているのは剣ではない。
物語でもない。
ただ、眠っている命。
父は与えられた屋敷へ向かった。
城から与えられた屋敷は大きすぎた。
大きすぎる家は空気が冷える。物が少ないほど足音は響き、孤独が増える。
父は玄関で靴を脱ぎ、私を抱えたまま静かに歩く。
いくつかの部屋を通り過ぎ、一番奥の窓の小さな部屋に入った。
簡素な寝台があった。
英雄のための豪奢な部屋ではなく、父のための部屋。
父は寝台の上に布を敷き、私をそっと降ろした。
そこで私は、初めて小さく声を漏らした。
泣き声ではない。息が詰まるような、かすかな音。
父の腕の温度が離れ、世界が冷えたのだ。
父はすぐに気づく。
英雄の速さではない。父の速さだ。
外套を脱ぎ、私の上に掛けた。
夜と同じ濃い色の布。重みが、なぜか安心をくれる。
父は寝台の縁に腰を下ろし、しばらく私を見つめた。
迷っている目。
どう抱けばいいのか、どう眠らせればいいのか。何を言えばいいのか。
父は自分を語らない男だ。
剣で語る男でもない。行動で示す男だ。
だから父は、まず行動をした。
火鉢に火を入れる。湯を沸かす。部屋の空気を温める。寝台の布をもう一枚重ねる。
その間、父は何度もこちらを見て、短く息を吐いた。
部屋が温まった頃、父はようやく言葉を落とす。
「……ここが、お前の家だ」
家。
私にはまだ分からない。けれど父の声が柔らかいことは分かる。
父は布を整え、頬に触れる。触れ方は慎重で、不器用で、でも確かだった。
「怖いか」
答えられない問い。
それでも父は問う。問うことで、私を“個”として扱う。
父は自分に言い聞かせるように続けた。
「……俺は剣で守ってきた。
でも、お前は剣じゃ守れない」
一瞬、父の視線が遠くなる。
拍手の音、英雄の席、戦いの記憶――首に触れるような夜が、そこにあるのだろう。
父は瞬きをして、今へ戻った。
「……だから、別のやり方で守る」
別のやり方。
父自身もまだ名前を知らない。
けれど父は、守ると言った。
言葉ではなく、空気で。手のひらで。沈黙で。
私はその温度を覚えた。
世界の最初の輪郭として。星の光より先に。
父は寝台の横に座ったまま動かなかった。
眠るでもなく、立つでもなく、ただ私の寝息を待った。
私の呼吸が一定になった頃、父はようやく立ち上がる。
立ち上がるときも音を立てない。扉を閉めるときも音を立てない。
英雄の家の中で、父は生活の音だけを残した。
都のどこかで、誰かが英雄の名を叫んだかもしれない。
けれどその声は、この部屋には届かなかった。
届いたのは、火鉢の小さな音と、湯の香りと、父の足音だけ。
私の最初の記憶は、星ではない。
父の手のひらの温度。
そして、言葉にならない安心。
――ただし、その安心は“観測”でもある。
私が何を見て、何を恐れ、何に救われるか。
それが、地上の答えになるのだから。
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