第6話 穏やかな日々と、芽生える焦り
わけがわからないまま始まった、陽真さんとの二人での生活は、驚くほど穏やかで、瑞々しいものだった。 毎日決まった時間に食べる三食のご飯。清潔なシーツの匂い。陽真さんが用意してくれた、僕の体に合った新しい服。
「ユーリ、今日はこの本を読んでみないかい?」
陽真さんは僕に、知識という武器を与えてくれた。知らないことを知るのは、こんなにも楽しいことなのだと初めて知った。言葉の成り立ち、世界の仕組み、経済の動き……。 僕が疑問を持てば、翌日には新しい本がテーブルに置かれていた。二人でいろんな場所へも出かけた。噴水のある公園、静かな図書館、色とりどりの果物が並ぶ市場。すべてが僕にとっては「初めて」の光景で、僕はまるで子供のように目を輝かせてそれらを見つめた。
陽真さんとの生活が数ヶ月を過ぎた頃、僕の胸の中には、温かな安心感と同時に、得体の知れない「焦り」が募り始めていた。
毎日美味しいごはんを食べさせてもらい、清潔なベッドで眠り、読み書きまで教えてもらっている。それなのに、僕は彼に何も返せていない。
「ねえ」
夕食後の静かなリビングで、僕は思い切って切り出した。
「なんだい?」
ソファで本を読んでいた陽真さんが、顔を上げて僕を見る。その穏やかな眼差しが、今はかえって僕を苦しめた。何も持たない自分を、ただ無償で受け入れられている不自然さに、背中がむず痒くなる。
「僕、もらってばっかりで何もできない。……食べさせてもらって、ここに置いてもらって。このままだと、僕はただの……飼われているだけの家畜と同じだよ」
「ユーリ。気にしなくていいんだよって、前にも言っただろう? 君が笑ってそこにいてくれるだけで、俺は十分なんだから」
「そんなの納得できないよ! 僕は、そうやって生きてきたんだから……」
僕は逃げ場をなくすように、震える指先でシャツの第一ボタンに手をかけた。
「……別に、抱いてもいいんだよ? 僕には、これくらいしか返せるものがないから。
……遠慮しないで。ちゃんと、僕を『使って』よ」
ボタンを外そうとしたその時だった。陽真さんは弾かれたように立ち上がると、すぐに僕のそばに来て、僕の手を大きな掌で包み込むようにして止めた。その手は驚くほど力強く、けれど決して僕を傷つけない、祈るような優しさに満ちていた。
「……やめてくれ、ユーリ。そんな悲しい顔で、自分を投げ出さないでほしい」
陽真さんの声は、微かに震えていた。怒っているのではなく、まるで自分の心が傷ついたかのような、痛切な響きだった。
「俺が君を連れてきたのは、君を『使う』ためじゃない。
……いいかい、よく聞いて。俺が君に求めているのは、そんなことじゃないんだ」
「じゃあ、何を求めてるの……? 体も差し出さない僕に、なんの価値があるっていうの?」
僕は叫ぶように問い返した。それしか生きる術を知らなかった僕にとって、それを拒絶されることは、自分のこれまでの人生すべてを否定されるのと同じだったから。
陽真さんは僕の手を握ったまま、僕の視線と同じ高さになるように少し腰を落とした。
「君が自分の人生を、自分の足で歩き出すことだよ。誰かの所有物としてじゃなく、一人の人間として、明日何をしたいか選べるようになること。
……俺が本当に見たいのは、誰にも怯えずに笑う、君自身の姿なんだ」
真っ直ぐすぎる言葉が、僕の胸の奥に突き刺さった。そんなこと、考えたこともなかった。僕の人生はいつも誰かの都合で決められ、僕の足はいつも鎖に繋がれていた。自分の足で歩くなんて、そんな贅沢がこの世界に許されるなんて思わなかった。
あまりの衝撃に立ち尽くす僕を見て、陽真さんは僕の強張った肩を優しく叩いた。そして、重苦しくなりすぎた空気をほどくように、ふっと穏やかな、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「それにさ、そんなふうに自分を安売りしないで。
……いいかいユーリ。俺が君に求めているのは、対価としての『体』じゃない。俺は、君と心を通わせたいと思っているんだ」
陽真さんは少しだけ照れくさそうに視線を外すと、自分に言い聞かせるように続けた。
「……ただ欲を満たしたいだけなら、それは自分一人で解決できる、ごく私的な問題だよ。でも、君と向き合うことはそうじゃない。俺にとって、君と一緒に過ごす時間は、何にも代えがたい特別なものなんだ。そんな風に、義務感や支払いとして消費していい時間じゃないんだよ」
その言葉の意味を咀嚼するのに、数秒かかった。この人は、今、なんて言った? あんなに真面目な顔をして「君の未来が欲しい」なんて言っておきながら、最後には僕の差し出した体を「そんな風に安く扱いたくない」と、対等な人間として拒んだのだ。
「……っ」
顔がカッと熱くなるのがわかった。
「自分一人の問題だ」なんて、そんな風に言い切られるとは思わなかった。それは僕を都合のいい性的対象として消費しないという、彼が引いてくれた、あまりに明確で優しい境界線だった。
今まで僕を扱ってきた男たちは、僕の「心」なんて邪魔なだけだと言わんばかりに、ただ体だけを蹂躙した。けれど、この人はその真逆にいる。僕の体よりも、僕の心がそこにあることを求めている。
「……。……陽真さんの、バカ」
僕は顔を見られないよう、投げ出されていたブランケットを頭から深くかぶった。視界を遮り、彼から伝わってくる体温だけを頼りに言葉を絞り出す。
「……お節介で、お人好しで……本当に、バカだよ」




