心の断崖と名家の落日
数秒間の沈黙を破り、老人が口を開いた。
「大きくなったな、エンディ。あれから四年……今はもう十六歳か。」
しみじみと語るその声は、どこか懐かしさを帯びていた。
はじめて自分の年齢を聞かされたエンディは、うつむいたまま言葉を発しなかった。
その沈黙に、老人はわずかに戸惑いの表情を見せた。
次の瞬間、エンディの身体が小刻みに震え始める。
「……ふざけんなよ。」
かすれた声が、泉のほとりに落ちた石のように響いた。
拳を固く握りしめ、指先が白く染まっていた。
「ふざけんなよ!!」
叫びとともに、エンディは老人に飛びかかった。
激しい勢いで馬乗りになり、その胸ぐらを両手で掴み上げる。
「アンタ……あの時、俺の名前呼んでた男だよな!?なんであの時、俺を見捨てた!? なんで何も言わず逃げてった!? なんでだよっ!!」
怒号とともに流れ出す涙は、言葉よりも雄弁だった。
積もり積もった四年間の感情が、堰を切ったように溢れ出していた。
老人は驚愕し、ただ黙ってエンディの顔を見つめるしかなかった。
「エンディ、落ち着いて。お年寄りに乱暴なことしちゃダメだよ。」
ラベスタがそっと肩に手を置き、静かな声でなだめた。
だがエンディには、もうそれが聞こえていなかった。
「どうして今さら俺の前に現れた!? 俺がどれだけ辛かったか……一人で、毎日どれだけ寂しかったか……考えたことあるのかよ!!」
その叫びには、孤独と絶望に耐えてきた少年の魂が宿っていた。
老人は目を伏せ、苦しげに息を吐いた。
「……すまない、エンディ。あのとき目を覚ましたお前が、ワシを誰か分からないと言った時……記憶を失っていると悟った。ワシには、どうすることもできなかった……。」
「できなかった、だと!? それが見捨てた理由になるかよ!!」
エンディの怒りは収まらない。
「エンディ、落ち着いて。このおじいちゃんの話も聞いてみようよ。」
ラベスタのその一言で、エンディはハッと我に返り、ようやく老人の胸元から手を放した。
そしてゆっくりと立ち上がり、荒い息をつきながらその場に佇んだ。
老人もまた立ち上がり、じっとエンディを見据えた。
「エンディ、あの時お前は心に大きな傷を負っていた。だからワシは思ったんじゃ、記憶を失って良かったのかもしれないとな…。何もかも忘れたまま、新しい人生を始める。そうすればきっとお前は幸せになれる。そう思ったんじゃよ…だからワシは、お前の前から消えようと思った…。」
その声には、悔恨と哀切が滲んでいた。
エンディの頭の中には、この四年間の孤独な日々がよぎっていた。
誰も信じられず、自分が何者かも分からず、手探りで生きてきた苦しみが蘇ってくる。
「そんなに辛い思いをさせていたとはな……すまなかったのう…エンディ…許してくれ。」
老人は深々と頭を下げた。
突然の謝罪に、エンディはどう返せばいいか分からず戸惑っていた。
「悪意は人の心を蝕むけど、最終的に人の心を追い詰めるのは、無知でひとりよがりな善意だからね。」
ラベスタの皮肉ともとれる一言に、老人は苦笑いを浮かべる。
「頭をあげてよ、じいちゃん。」
エンディが不器用にそう言った。
「じいちゃんとは、参ったのう。」
その言葉に、老人はふっと吹き出した。
だが目元には、確かに涙が光っていた。
「しかしなんだな、エンディ。記憶を失っても、あの頃と変わらず、強くて優しい目をしておるのう。」
「え……?」
そんな言葉をかけられても、記憶のないエンディには、実感が湧かなかった。
「おじいちゃん、エンディはね、記憶はまだ全部戻ってないけど、自分がユドラ人だってことは分かってる。だから、そろそろ話してくれないかな? おじいちゃんが何者で、エンディとはどういう関係だったのか。」
ラベスタの率直な問いに、老人は深く頷いた。
「そうじゃな……ワシにはその義務がある。いつか、こんな日が来るだろうと思っておった。」
エンディの胸が高鳴る。
ラベスタも神妙な顔で話の続きを待っている。
「お前はユドラ人じゃ。そしてワシも、ユドラ人……。」
予想通りの言葉に、エンディは静かに息を呑んだ。
「エンディ、お前の姓はウルメイト。名はウルメイト・エンディじゃ。ウルメイト家は、カインとアベルの出自であるメルローズ家と双璧を成す、五世紀もの間、レムソフィア家に仕えてきた名家じゃよ。」
「!? じいちゃん、カインを知ってるのか!?」
エンディは思わず叫んだ。
「もちろん、よく知っておる。エンディに、カインに、アベル。お前たちの両親のこともな。」
老人の口から語られた名は、エンディの心を強く揺さぶった。
「五百年にわたり、世界の歴史を裏から操ってきた真の支配者層、ユドラ人。その中枢がレムソフィア家……そこに仕えていたなら、エンディの家系も名門中の名門なんだね。」
ラベスタの言葉に、老人は寂しげな笑みを浮かべる。
「名門だった……というのが、正しいかもしれん。」
「どういう意味だ?」
食い気味に尋ねたエンディに、老人は重く口を開いた。
「……ウルメイト家は、もうエンディしか生き残っておらんのじゃ…。メルローズ家も、カインとアベルしか生き残っておらん…。」
重く沈んだ言葉に、エンディの背筋がゾクリとした。
「そういえば……レムソフィア家も、一人しか生き残っていないって聞いたぞ……。」
「うん。アベルがそう言ってたね。」
エンディとラベスタの頭の中が混乱に包まれていく。
「全員、殺されたんじゃ。殺したのはレムソフィア家現当主、レムソフィア・イヴァンカ。奴が粛清と称して、三つ…否、四つの一族を滅ぼしたんじゃ……!」
老人の声には怒りがにじみ、その場の空気が凍りついた。
エンディの脳裏には、幼き日のカインと思われる金髪の少年の顔が、一瞬浮かび上がっていた。
その顔には、どうしようもないほどの怯えが焼きついていた。
「エンディよ……心して聞け。その忌まわしき大量虐殺を手引きしたのが……カインじゃ…!」
老人は鬼気迫る表情で言った。
その言葉を聞いた瞬間、エンディの中で何かが音を立てて崩れ落ちた。




