運命の邂逅
エンディの足音が、麦畑の土を踏むたび、どこか遠くで星が脈打つような気がした。
パウロの屋敷に招かれた彼は、広大な庭に集う五十人近い農民たちの喧騒に囲まれていた。
大地主の邸宅は、ナカタム王国の辺境にあっても威風を放ち、石壁とオリーブの木々に抱かれた庭は、まるで地上の楽園だった。
子供たちが笑い、焼き立てのパンが香り、肉の脂が滴る音が響く。
すべてが、生きる喜びに満ちていた。
「どんどん食え、エンディ!」
パウロの声が響く。
白い髭を揺らし、皺深い顔に笑みを浮かべた老大地主は、まるで孫を愛でるようにエンディを見つめた。
「お前は町を、なによりこのわしの命を救った英雄だ!今日は盛大にもてなしてやる!」
「おお、うまそう! これ、全部いいの!?」
エンディの目の前には、香ばしいパン、瑞々しい野菜、ジューシーな肉料理が山と積まれていた。
メインディッシュは、なんとも皮肉なことに、あの巨大熊の肉で煮込まれた鍋だった。
農民たちは杯を交わし、笑い合い、ワイワイと騒いだ。
「そういや、名前を聞いてなかったな」
パウロが肉を頬張りながら尋ねる。
エンディは口いっぱいにパンを詰め込み、簡潔に答えた。
「エンディだよ」
「エンディ、か。見かけねえ顔だな。流れ者か? どこから来た?」
「…あっちの方」
エンディは適当に南の地平を指差し、曖昧に笑った。
パウロは豪快に笑い、背を叩いた。
「そうかそうか! 若いもんがこんな田舎に来てもつまらんだろ。バレラルクに行ってみな!王都はいろんなもんがあって楽しいぞ! わしも若い頃はよう行ったもんだ!」
「へえ、気が向いたら行ってみるよ。ありがとう」
だが、エンディの舌には、食べ物の味が届かなかった。
パンの香ばしさ、野菜の鮮烈さ、肉の旨味。
すべてが、極上のご馳走であるはずなのに、まるで灰を噛むように味気なかった。
なぜなら、彼は感じていた。
自分を包む空気の、微妙な重さを。
エンディは小柄で細身、癖毛の黒髪に、きらりと光る黒い瞳。
ヨレヨレのTシャツとダボダボのズボンをまとい、どこにでもいる少年のようだった。
だが、その平凡な姿で巨大な熊を一撃で倒したのだ。
得体の知れないよそ者への警戒は、農民たちの笑顔の裏に潜んでいた。
感謝は本物だった。
だが、歓迎とは異なる、遠巻きの視線が彼を刺した。
パウロは心からエンディを讃えた。
だが、他の者たちは、少年の力を畏れ、どこか距離を置いた。
エンディの敏感な心は、その気まずさに耐えきれなかった。
「ごめん、用事があるからそろそろ帰るね」
エンディは立ち上がり、笑顔を無理やり貼り付けた。
「みんな、今日はありがと! すげえ美味かったし、楽しかったよ。また遊びにくるね!」
「おお、もう帰るのか? 用事なら仕方ねえ。またいつでも来な!」
パウロの声に続き、農民たちが口々に別れを告げる。
「ありがとな、エンディ君」
「気をつけてな」
大勢に見送られ、エンディは屋敷を後にした。
麦畑を抜け、潮の香りが漂う海沿いの道へ出ると、ようやく息ができた。
だが、胸の奥には、解放感と同じくらい深い寂しさが広がった。
「また今日も…独りかあ…」
沈む夕陽が海を血のように染める中、エンディは呟いた。
「まあ、いつものことだし、別に寂しくなんかないけどな…はは」
力ない笑顔が、すぐに消えた。
四年間、記憶を失った放浪者として生きてきた。
日雇いの仕事でその日をしのぎ、安宿に泊まるか、野宿で夜を明かす。
自分が何者か、どこから来て、どこへ行くのか。
手がかりは一つもない。
頼れる者も、帰る場所も、目的もない。
ただ、独り。
「おれ、何のために生きてるんだろうな」
前向きに生きようと、何度も自分を奮い立たせてきた。
だが、心は限界に近づいていた。
このまま、変わらぬ日々が続くなら、もういっそのこと死んでしまった方がマシなのではないか。
いや、何か、人生を激変させる出来事が起こってほしいと、切に願った。
「ちょっと早いけど、今日は疲れたし寝るか。明日は何しよっかな」
雲行きが怪しくなる空を見上げ、海を眺める。
すると、沖合に小さな影が揺れていた。
ボロボロの木造船。
帆もなく、波に漂うその船に、うつ伏せに倒れた人影があった。
「大変だ!遭難者か!?」
エンディの身体は、考えるより先に動いた。
砂浜を蹴り、波を越え、海へと走る。
冷たい風が耳を切り、潮の匂いが肺を満たす。
その時、ふと、風に混じるような声が聞こえた。
「また会える?」
エンディの足が一瞬止まりかけた。
空耳だろうか。
だが、頭を振って走り続ける。
今は、目の前の命を救うことだけがすべてだった。
船に飛び乗り、甲板に這い上がる。
そこには、髪の長い少女が倒れていた。
エンディとそう歳の変わらぬ、どこか儚げな姿。
「おい、しっかりしろ! 大丈夫か?」
少女がゆっくりと目を開けた瞬間、ドクン、とエンディの心臓が、まるで星が爆ぜるように脈打った。
そして、両目からは大粒の涙が溢れ、滝のように頬を伝った。
なぜ泣いているのか、わからない。
だが、魂の奥底で、何かが共鳴していた。
知らぬ記憶が、波の彼方から呼びかけるように、静かに、しかし確かに響いた。
この出会いが、彼の孤独な旅を、運命の海へと導く。
ようやく、邂逅の時が訪れた。