第5話 生きててくれてありがとう
昨日(12/21)にアップした「例えばこんな、未来なら」の続きです。
この家は、僕のような汚れがいていい場所じゃない。リビングに戻れば、彼はきっとさっきの優しさが嘘のような冷たい顔で、僕を外へ放り出すだろう。
雨の降る、あの不潔で灰色の街。一度触れてしまったこの温もりを失い、またあの泥の中へ引き戻されるくらいならいっそ、この温かな記憶を抱いたまま、ここで僕のすべてが終わってしまえばいいのに。
そう願うほどに、僕は自分の過去を、そしてこの体に刻まれた消えない痕跡を呪った。
僕は処刑台に向かう囚人のような重い足取りで、ゆっくりと脱衣所の扉を開けた。リビングに戻ると、そこには洗い物を終えた彼が、少しだけきまずそうにソファに座っていた。僕の姿に気づくと、彼はパッと顔を上げた。
「あ、ああ。ちゃんとあったまれたかな?」
彼の声は、お風呂に入る前と何も変わっていなかった。蔑みも嫌悪も、そこには微塵も混じっていない。
「はい。……服も、ありがとうございます」
「気にしないで。……今まで着てた服は、洗濯機に入れておいたよ。明日には乾くからね」
彼は努めて明るく振る舞っているようだった。けれど、その不自然なほどの気遣いが、僕には耐えられなかった。
「何も聞かないの?」
僕は、彼の言葉を遮った。
「え?」
「見たんでしょ? 体。僕がどんなふうに生きてきたか、わかったでしょ」
僕は震える拳を握りしめ、自分を追い詰めるように言った。拒絶されるくらいなら、自分から傷つきにいくほうがマシだと思った。
「……。聞いて欲しいの?」
彼は手を止め、ゆっくりと僕に向き直った。
「君がどこで産まれて、今までどうやって生きてきたかは、想像つくよ」
彼は僕のそばに歩み寄ると、その大きな掌を、僕の濡れた頭に乗せた。
「だからって、無理矢理聞き出すような最低な人間にはなりたくない。話したければ話せばいい。話したくない事までは、言わなくていいんだ」
その温かさに、鼻の奥がツンとした。 僕は、これまで誰にも話さなかったことを、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「僕は、二十歳過ぎたんだ。僕を買った人は、二十歳を過ぎたら興味がなくなるみたいでさ。若い子が好きだったから。誕生日の日に、最後だって言われて、使用人たちに抱かれる僕を見て……ご主人様、本当に楽しそうで……。意識が朦朧としてきた頃に、あそこに捨てられた」
彼の顔が、見たこともないほど険しく歪んだ。
「なんだ、それ。人権は……」
「人権? そんなもの僕たちにはないよ。買われて初めて、人並みに暮らせるんだから。13歳の時に買われてさ、初めて毎日食事することができた。嬉しかったなー。だから、酷いことされても、我慢できたんだ」
彼は黙って僕を見つめていた。その瞳には、怒りとそれ以上の深い悲しみが滲んでいる。
「……そうか」
「……僕には、父親なんていないんだ。お母さんは、奴隷を買い漁りに来たどこの誰かもわからない男に、無理やり慰みものにされて僕を身ごもった。男は欲望を吐き出すだけ吐き出して、そのまま消えたんだって。お母さんは僕を産んで、そのまま体がボロボロになって死んじゃった……。育ての親がそう教えてくれたよ」
僕は膝を抱え、自分の指先を見つめたまま言葉を続けた。
「最下層で親もいなくて、身寄りもない。そんなガキが死なずに生きてこられたのは、ただ運が良かっただけ。だから、主人が僕を買ってくれたとき、これでやっと死ななくて済むんだって、本気でホッとしたんだ。……皮肉だよね。誰かの所有物になって、初めて生きてる実感が持てるなんて。僕みたいな人間にとって、買われるってことは、唯一の救いだったんだよ」
「……俺には両親もいるし、ここで暮らすだけの財力もある。表の綺麗な話しか知らない。最下層の人なんて、本当はいないんじゃないかって思ってた。それくらい、裏のことは何も知らないで生きてきたんだ」
彼は少し自分を恥じるように俯いた。
「まあ、知る必要はないだろうしね。住む世界が違うんだから」
「そんな俺の言葉なんて、多分、今の君には響かないだろうと思う。でも、言わせてほしい」
彼は僕の目を真っ直ぐに見つめ、一文字ずつ噛みしめるように言った。
「生きててくれてありがとう。君に会えて良かった」
その言葉は、僕がこれまでの人生で一度も触れたことのない、ひどく熱くて重い響きを持っていた。
「は……?」
あまりに脈絡のない肯定に、僕の思考は停止した。この人は何を言っているんだろう。僕みたいな、賞味期限切れで捨てられたガラクタに向かって、何を感謝しているんだろう。
「君がなんだか、とても綺麗に見えたんだ。……こんなことを言ったら、君を商品として品定めしている奴らと同じだと思われてしまうかもしれないけれど」
「……うん。かもね。今、僕を助けてごはんをくれたのも、全部僕を買うための前払いなんだって思っちゃうよ。……まあ、別にそれでもいいんだけど。僕を死なせないで、生きる場所をくれるなら」
僕はあえて突き放すような言い方をした。そうして相手を「買い手」という枠に当てはめてしまわないと、自分の心がどうにかなってしまいそうだったから。けれど、彼はそんな僕の言葉を悲しそうに受け流すと、困ったような、それでいて愛おしそうな顔で苦笑した。
「そんな風に思わせたくないんだけどな。
……俺は、たぶん、一目惚れだったんだと思う。ボロボロで雨に濡れてる君を見て、放っておけない以上に、目が離せなくなったんだ。ただ好きになっちゃったから、君を助けたかった。それだけなんだよ」
彼は僕の頭にそっと手を置いた。その大きな掌からは、やっぱりあの穏やかな体温が伝わってくる。
「……悪いけど、好きとか嫌いとか、僕にはわからないよ。欲望とか、打算とか、そういうのが渦巻く世界にしかいなかったから」
「そうだね。今までそういう場所で必死に生きてきたんだもんね」
彼は僕の目をじっと覗き込んだ。その瞳の奥には、僕を縛り上げようとする縄も、品定めする欲も、どこにも見当たらない。
「今すぐに好きとか信じるとか、そんなのわからなくていい。
……だからさ、これは提案なんだけど。君さえ嫌じゃなかったら、これからここで一緒に暮らして、今まで見たこともなかった景色を、俺と一緒に見てみないかい?」
「……。僕が、あなたを好きになる保証なんて、どこにもないよ。それでもいいの? ただの居候として、甘えるだけになるかもしれないのに」
「今はそれでいい。それだけで十分だよ」
彼は僕の疑いも過去も、すべてを包み込むように笑った。その穏やかな表情に毒気を抜かれ、僕はふと、自分たちがまだお互いの名前さえ知らないことに気づいた。
この人は僕の体を隅々まで見たけれど、僕が「何という人間か」はまだ知らないのだ。
「……あの、お兄さん」
呼びかけてから、言葉が詰まった。自分をどう名乗ればいいのか、そして彼をどう呼べばいいのかが分からず、僕は視線を彷徨わせた。すると、彼は僕の戸惑いを察したように、「ああ、そういえば」と小さく声を上げた。
「ごめん、名乗るのが遅くなったね。俺は末續陽真。……君の名前、聞いてもいいかな?」
名前。僕は一瞬、答えるのをためらった。
この地獄のような街で、誰がつけたかもわからない響き。苗字なんて持たず、ただ「商品」を識別するための番号と大差ない、薄っぺらな呼び名。
「……ユーリ。ただのユーリです。苗字なんてないし、誰がつけたかも知らないけど」
「ユーリ、か。……うん、良い名前だね」
陽真さんは僕の名前を、まるで壊れやすい宝物を扱うように、とても大切そうに口にした。これまで僕の名前を呼ぶ奴らは、いつも命令するか、あるいは欲望をぶつける合図としてそれを使っていた。けれど、彼の口からこぼれた僕の名前には、なんのトゲも、不純な響きもなかった。
「よろしく、ユーリ。これからゆっくり、ここで元気になっていこう」
その日から、僕の新しい生活が始まった。




