全てを見透かす叡智の眼
ロゼは、生まれて初めて劣等感というものに苛まれていた。
大国の王族にその血筋を持つ彼は、十八年の人生の中で、他人に対して劣等感など抱いた事など、ただの一度もなかった。
いや、抱いたことがないどころか——その「劣等感」という感覚自体が、今の今まで彼の人生には存在していなかったのだ。
だからこそ、今胸の奥底で疼くこの不穏なざわめきが何なのか、彼は自分でも理解できずにいた。
だが、イヴァンカと目が合った瞬間、すべてが明瞭になった。
それは、天を翔ける神聖な龍を、泥の中から見上げるミミズの心地。
イヴァンカの姿には、“叡智の権化”という言葉さえも追いつかない、桁違いの気高さと威圧感があった。
その立ち姿、その眼差し——そこに宿っていたのは、測り知れない知性と、計算され尽くした静謐な品格だった。
まるで、この世に生きとし生けるものの深層心理、万物の理、世界の真理にまで到達しているような、そんな目だった。
——この男は、本当に神なのかもしれない。
ロゼは、本能でそう悟っていた。
「お前ら…ラーミア連れてさっさと逃げろ…。」
ロゼは声を震わせ、歯を噛み締めながらそう言った。目には覚悟が宿っていた。
「は?何言ってんだよ。お前を置いて行けるわけねえだろ。俺たちも一緒に…」
エスタが反論しかけたその刹那、ロゼは突然声を張り上げた。
「いいから行け!!これは命令だっ!!」
その声は、悲鳴に近かった。
取り乱し、あまりにも平静さを欠いたその姿に、エスタたちは思わず言葉を失った。
「大将首がノコノコ現れてくれて助かったぜ?ここでテメェの首をとれば…俺たちの勝ちだ!」
ロゼは、気丈に槍を構え、イヴァンカへと突きつけた。
だが——イヴァンカは、剣に手をかけることすらなく、ただそこに佇んでいるだけだった。
「…構えねえのかよ?」
構えていない相手に斬りかかるなど、ロゼの美学に反する行為だった。
「構えていないように見えるかい?」
「…剣くらい抜いたらどうだよ?」
「そうか、君には私が剣を抜いていないように見えるのか。ロゼ王子、君の底はもう見えたよ。」
イヴァンカは余裕の微笑を浮かべた。
「何言ってんだお前…誰がどう見ても抜いてねえじゃねえかよ、舐めやがって!おちょくんのも大概にしろや!死んで後悔すんじゃねえぞ!?」
ロゼは苛立ちに顔を歪め、攻撃の一歩を踏み出そうとした——その瞬間。
鋭い金属音が空間を切り裂いた。
ガキン——と音を立てて、ロゼの槍は空中を舞い、彼の手から飛んでいった。
それでも、イヴァンカは一歩も動いていない。
無論、剣すら抜いていない。
もちろん、エスタたちも何もしていない。
だが確かに、何者かの”何か”によって、槍は打ち払われたのだ。
ロゼの右手はしびれ、感覚が鈍っていた。
理解の追いつかぬまま、ロゼは即座にバックステップで槍を拾い直し、警戒心を全身に巡らせた。
——だが、戦慄が彼を襲ったのはその直後だった。
振り返ったロゼの背後には、イヴァンカが静かに立っていたのだ。
その瞳と再び目が合った瞬間、ロゼの心は凍りついた。
足が動かない。腰が抜ける。気が遠のく。
その場に膝をついたロゼの背中から、滝のような汗が噴き出していた。
イヴァンカの放つ邪悪な気は空間を圧し潰し、エスタも、アマレットも、ラーミアも、ついには立ってすらいられなくなった。
「…こいつは…格が違いすぎる…。」
ロゼは絶望に呑まれながら、掠れた声で呟いた。
「勇敢なるナカタムの戦士達と、それに加担する裏切り者よ…悪いが君たちには死んでもらうよ。」
イヴァンカの宣告は、あまりにも静かで、あまりにも確かな死を連想させた。
そのとき、部屋の扉が開き、マルジェラが入ってきた。
「お待ちください、イヴァンカ様。」
「マルジェラ、何をしにきた?」
「貴方様の剣はこの様なハエ共を斬るためにありません。そのような雑務は、私の仕事です。」
マルジェラの声音には、いつもの冷静と忠誠が込められていた。
「マルジェラじゃねえか…久しぶりだな?」
ロゼは、思わず懐かしげな笑みを浮かべた。
だが次の瞬間、彼の頬に激痛が走った。
マルジェラの蹴りが容赦なくロゼの顔面を打ち抜いていた。
「痛えな…何しやがる。ったく、主君の顔を蹴り飛ばすなんて不敬罪だぜ?」
ロゼは冗談混じりに笑ってみせたが、目の奥では戸惑いが揺れていた。
「いつまで主君のつもりでいる?ロゼ、俺はとっくの昔にお前らウィルアート家は見限っている。俺は今、イヴァンカ様に忠誠を誓っているんだ。そしてその忠義は、この世のどの深海よりも深い。」
マルジェラは冷え切った眼差しで、旧主を見下ろしていた。
エスタたちは助けに動こうとしたが、イヴァンカの気に完全に拘束され、声ひとつ出せなかった。
「マルジェラ…エンディはどうした?君は彼の討伐に向かったと小耳に挟んだのだが。」
イヴァンカが訊ねると、マルジェラは平然とした表情で応じた。
「御安心を、イヴァンカ様。エンディは…殺しました。」
その言葉を聞いた瞬間、ロゼたちは凍りついた。
ラーミアはその場で硬直し、唇が青ざめていた。
「死体はどうしたのかな?殺したと言うのならば、生首の一つくらい持ってくるのが常識だろう?」
「奴の肉体は我が両翼から放たれた刃の雨によって、肉塊すら残らぬほど変わり果てた姿になりました。あの様な汚物、貴方様にお見せするのは少々無礼が過ぎるかと。」
「そうか…君がそう言うのなら、私は君を信じるよ。」
イヴァンカはマルジェラの目を鋭く見つめながら、静かに頷いた。
だがその時、ラーミアたちが絶望に沈む中、ロゼの表情だけが異様に静かだった。
「マルジェラ…俺はお前を信じているぜ?」
ロゼは、微笑んだ。
どこか寂しげで、それでも揺るぎない微笑だった。
マルジェラは、その笑みに一瞬の間を置いたが——次の瞬間、容赦なくロゼを斬りつけた。
ロゼの体から血が噴き出し、崩れ落ちそうになったが——
彼は寸前で意識を保ち、手にした槍で自らの足元を叩き割った。
床に亀裂が走り、そのまま広がっていく。
ロゼ、エスタ、モエーネ、ジェシカ、アマレット、ラーミアが立っていた場所は、ついに崩れ——外界へと滑落していった。
これは、ロゼの一か八かの逃走策だった。
だが地上までの距離は800メートル——あまりにも無謀すぎた。
落下するその刹那、マルジェラが空を裂くような速度で動き、ラーミアの腕を掴んで引き戻した。
他の5人は、濃霧の中へと消えていった。
「ロゼ王子!みんなっ!!」
ラーミアは、喉が張り裂けるほどの叫び声をあげた。
「家臣を道連れにして自滅を図るとは、愚かだな。イヴァンカ様、これで侵入者共の排除は完遂致しましたね。」
マルジェラが淡々と言った。
「排除?妙な事を言うね。まだロゼ達の生死は確認していないじゃないか。」
イヴァンカは、冷ややかに指摘した。
だがマルジェラは臆することなく応じた。
「この高さから落下したんです。奴らはエンディ同様、原型を留めない程醜い姿になっていますよ。」
「そうか。君がそう言うのなら、私は君を信じるよ。」
イヴァンカは優しくそう言ったが、その本心は誰にも読めなかった。マルジェラですらも。
「死んでないよ!エンディも…ロゼ王子達も!絶対生きてるよ!私はそう信じてるから!」
ラーミアは、今にも涙をこぼしそうな表情で訴えた。しかしその瞳には、決して揺らがぬ強さが宿っていた。
「信じる…か。果たしてこれほど無価値な言葉があるだろうか。人が何かを”信じる”と口にした事柄は、その過半数は成就することが叶わないのが現実だ。それは、信じると口にした者も、実は頭の中では叶わぬ事だと理解出来ているからだ。そういった自信の無さから目を背けるために、人は”信じる”という言葉にすがり、現実から目を背けて自分を保っているのだよ。」
イヴァンカは皮肉と軽蔑を込めて、ラーミアを見下ろすように語った。
しかしラーミアは、一歩も退かなかった。
その瞳には、一点の曇りもなく、真っ直ぐに彼女自身の信念が燃えていた。
「さあ、おいでラーミア。君は余計なことなど考える必要はない。君は、私を不老不死にする術を習得することだけに全身全霊をかけなさい。」
イヴァンカは狂気を帯びた目でラーミアを見据えながら、静かに命じた。
そして、ラーミアとマルジェラを伴い、その場を後にした。
***
一方その頃、ロゼたちは空を舞っていた。
空というよりも、落下していた。
「さーて…どうすっか?」
ロゼは落下しながらも妙に呑気な声を出した。
「悠長に構えてる場合か!」
エスタがツッコミ混じりに怒鳴った。
モエーネとジェシカは、悲鳴とともに風に揉まれていた。
その中で、アマレットは冷静に杖を取り出し、叫ぶように詠唱した。
「エオーリシ!」
彼女の高らかな声とともに、魔法の光が爆ぜた。
ロゼたちの身体は、突如として半透明の膜に包まれ、空中で静止した。
「すごい!アマレット!こんなことができるのね!?」
ジェシカは目を輝かせ、驚嘆の声を上げた。
「まあね?私、天才美少女魔法使いだもん。でもね、これの滞空時間は…10秒よ…!」
アマレットは平然と答えながらも、顔はやや青ざめていた。
「ちょっとー!そういうことはもっと早く言ってよおー!!」
モエーネはパニック混じりに叫んだ。
そんななか、エスタがすかさず剣を抜き、目の前にそびえる神殿の壁を思い切り叩きつけた。
壁が砕け、風の中に裂け目が開く。
その裂け目めがけて、一同は勢いよく吸い込まれるようにして滑り込んだ。
そして次の瞬間——彼らの身体は神殿内部の下層階へと転がり込み、ようやく落下から解放された。
ロゼたちは、全員が床に伏せながらも無事を確認し、胸を撫で下ろした。
「若…せっかくラーミアに治癒してもらったのにまた…。」
モエーネはロゼの胸元に血の滲んだ傷を見つけ、心配そうに言った。
「いや、よく見ろ。たしかに斬られたが…傷はかなり浅いぜ?マルジェラの野郎…一体何を考えてやがるんだ?」
ロゼは眉をひそめながら、斬られた箇所を触りつつ呟いた。
その目は、ただ痛みに耐えるだけでなく、マルジェラの意図を読み取ろうと必死だった。
***
その頃、エラルドはゆっくりと目を覚まし、反射的に体を跳ね起こした。
彼の記憶の中では、エンディに敗北し、その直後ウィンザーに斬られたところまでしかなかった。
意識を取り戻した今、彼の身体は冷たく硬い石の床に横たえられ、手足には重たい拘束がかけられていた。
ここは、バベル神殿の最上階近くにある“パピロスジェイル”と呼ばれる牢獄。
檻には特殊な魔法が施されており、それを施した術者以外では決して解除することができない。
かつてイヴァンカすらも投獄されていた、因縁の場所だった。
「はははっ…あれは現実だったんだな…悪い夢かと思ったぜ…。」
エラルドは苦々しい笑みを浮かべ、自嘲気味に呟いた。
そして、ぼんやりと自分の手を見つめながら、心の内に崩れ落ちていくものを静かに感じていた。
「自分の見ている世界が全てだと思うな。」
「操られているのは俺たちの方だったりしてな?」
「お前は少し、自分を疑った方がいいぞ。」
彼の脳裏には、かつてノストラ、バスク、そしてエンディから浴びせられた言葉が、今さらのように甦っていた。
あの時は聞く耳すら持たなかったが、今ならわかる。
それらの言葉こそが、彼の世界を救う鍵だったのかもしれないと。
「俺は…何も見えていなかったな。いや、何も見ようとしていなかったんだ…。」
エラルドは目を伏せ、両手を強く握りしめた。
そして、悔しさに全身が震えた。
胸が焼けつくようだった。
「くそぉ…ちくしょーーーっ!!」
彼は拳を何度も床に叩きつけ、怒りと無力さに呻いた。
その叫びは牢の石壁に反響し、哀れなほどむなしく消えていった。
「うるさい。」
そのとき、不意に聞き覚えのある声が響いた。
「…え?」
エラルドは驚いて横を見ると——そこにはラベスタがいた。
「よく寝てたね。目が覚めるなり大きい声出して、どうしたの?」
ラベスタはいつもの調子で、ゆるやかに問いかけてきた。
「お前は確か…ラベスタ?何でここにいるんだよ?」
エラルドは目を丸くして、信じられないという表情を浮かべた。
「ウィンザーって人にやられちゃってね。目が覚めたらここにいたんだ。」
ラベスタは苦笑いしながら肩をすくめてみせた。
どうやら、2人は同じ牢の中に入れられているようだった。
牢獄の静寂の中で、2人は無言のまま、しばらく顔を見合わせていた。
互いの顔に、皮肉な運命と、皮肉な縁が重なっていた。




