不法出国大作戦!
バレラルクには今日も、鋼鉄の緊張が張り詰めていた。
国王も王子も不在の王都に、冷ややかな不安が降り積もる。
ユドラ人が、あるいは未知の敵が、いつこの国を蹂躙してもおかしくはない。
市民は息を潜め、軍は目を光らせ、街全体が張りつめた沈黙の中にあった。
そんな警戒態勢の只中を、エンディたちは掻い潜っていた。
彼らが潜り込んだのは、よりにもよって軍の演習場。
帽子を深く被り、地味な服に身を包み、通りすがりの市民を装って、堂々と。
しかしその実、命懸けの隠密行動だった。
ここまで辿り着けたのは、ほとんど奇跡のような偶然と機転の積み重ねだった。
「さてと、問題はここからだぜ?」
エスタが、張り詰めた空気を破らぬよう、声を絞り出す。
「何が問題なんだ?」と、エンディ。
「いいか、俺たちはロゼのプライベートジェットを奪って、このバレラルクを出る。だが王族所有の機体ともなれば、警備は厳重だ。最悪、将帥の一人が待ち構えている可能性もある。正面突破は至難の業だぜ…?」
低く呟くエスタの表情には、さすがの重みがあった。
エンディは、唾を飲み込む音すら気になるほどの緊張の中で、息を呑んだ。
「そうね…離陸しちゃえばこっちの勝ちだけど、その前に見つかったらアウトね…」
ジェシカの眉は、いつになく強ばっていた。
「弱気になってどうするんじゃい、ええ?何事もやってみなきゃ分からんじゃろう」
ノストラは、そんな空気の中でも笑みを絶やさぬ。
頼り甲斐のある老人だった。
「とりあえず…行くか…」
エンディは、自身を鼓舞するように呟いた。
倉庫の扉をそっと押し開け、彼らは音もなく忍び込んでゆく。
内部には武装兵が数名、警戒を解かぬまま徘徊していた。
その一歩一歩が、心臓の鼓動と重なる。
「かくなる上は、全員しばき倒して強奪しかないのう」
ノストラがニヤリと笑い、冗談とも本気とも取れぬ調子でつぶやく。
「できるだけ手荒な事はしたくないけどねえ…」
モエーネは困ったように苦笑した。
ようやく、ロゼのプライベートジェットが格納された格納庫の前までたどり着く。
「やっとここまできたか…長い道のりだった…」
エンディの声には、重みと達成感が混じっていた。
「安心するのはまだ早いよ」
ラベスタの目には、張りつめた緊張がまだ色濃く残っていた。
「中に将帥の誰かがいても安心せい、ワシがおる」
ノストラの言葉に、皆がわずかに肩の力を抜いた。
「よし…突入するぞ」
エスタの一声に従い、皆がなだれ込むように部屋へ入る。
そして、彼らが目にしたのは――
ジェット機の前で、いびきをかきながら爆睡する男の姿だった。
「え?この馬鹿何やってんの?」
ラベスタは、信じられないとばかりに呆然とした。
そこにいたのは、まぎれもなくクマシスだった。
緊張の糸が一気に切れる。皆、確信した。
これはもう、勝ったも同然だ。
この作戦が成功する理由は明白だった。
なぜなら、見張りが将帥でも兵士でもなく、あの自堕落なクマシスだったからだ。
「見張りがクマシスか…しかも寝てやがるとはな、恐れ入ったぜ。これは幸運中の大幸運、思いがけないラッキーパンチだな。けど、これ程の運をここで消費しちまって、この先大丈夫なのか…?」
エスタの言葉には、幸福と不安がないまぜになっていた。
「ムニャムニャ…次期保安隊長はこの俺様だ…おいサイゾー!貴様の時代は終わりだ!」
クマシスの寝言が、痛々しいほどはっきりしていた。
「この国始まって以来の大バカね…」
ジェシカは呆れにも似た哀れみを含んだ声でつぶやいた。
「ガッハッハ〜、この国にも酔狂なもんがいるんじゃのう!それにしても立派なジェット機じゃなあしかし!」
ノストラの声がやけに響き、皆が冷や汗をかく。
「ノストラさん、声大きいよ」
ラベスタが小声で注意した。
一同は急いでジェット機の中へと潜り込み、ジェシカとモエーネがコックピットへ滑り込む。
「操縦は私たちに任せて!おじいちゃん、案内よろしくね?」
モエーネが明るく言う。
「だーれがおじいちゃんじゃい、ええ?背の高い小粋なおじ様と呼ばんかい!」
ノストラは満更でもない表情だった。
「いよいよ出発か…」
エンディの胸には、不安が渦巻いていた。
ジェット機に身を預けることで、彼の覚悟は現実味を帯びていく。
「うおおおおおおー!!」
感極まり、エンディが叫んだ。
「何急に?」
「バカ!でかい声出すなよ!」
ラベスタとエスタが慌てて制止する。
「今日まで色んなことがあった…。これからも色んな試練が待ち受けていると思う。それも、今までとは段違いな程に過酷な試練が…。だけど俺なら…俺たちなら絶対に乗り越えられる!ユドラ人共に、一泡吹かせてやろうぜ?」
その言葉に宿る闘志に、皆が少しずつ触発されていった。
「何を偉そうに」
「おい、いつまでもお喋りしてねえで、さっさと出発しようぜ?」
皮肉を言いつつも、仲間たちはすでに士気を高めていた。
「じゃあ、離陸するよ!」
ジェシカの合図とともに、機体が咆哮を上げる。
「ガッハッハー!頼もしい奴らじゃのう!」
ノストラは嬉しげに笑った。
ジェット機は空を裂いて飛び立った。
エンジンが空を震わせ、彼らの背中を押すように天へと持ち上げていく。
地上のバレラルクは次第に小さくなり、都市の輪郭は豆粒のように霞んでいった。
その街並みを見下ろしながら、エンディは心の底から誓う。
──必ずまた戻ってくる。
その想いは、焦がれるような決意の熱を伴っていた。
「おい!何事だ!」
「何だ何だ!?何が起きた!?」
突如として響いた爆音に、地上の軍人たちが騒然となる。
緊急警報特有の嫌な音が鳴り響き、演習場の秩序は一瞬で崩れた。
この警報は通常、大災害や敵襲の際に発令されるものであり、めったに鳴らされることのない“最後通告”とも言える代物だった。
その装置を、誰が、どうして作動させたのか。
答えは単純だった。――クマシスだ。
爆音に飛び起きたクマシスが、パニックのあまり手元の警報装置を誤って押してしまったのだ。
サイレンが唸りを上げ、兵士たちの背筋を凍らせる。
その音には警戒だけでなく、不吉な予感と嫌悪感が混ざり合っていた。
「おいおい何の騒ぎだ!?敵襲か!?」
ポナパルトが怒声を響かせて現れる。
「報告します!只今、ロゼ王子の所有するプライベートジェット機が離陸致しました!中には王室近衛騎士団団長エスタ氏、副団長モエーネ氏、総参謀ジェシカ氏、そしてナカタム兵団副兵長ラベスタ氏、謎の老人一名、そして…エンディが乗っているのを確認致しました…」
報告を受けたバレンティノは、小さく呟いた。
「フフフ…謎の老人ねえ。あいつの事かなあ」
その瞳には、確信めいた光が宿っていた。
「間違いねえ、あいつらユドラ帝国に乗り込む気だな?よし、俺たちも行くぞ!すぐに追撃の準備を整えろ!カチコミだぁ!!」
ポナパルトの号令に、場の空気は一変する。
兵士たちは右往左往しながら出動の準備に取り掛かった。
…だがそこへ、ふわりと風のように現れた男がいた。
「ちょっと待って〜」
モスキーノだった。
その一言で、場にいた全員が動きを止める。
呑気な笑顔で近づいてくる男に、ポナパルトは怒鳴った。
「はあ!?何言ってんだてめえ!?」
「面白そうだし、しばらく泳がせとこうよ。ねっ?」
その無邪気な提案に、ポナパルトの怒りはもはや迷いに変わる。
「はいっ、みんな撤収〜。解散〜。各自持ち場に戻った戻った〜!」
モスキーノが手をパンパンと叩いて軽やかに言うと、騒がしかった現場はあっけなく沈静化した。
サイレンも止まり、兵士たちは拍子抜けした様子で散っていく。
「フフフ…魚は肥らせて食べた方が美味しい…って事かな?」
バレンティノは一人納得したように微笑んだ。
「ったくどいつもこいつも…何考えてやがる!!勝手にしやがれ!!」
ポナパルトは堪らず叫び、乱暴な足取りでその場を後にした。
そして――
「クマシス、貴様!なんて事をしてくれたんだ!!死んで詫びろ!!」
サイゾーの怒りが、ついに爆発する。
「ゆ、許してください…!どうか…どうかお慈悲を!!」
半泣きのクマシスが、命からがら逃げ出す。
赤鬼のような形相のサイゾーが、剣を抜いて追いかける。
「貴様、今回ばかりは観念しないぞ!!」
「誰にだって失敗や間違いはあるだろ!?完璧な人間なんていねえんだよ!偉そうにするな、お前は偉くないんだから!何様だコラ!」
――クマシスの心の声は、今日もむなしく虚空に消えていった。
二人の追いかけっこは、果てしなく続く。
一方、上空一万メートル。
ジェット機の中では、思い思いの時間が流れていた。
ジェシカとモエーネが持参してきた大量のサンドイッチを頬張りながら、皆が食事を楽しんでいる。
「ガッハッハー、若いもんらに囲まれて飯を食う、有意義な時間じゃのう!まるで孫でもできた気分じゃわい!」
その和やかさは、とてもこれから戦地に赴く者たちの姿には見えなかった。
「じいさん、しっかり進路誘導してくれよな」
エスタが口を尖らせる。
だが、機内に響いたのは突然の悲鳴だった。
「ギャーーーッ!」
機内の、大量の非常食が備蓄されている食品庫から飛び出してきたのは――
まさかのダルマインだった。
「なんだ!?地震か!?敵襲か!?え…えー!てめえらなんでここに!?何してんだ!??」
状況を飲み込めないダルマインに、皆が呆れた視線を送る。
「やかましい奴っちゃのう、誰じゃいおどれ、ええ?」
ノストラは早速、毛嫌いの構えを見せる。
「え!?ダルマイン??お前ここで何してんだ??」
エンディは目を丸くした。
「何って…ジェット機奪ってよ、他国に亡命しようとしてだよ。人気の無い南の島でバカンスでもしながら第二の人生を謳歌しようと思ってよ。その前に腹が減ったから食品庫で非常食食い漁ってたらウトウトしてきちまってよ、そのまま爆睡しちまった。で、目が覚めたらこの状況。おめえら旅行でも行くのか?」
「こんな時に旅行なんて行くわけないだろ。俺たちこれからユドラ帝国に行くんだよ」
エンディの一言に、ダルマインの顔色はみるみる青ざめる。
「は…?ユドラ帝国って…え?正気かてめえは…頭大丈夫か…?おい!!冗談じゃねえぞ!?オレ様を降ろせぇ!どっか適当なとこに着陸しろ!今すぐに!!」
「そんな時間ないわよ。降りたいなら飛び降りなさい」
「バカ言うな!いくら俺様でもこの高さから飛び降りたら死んじまう!!」
「別に、一向に構わないけど?」
ジェシカに冷たくあしらわれ、ダルマインは静かに涙をこぼした。
「ねえ、ノストラさん?ノストラさんはどうして俺たちに協力的なの?何の目的があってユドラ帝国に行くの?」
エンディの問いに、ノストラはしばし黙し、重く口を開いた。
「そうじゃなあ…ワシなりのケジメかのう…。まあ、罪滅ぼしじゃよ」
その言葉に込められた重さに、誰もが息を呑んだ。
「ノストラさん、あなた元聖衛使徒隊のメンバーでしょ?逃亡したユドラ帝国に4年ぶりに里帰りする大義と、その後の目的をしっかり話して欲しいわ?」
ジェシカは遠慮なく尋ねた。
「ガッハッハ〜、最近の若い娘さんは手厳しいのお!そうじゃ…ワシは聖衛使徒隊にいた頃、レムソフィア家に忠誠を誓い、数多の命を奪ってきた。あの頃のワシは自分自身をまるっきり疑っていなかったのう…。それがワシの罪…」
静寂の中、ノストラは続けた。
「イヴァンカが解放された時、ワシは恐ろしくて恐ろしくて堪らなかったんじゃ。そして、エンディを連れて逃げ出した…。さらにその後、記憶を失ったエンディを置いて逃げ出した。ワシは、業の深い人間じゃよ…。だがのう、このまま逃げてばかりじゃいかんと思った。だからこそ、最後に奴らに一矢報いたい。そして、おどれら若い世代には…幸せになってもらいたいと思っとるんじゃ…」
その懺悔の言葉に、エンディたちは沈黙のまま耳を傾けた。
「ノストラさん、俺を置いて逃げたことはもういいよ。全然気にしてない。ノストラさんがいなかったらここまで来れなかった。ユドラ人に立ち向かう決意をしてくれてありがとうね!」
「ありがとうなぁ…エンディ…。おどれらのことは命を賭して守るからな、安心せいよ。ええな?」
そして、ノストラが最後に放った言葉が、機内を凍りつかせた。
「ところでよ、外見てみ。もうユドラ帝国が見えておるぞ」
「え!?もう!?」
「ちょっと!早く言ってよ!」
モエーネとジャシカは取り乱した。
「おいおい、いきなり…」
「意外と近いんだね」
対照的、エスタとラベスタは、心なしかリラックスしているように見えた。
「実はユドラ帝国は、ナカタムの目と鼻の先にあるんじゃぞ。娘さんら、降下してくれ」
窓の外に広がる景色は――
巨大な山脈が連なる、絶海の孤島。
まるで夢の中に出てくるような光景だった。
あまりの美しさに、誰もが息を呑んだ。
ついに彼らは、世界の中枢へと辿り着いたのだった。




