表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
例えばこんな未来なら  作者: 都桜ゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/8

第8話 はじめての恋を拾う場所

この話で最後になります。

 街の喧騒は、以前よりずっと鮮やかに感じられた。仕立て屋の大きな鏡に映る自分は、まるで別人のようだった。

 陽真さんが選んでくれた紺色の三つ揃いのスーツ。自分の体にぴったりと合ったジャケットに袖を通すと、物理的な重み以上に、自分が「まともな人間」に格上げされたような、誇らしい感覚が背筋を伸ばしてくれた。


「毎日通うから、まずはこれくらい必要だろ? よく似合っているよ、ユーリ」


 陽真さんはそう言って僕の肩を軽く叩き、予約しているランチの店へと歩き出した。

 街の喧騒さえ、今は僕を祝福する音楽のように聞こえる。僕は新しい靴の音を響かせながら、陽真さんの背中を追った。

 けれど、その店の入り口に差しかかったとき、僕は心臓を冷たい手で掴まれたように足を止めた。


「……あ」

 呼吸が、うまくできなくなる。


 日差しが降り注ぐテラス席。銀食器を鳴らしながら優雅にワインを飲んでいる一人の男。その男の隣には、かつての僕のように怯えた瞳をした少年が座らされていた。男が少年の頬を撫でて、聞き覚えのある低俗な笑い声を上げる。その瞬間、かつて受けた暴力の痛みや、暗い部屋の匂いがフラッシュバックし、僕の全身から血の気が引いた。


「どうした、ユーリ。顔色が真っ青だ」

 陽真さんの声に、僕はガタガタと震える指でテラス席の男を指した。


「あの店……嫌だ。行きたくない……っ。僕を捨てた人……、僕にあんなことした人……あそこに、いる……」


「……!」

 陽真さんは絶句し、僕の視線を追ってテラス席の男を鋭く射抜いた。この人がこんなに険しい表情をするのを、僕は初めて見た。陽真さんはすぐに僕の肩を抱き寄せ、視界を遮るようにその大きな体で僕を包み込んだ。


「……すまない、怖い思いをさせた。すぐここを離れよう。あんな奴、二度と君の視界に入れさせないから」


 陽真さんの腕は、怒りに震えているのか、それとも僕を心配してくれているのか、いつになく力強く僕を支えていた。


「歩けるかい? ……よし。深呼吸して、俺だけを見ていればいい」


 陽真さんは僕を背中に隠すようにして、あの店から遠ざかる方向へ歩き出した。僕は、陽真さんの上着の裾をちぎれんばかりに握りしめ、ただ彼の背中だけを見つめて、震える足でついていく。  

 人混みを抜け、タクシーに押し込まれるように乗り込むと、陽真さんは短く行き先を告げた。車内を流れる景色が過去の亡霊を遠ざけていくにつれ、僕の荒い呼吸も少しずつ落ち着きを取り戻していった。

 やがて車が停まり、案内されたのは、街の喧騒から完全に遮断された静かなホテルの個室だった。


「ここは会員制で、さっきのような騒がしい連中は入ってこれない。……もう大丈夫だ、ユーリ。ゆっくり座って」


 手入れの行き届いた絨毯に、柔らかなソファ。外界の音が一切届かないその静寂に触れて、僕はようやく、固まっていた肩の力を抜くことができた。


「……少しは落ち着いたかい? まだ、顔色が真っ白だ」

 陽真さんは僕の顔を覗き込むようにして、低く穏やかな声で問いかけた。


「うん……。ごめんね、陽真さん。せっかくの就職祝いなのに、僕がこんな……」


 僕は膝の上で、まだ微かに震えている自分の手をぎゅっと握りしめた。せっかくの特別な日が、自分の過去のせいで汚されてしまったことが、申し訳なくてたまらない。


「謝らなくていい。……俺の配慮が足りなかった」

 陽真さんは僕を責めるどころか、痛みを分かち合うような顔で僕の隣に腰を下ろした。


「あんな奴がいるかもしれない場所へ、無防備に君を連れ出してしまった。……怖い思いをさせて、本当にすまなかった」


 陽真さんの大きな掌が、僕の震える手にそっと重ねられた。包み込むようなその体温に、張り詰めていた心が音を立てて緩んでいく。


「……僕、少しだけ、浮かれてたんだと思う。新しいスーツを着て、明日から仕事だって言ってもらえて……。本当の自分を忘れて、まともな人間になれたつもりでいた」

 僕は唇を噛み締め、視線を落とした。


「でも、あの人の顔を見た瞬間に、全部わかっちゃった。僕は、結局……何一つ変われてない。どれだけ綺麗な服を着たって、中身はあの時のままの、臆病な奴隷のままなんだ。……こんなに震えて、情けないよね」

 自嘲気味に呟いた僕の言葉を、陽真さんは強い声で遮った。


「情けなくなんてない。……震えて当然なんだよ、ユーリ」


 陽真さんは僕の隣で、痛みを分かち合うようにそっと僕の頭に掌を置いた。大きな掌の温もりが、冷え切った僕の頭頂部からゆっくりと染み込んでいく。


「それだけ嫌だったんだろ。誰かの所有物として、自分の意志を殺して生きていた時間が。

 ……今の君が震えているのは、あの場所が、死ぬほど苦しかったとはっきり自覚している証拠だ」

 陽真さんは僕の顔を覗き込み、言い聞かせるように言葉を継いだ。

「そこにいないと生きていけなかったから、君は感情に蓋をして耐えていただけなんだよ。他人に好きなようにされて、何も思わない方がおかしい。

 ……怖いものを怖いと感じ、嫌なものを嫌だとはっきり拒絶する。今の君こそが、本来の姿なんだ」


「本来の……僕?」

 僕は、震える睫毛を揺らして彼を見上げた。


「ああ。感情を殺して、人形のように耐えるしかなかった場所から、君はようやく抜け出したんだ。怖くて震えるのも、過去を拒絶して泣くのも、それは君が『自分』を取り戻したからこそできることなんだよ」


 陽真さんは愛おしそうに目を細めると、そっと僕の頬に手を添えた。

 それは、僕を「モノ」として扱う手つきではなく、冷え切った心を温め直そうとするような、静かでひたむきな慈しみだった。


「誰の所有物でもない、君自身の心で感じたことなら、何一つ恥じることはない。……俺は、そんな風に人間らしく、必死に生きようとしている君の心が、たまらなく愛おしいんだ」


「……陽真さん」


 名前を呼ぶ僕の声が、熱を持って震えた。  陽真さんは僕の頬を親指でそっとなぞると、そのまま優しく僕を引き寄せ、その広い胸の中に抱きしめてくれた。

 かつての主人が与えたのは、僕を「モノ」にするための絶望だった。けれど、この人が今、肌を通して与えてくれるのは、僕を「人間」に引き戻すための、あまりに真っ直ぐな愛情だった。その体温が、僕の胸の中にあった最後の氷を溶かしていく。


 僕はたまらなくなって、陽真さんの上着をぎゅっと掴むと、誘われるままにその胸へと顔を埋めた。陽真さんの胸に顔を埋めたまま、僕はしばらくの間、何も言えずにいた。

 耳に届くのは、陽真さんの衣擦れの音と、服越しに伝わる力強く、規則正しい鼓動だけ。その一定のリズムが、波立っていた僕の心を砂浜に打ち寄せる静かな波のように、ゆっくりと整えていく。

 これまでは、誰かに触れられるたびに、次にくる痛みを予想して体が強張っていた。けれど、陽真さんの腕の中にいる今、僕を支配しているのは恐怖ではなく、深い安らぎだった。


「……あったかい」

 ポツリと、無意識に言葉がこぼれた。陽真さんの上着を掴んでいた指先の力が、ほんの少しだけ緩む。


「陽真さん……。僕、まだ『好き』っていう気持ちが、どういうものなのか、よくわからないんだ」

 こもった声で、心の内を少しずつ吐き出していく。

「でも、こうして陽真さんの体温に触れていると、あんなに冷え切っていた心の奥が、じわじわと解けていくのがわかる。……暗い部屋で一人でいた時には、想像もしなかった。誰かの隣にいたいって、こんな毎日が明日も続いてほしいって、自分の意志で願う日が来るなんて」


 陽真さんは何も言わず、ただ大きな掌で、僕の背中をゆっくりと撫でてくれた。一回、また一回。

 慈しむようなその動きの合間に、温かな沈黙が流れる。


「幸せとか、そういう難しいことはまだわからないよ。でも……」

 僕は縋り付いていた腕に少しだけ力を込め、彼の胸に額を押し当てた。

「陽真さんと一緒にいられる未来なら、きっと悪くない……ううん、そんな未来がいい。そう、心の底から思うんだ。……これって、好きっていうことなのかな。それとも、ただ僕が陽真さんに甘えているだけなのかな?」


 僕が顔を上げて恐る恐る問いかけると、陽真さんは僕の視線を逃さず、愛おしさに溢れた瞳で見つめ返してきた。彼は僕を包み込む腕に、これまで以上に確かな力を込める。


「誰かと一緒にいたい、その人の隣で明日を迎えたいとそう心から願うなら、ユーリ。それはきっと、恋だよ」


「……恋」


 初めて口にするその響きは、甘くて、どこか切なかった。僕はその感覚を噛み締めるように何度も心の中で繰り返してから、潤んだ瞳で彼の瞳をじっと見つめた。


「ねえ、陽真さん。……僕と一緒に、僕の中に生まれたばかりのこの『初めての恋』も、拾ってもらえないかな」


 かつて路地裏で凍えていた僕を見つけ、その手を引いてくれた時のように。この幼くて、頼りない感情も、あなたの大きな掌で受け止めてほしい。そう願って真っ直ぐに視線を投げると、陽真さんは一瞬だけ息を呑み、驚いたように目を見開いた。

 けれど、すぐにその瞳には、今にも溢れ出しそうなほど柔らかな光が宿る。


「……ああ、もちろんだ。喜んで」


 陽真さんはこれまでで一番柔らかな笑みを浮かべると、僕の額に、自分の額をこつんと預けた。

 あまりに近すぎる距離。彼の穏やかな吐息が僕の肌をくすぐり、視界のすべてが陽真さんだけで埋め尽くされる。


 捨てられていた僕を、一人の「人間」として拾い上げてくれた人。この人になら、僕のすべてを預けてもいい。

 そう確信した瞬間、吸い寄せられるように、どちらからともなく唇が重なった。触れるだけの、静かで優しいキス。けれど、そこから伝わってくる温かな熱は、一瞬で僕の全身を支配した。




 かつて、冷たい石畳の上でただ死を待っていた僕の人生は、この人の手によって今、新しく書き換えられたのだ。  


 あの日、拾われたのは、ただの「体」なんかじゃない。死んでいた僕の尊厳も、凍りついていた心も、そして――初めて知った、この恋も。そのすべてを、陽真さんが救い出してくれた。




 ふと視線を向けた窓の外、そこに広がる世界は、もう灰色ではなかった。僕を祝福するように降り注ぐ午後の光は、どこまでも明るく、眩しく輝いていた。



(C),2020-2025 さくらゆう / 都桜ゆう(Yuu Sakura).


長い話にお付き合いありがとうございました。

この二人の物語は、一旦ここで終幕です。

この先、どんなことが待ち構えているか、どんな人生を歩むのか、それは誰にもわかりません。

けれど、二人がずっと幸せであった欲しいと思います。

皆さんは、この二人の未来、どうなると想像しましたか?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ