第7話 未来への扉と、揺れ始めた心
「バカ」と言った声は自分でも驚くほど震えていて、そこには怒りなんて一滴も混じっていなかった。ただ、自分という人間に「性的な対価」を求めない人がこの世に存在することへの驚きと、ようやく本当の意味で「一人の人間」として守られているのだという実感が、涙となって溢れそうだった。
「はは、手厳しいな。でも、それくらい言い返してくれるほうが安心するよ」
ブランケット越しに、陽真さんの穏やかな笑い声が聞こえる。
悔しいけれど、僕はその時、この人の前でなら、いつか本当に「自分の足」で立てるようになるかもしれない。
多分、僕に何かしらの「変化」があるまでは、彼は絶対に僕を抱かないつもりだろう。 変化なんて、僕には現れはしないと思っていた。僕はもう、壊れてしまっているのだから。 けれど、彼の優しい笑顔や、時折頭を撫でてくれる大きな掌の温もりを、いつの間にか「失いたくない」と強く願っている自分に気づいていた。
それから、季節が巡り始めた頃、日課となった勉強も、最近ではずいぶんと高度な内容になっていた。陽真さんは時々、「お遊びのパズルだよ」と言って、複雑な数字の表や、社会の仕組みに関する長文読解のプリントを僕に解かせた。僕はただ、彼に褒められたくて、必死にその「パズル」を解き続けていた。
そんなある日の朝食後。陽真さんは少し改まった様子で、僕の前に一通の封筒を差し出した。
「おめでとう、ユーリ。……合格だ。今まで本当によく頑張ったね」
「へ? 合格って……なんのこと?」
差し出された封筒を手に取ると、中には陽真さんが経営する会社のロゴが入った、正式な入社案内と雇用契約書が入っていた。僕は何度もその文字を読み返し、混乱して顔を上げた。
「いいことを教えてあげよう。ここ数週間、君が『パズル』だと思って解いていたあのプリント……あれは、うちの会社の入社試験の過去問と、実務に必要な適性検査だったんだ」
「えっ……あのクイズが?」
「そう。君は何も知らずに、現役の社員でも苦戦するような問題を、ほぼ満点でクリアしたんだよ。俺の予想を遥かに超えて、君は優秀だった」
陽真さんは悪戯っぽく、けれど誇らしげに目を細めた。陽真さんの言葉を聞いて、僕は目を見開いた。ただ彼に捨てられたくなくて、彼の隣に居場所を繋ぎ止めるために必死になって詰め込んだ知識が、いつの間にか僕を「社会」へと連れ出すための切符に変わっていたのだ。
「明日から君は、うちの正式な社員だ。配属は、俺の側でサポートをしてもらう秘書課。
……どうかな? 抜き打ちテストみたいな形になっちゃったけど、俺と一緒に働いてくれないかい?」
「え……? でも、僕なんかがそんな、普通の場所で働けるわけ……」
僕は自分の指先を見つめた。これまで「商品」としてしか扱われてこなかった自分が、陽光の指すオフィスで誰かの役に立つ。そんな光景、どうしても想像ができなかった。僕の体には、普通の人が持っているはずの『清らかさ』なんて、ひとかけらも残っていないのだから。
けれど、陽真さんは僕のそんな卑屈な思考を見透かしたように、僕の頬をそっと撫でた。
「君が自分のことをどう思っていようと、俺が見ているのは『今』の君だよ、ユーリ。この数ヶ月、君がどれほど真剣に机に向かっていたか、俺は一番近くで見てきた」
陽真さんの指先から、確かな熱が伝わってくる。
「色々なことに興味を持って、驚くほどの速さで知識を吸収した。俺が止めるまで時間を忘れて没頭していたね。それは、過去がどうあれ、今の君が自分の力で手に入れた立派な武器なんだ。誰にも汚せない、君だけの素晴らしい長所だよ」
過去の汚れを否定するのではなく、今の努力が「誰にも汚せない武器」であると断言され、胸の奥が震えた。
「……僕に、できるかな。迷惑かけるだけじゃ……」
弱音を吐く僕を、陽真さんは優しく、けれど揺るぎない眼差しで受け止めた。
「俺が保証するよ。それに、これは君を守るためのことでもあるんだ。……ユーリ、俺は君に、もう二度と誰かの『所有物』にはなってほしくない」
陽真さんは僕の肩に手を置き、言葉を一つずつ置くように続けた。
「自分の力で稼ぎ、自分の意思で生きる。その術を持つことは、君を縛る鎖を断ち切るための、一番の力になるはずだ。誰にも自分を安売りさせない。君が君自身の主人であるために、俺と一緒にその一歩を踏み出してみないかい?」
陽真さんの瞳は、真剣そのものだった。僕を哀れみの対象としてではなく、一人の自立した人間として、対等に扱おうとしてくれている。
「……やってみる。僕、頑張るよ。陽真さんの隣にいても恥ずかしくないように」
「わかった。よし、決まりだ! 明日、さっそく入社に必要な手続きをしよう。とりあえず今日は就職祝いだ」
陽真さんはポンと手を叩き、明るい声を出した。
「美味しいものを食べるついでに、仕事用のスーツを仕立てに行こう。君に一番似合うやつをね」
「うん! すぐ準備してくるから、待ってて!」
僕は弾かれたように立ち上がると、リビングを横切り、廊下の先にある自分の部屋へと走った。マンションの床を叩く自分の足音さえ、今はどこか軽やかなリズムを刻んでいるように感じる。
勢いよく閉まったドアの音を合図にするように、リビングに残った陽真さんは、誰に聞かせるでもなく、愛おしそうに独り言を漏らした。
「……気づいてるのかな。警戒心の取れた君は、最初に会った時よりも、ずっと綺麗だっていうことに」




