表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
輪廻の風  作者: 夢氷 城
第1章
3/34

運命の邂逅


エンディの足音が、麦畑の土を踏むたび、どこか遠くで星が脈打つような気がした。


パウロの屋敷に招かれた彼は、広大な庭に集う五十人近い農民たちの喧騒に囲まれていた。


大地主の邸宅は、ナカタム王国の辺境にあっても威風を放ち、石壁とオリーブの木々に抱かれた庭は、まるで地上の楽園だった。


子供たちが笑い、焼き立てのパンが香り、肉の脂が滴る音が響く。


すべてが、生きる喜びに満ちていた。


「どんどん食え、エンディ!」

パウロの声が響く。


白い髭を揺らし、皺深い顔に笑みを浮かべた老大地主は、まるで孫を愛でるようにエンディを見つめた。


「お前は町を、なによりこのわしの命を救った英雄だ!今日は盛大にもてなしてやる!」


「おお、うまそう! これ、全部いいの!?」

エンディの目の前には、香ばしいパン、瑞々しい野菜、ジューシーな肉料理が山と積まれていた。


メインディッシュは、なんとも皮肉なことに、あの巨大熊の肉で煮込まれた鍋だった。


農民たちは杯を交わし、笑い合い、ワイワイと騒いだ。


「そういや、名前を聞いてなかったな」

パウロが肉を頬張りながら尋ねる。


エンディは口いっぱいにパンを詰め込み、簡潔に答えた。


「エンディだよ」


「エンディ、か。見かけねえ顔だな。流れ者か? どこから来た?」


「…あっちの方」


エンディは適当に南の地平を指差し、曖昧に笑った。


パウロは豪快に笑い、背を叩いた。


「そうかそうか! 若いもんがこんな田舎に来てもつまらんだろ。バレラルクに行ってみな!王都はいろんなもんがあって楽しいぞ! わしも若い頃はよう行ったもんだ!」


「へえ、気が向いたら行ってみるよ。ありがとう」


だが、エンディの舌には、食べ物の味が届かなかった。


パンの香ばしさ、野菜の鮮烈さ、肉の旨味。


すべてが、極上のご馳走であるはずなのに、まるで灰を噛むように味気なかった。


なぜなら、彼は感じていた。

自分を包む空気の、微妙な重さを。


エンディは小柄で細身、癖毛の黒髪に、きらりと光る黒い瞳。


ヨレヨレのTシャツとダボダボのズボンをまとい、どこにでもいる少年のようだった。


だが、その平凡な姿で巨大な熊を一撃で倒したのだ。


得体の知れないよそ者への警戒は、農民たちの笑顔の裏に潜んでいた。


感謝は本物だった。

だが、歓迎とは異なる、遠巻きの視線が彼を刺した。


パウロは心からエンディを讃えた。


だが、他の者たちは、少年の力を畏れ、どこか距離を置いた。


エンディの敏感な心は、その気まずさに耐えきれなかった。



「ごめん、用事があるからそろそろ帰るね」


エンディは立ち上がり、笑顔を無理やり貼り付けた。


「みんな、今日はありがと! すげえ美味かったし、楽しかったよ。また遊びにくるね!」


「おお、もう帰るのか? 用事なら仕方ねえ。またいつでも来な!」

パウロの声に続き、農民たちが口々に別れを告げる。


「ありがとな、エンディ君」


「気をつけてな」


大勢に見送られ、エンディは屋敷を後にした。


麦畑を抜け、潮の香りが漂う海沿いの道へ出ると、ようやく息ができた。

 

 だが、胸の奥には、解放感と同じくらい深い寂しさが広がった。

 

「また今日も…独りかあ…」



沈む夕陽が海を血のように染める中、エンディは呟いた。


「まあ、いつものことだし、別に寂しくなんかないけどな…はは」

力ない笑顔が、すぐに消えた。


四年間、記憶を失った放浪者として生きてきた。


日雇いの仕事でその日をしのぎ、安宿に泊まるか、野宿で夜を明かす。

 

 自分が何者か、どこから来て、どこへ行くのか。 


 手がかりは一つもない。

頼れる者も、帰る場所も、目的もない。

ただ、独り。



「おれ、何のために生きてるんだろうな」

前向きに生きようと、何度も自分を奮い立たせてきた。


だが、心は限界に近づいていた。


このまま、変わらぬ日々が続くなら、もういっそのこと死んでしまった方がマシなのではないか。


いや、何か、人生を激変させる出来事が起こってほしいと、切に願った。


「ちょっと早いけど、今日は疲れたし寝るか。明日は何しよっかな」


雲行きが怪しくなる空を見上げ、海を眺める。


すると、沖合に小さな影が揺れていた。


ボロボロの木造船。

帆もなく、波に漂うその船に、うつ伏せに倒れた人影があった。


「大変だ!遭難者か!?」

エンディの身体は、考えるより先に動いた。


砂浜を蹴り、波を越え、海へと走る。

冷たい風が耳を切り、潮の匂いが肺を満たす。


その時、ふと、風に混じるような声が聞こえた。



「また会える?」


エンディの足が一瞬止まりかけた。


空耳だろうか。

だが、頭を振って走り続ける。


今は、目の前の命を救うことだけがすべてだった。


船に飛び乗り、甲板に這い上がる。

 


そこには、髪の長い少女が倒れていた。


エンディとそう歳の変わらぬ、どこか儚げな姿。



「おい、しっかりしろ! 大丈夫か?」


少女がゆっくりと目を開けた瞬間、ドクン、とエンディの心臓が、まるで星が爆ぜるように脈打った。



そして、両目からは大粒の涙が溢れ、滝のように頬を伝った。


なぜ泣いているのか、わからない。


だが、魂の奥底で、何かが共鳴していた。


知らぬ記憶が、波の彼方から呼びかけるように、静かに、しかし確かに響いた。


この出会いが、彼の孤独な旅を、運命の海へと導く。


ようやく、邂逅の時が訪れた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ