誓いは破られて、守られる
ジェシカとモエーネは、戦争孤児だった。
赤ん坊の頃から国立の育児施設で育ち、ただ飢えと寒さだけを記憶に刻みつけていた。
そんな二人に春が訪れたのは、三歳の時。
トリビスという名の女が、雷鳴のように彼女たちの人生に踏み込んできた。
トリビスは、男勝りで、明るく、どこまでも真っ直ぐな人だった。
ジェシカとモエーネは、彼女の陽のような笑顔と、抱きしめられた時の温もりに、何もかも溶かされた。
血の繋がりなど無くとも、本当の意味での家族だった。
いや、それ以上だった。
三人の間には、血では測れない絆が、確かに存在していた。
そして──
二年前の春。
ジェシカとモエーネが王室近衛騎士団への入団を果たした年、トリビスの身体は病魔に蝕まれた。
病室のベッドに横たわる彼女は、日を追うごとに痩せ、声にはかつての力強さが失われていった。
笑うたびに胸が痛み、咳をするたびに魂が削られるようだった。
それでもジェシカとモエーネは、毎日欠かさず彼女のもとへ足を運んだ。
ただ、そばにいるために。
ただ、後悔しないために。
笑いながらも、二人は心の奥で泣いていた。
目の前で大切な人が、砂のように零れ落ちていくのを、指の間から見ていた。
ある日、トリビスは微かに目を開け、力ない声で口を開いた。
「近衛騎士団入団おめでとう。あんた達、本当にすごい子だね。」
彼女は弱々しくも、誇らしげだった。
「まあね?だって私たちはトリビスさんの娘だもん!」
ジェシカは胸を張って言った。瞳はどこまでも澄んでいた。
「そうそう。早く私たちの晴れ姿を見に来てよ!」
モエーネも声を弾ませた。
笑顔はどこか、無邪気だった。
だが──
その無垢な笑顔に、トリビスは一瞬だけ表情を曇らせた。
胸の奥に、母としての不安がざわついていた。
「祖国を護る為に戦い、祖国の為に死ぬ。それが戦士としての本懐…って言われてるけどね、正直私はあんた達にそんな生き方をして欲しくないな。」
意外な言葉だった。
いつも前向きだったトリビスが、初めて陰を宿した言葉を発したからだ。
ジェシカとモエーネは目を見開いて驚いた。
「…あんた達が近衛騎士団に入団したこと…これから国の為に戦うこと…母としてとても誇らしく思っているわ。でもね、私はあんた達には幸せになってもらいたいの。お日様の当たる場所で、何も傷つくことなく穏やかに、いつも笑っていて欲しいの。国の為に戦って、あんた達のかけがえのない命を…人生を奪われて欲しくないの…。」
そう言って、彼女は体を起こそうとした。
震える手をベッドから持ち上げながら。
「トリビスさん!?無理に動かないで!」
ジェシカは慌てて支えに入った。
「そうだよ!安静にしてなきゃ!」
モエーネも手を添えた。
すると──
トリビスは、二人をそっと抱きしめた。
細くなった腕だったが、その温もりは今も鮮明に残っている。
「よく聞いて。あんた達はまだ若い。これから先、生きていれば色んなことがあるわ。戦士になれば決して順風満帆ではない、沢山の苦難があると思うの。人をあまり信用しちゃダメよ…あんた達は本当に心が綺麗だからね、心の汚い人間に付け込まれないように気をつけてね。世の中、優しい人って実は少ないし、この世界はあまり綺麗じゃないから。王族や国の為に戦う、その大義名分は尊重するけどね‥でも、本当に命の危機を感じたら、逃げて欲しいの。あんた達は私の大事な宝物よ。とにかく命だけは大事にしてね?約束だよ。」
それが、トリビスの最期の言葉になった。
翌日、彼女は静かに旅立った。
春の陽が、ただ静かに病室に差し込んでいた。
「病気なんてこの世から無くなればいいのに。」
ジェシカとモエーネは、心からそう願った。
──あれから二年。
二人は成長し、モエーネは副団長、ジェシカは参謀として、王室近衛騎士団を支える存在となった。
戦場を駆け抜け、幾多の死線を乗り越え、血と汗と涙を流し、それでも──トリビスとの約束だけは、心の奥にしまっていた。
そして今、絶体絶命の戦場で、彼女たちは立ち止まっていた。
主君ロゼと、同胞ノヴァが、ガンニバリルドによって殺されかけている。
ここで逃げるのが“正しい”のかもしれない。
亡きトリビスとの約束を守るのであれば尚の事。
でも──
ジェシカとモエーネは、迷わず走った。
その足は、逃げるためではなかった。
命を賭して、立ちはだかるための一歩だった。
「ごめんねトリビスさん…約束守れないや。だってこんな素敵な人たちに出会えたんだもん…見捨てる事なんて出来ないよ。」
モエーネは泣きながら、けれど笑っていた。
「貴女??何泣いてるの??殺しちゃおっか?貴女!」
ガンニバリルドは涎を垂らしながら、爛れた笑顔で威嚇した。
「殺されないわよ、あんたなんかに!私達弱いし、まだまだ人間としても未熟だし、戦士としても不甲斐ないところばかりだわ?でもね、こんな私たちでも…誰かにとっては大事な宝物なの!だからこんな所で簡単に死ぬ訳にはいかないのよ!」
ジェシカはまっすぐに言い放った。
凛とした声が戦場を震わせた。
ガンニバリルドの唇から、涎がダラリと垂れ落ちた。
「俺、思い出した!俺、好物は!先に喰う主義なんだ。やっぱ前菜の前に、お前ら!喰う!」
その瞬間──
ロゼとノヴァが、血塗れの体を引きずりながら、2人の前に立ちはだかった。
「こいつらに…手出すんじゃねえよ!」
ロゼは口元から血を流しながらも睨みつけた。
「指一本…触れさせねえぞ!」
ノヴァは震える声で続けた。
彼らの身体はもはや戦える状態ではなかった。
骨は砕け、肺に肋骨が刺さり、意識すら朦朧としていた。
それでも──彼らは仲間を護るため、立った。
ジェシカとモエーネは、涙で霞んだ視界に、二人の背中を焼きつけた。
そこにあったのは、命を捨てる覚悟ではなく、命を繋ぐ意志だった。
背後から、春風のような風がそっと吹いた。
優しく、温かく、懐かしい感触──
「良い仲間に出会えたんだね。あんた達は、私の誇りだよ。」
そんな声が、確かに聞こえた気がした。
頭上に、トリビスの手がそっと置かれた気がした。
ジェシカとモエーネは泣いた。
泣きながらも、立っていた。
だが、現実は容赦なかった。
戦局はなおも悪化の一途を辿っていた。
ノストラはハルディオスの前に倒れ、ラベスタとエスタもバリーザリッパーに瀕死の状態に追い込まれていた。
「神に逆らいし者は何人たりとも生かしておかないよ。」
ウィンザーは冷たく呟いた。
右手にはエラルド、左手にはアベルの髪を掴み、踵ではアズバールの顔を踏みにじっていた。
三人はもはや意識が途切れそうで、白目を剥いたまま、虫の息だった。
「やべえ…こいつら…強すぎる…!」
ロゼは震える声で呟いた。
「ガッハッハ〜…なぁにが神じゃい、ええ?あんま笑かさんどけよ…。」
ノストラが立ち上がった。
血を流しながら、それでも不敵に笑った。
「なんだハルディオス、殺してなかったのか。冷酷なお前でも、かつての師を殺すのは躊躇いが生じるのか?」
ウィンザーは皮肉気に言った。
「ふざけたことを言うな。」
ハルディオスの眼は険しく光った。
緊張が走る。
仲間であるはずの2人の間に、不穏な空気が立ちこめた。
「ウィンザー…ハルディオス…おどれらとっくに気づいておるんじゃろう…自分達が…神なんかじゃないって…。」
ノストラの声は震えていたが、どこまでも真実を貫いていた。
「ノストラ先輩…それは一体…どういう…意味ですか…?」
エラルドは、血に染まりながらも問いかけた。
ノストラは、静かに、しかし断言するように言った。
「ワシらユドラ人は神々の末裔ではない。ナカタム人やドアル人、プロント人と同じ…ただの“人間”じゃ。」
神の仮面が、剥がれ落ちようとしていた。




