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輪廻の風  作者: 夢氷 城
第1章
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星の鼓動 麦畑に響く魂の叫び


麦畑の海が、風に揺れて金色の波を立てる。オリーブの木々が陽光を浴び、葉の裏で光が踊る。ナカタム王国の辺境、穏やかな港町の外れを歩くエンディの足元で、土の香りがふわりと鼻をくすぐった。知らぬ土地を彷徨う彼にとって、この瞬間はまるで世界そのものが彼を抱きしめるようだった。だが、その静謐な時を切り裂くように、遠くから叫び声が響いた。


「逃げるな! みんな!」

「何を言う、パウロさん! あんたも逃げな!」


エンディの視線が声の方向へ走る。広大な麦畑の向こうで、農民たちが悲鳴を上げ、土埃を巻き上げながら一目散に逃げ出していた。四十人近い人々が、命の危機を前に我を忘れて駆ける。その視線の先を追うと、原因が明らかになった。

巨大な熊――いや、獣と呼ぶにもあまりに圧倒的な存在だった。体長は軽く五メートルを越え、毛皮は黒鉄のように輝き、牙と爪は死の刃のごとく鋭い。麦畑を蹂躙し、作物をかきむしりながら咆哮を上げるその姿は、まるで神話の怪物が現世に降り立ったかのようだった。


エンディの足は、考えるより先に動いていた。

熊へと向かって駆ける彼の背後で、ただ一人、畑に立ち尽くす老人がいた。パウロ、地元で名を知られた大地主だ。白髪は風に乱れ、長く白い髭が胸元で揺れる。背は曲がり、七十を優に超える老体は、まるで枯れ木のように脆そうだった。だが、彼の両手は小さな鎌を力強く握りしめ、瞳には不屈の炎が宿っていた。


「危ねえよ、おじいさん! 逃げな!」

エンディの叫びが風を切る。だが、パウロは熊を見据え、声を張り上げた。

「黙れ、小僧! この畑は、俺たちの一生の汗と魂だ! こんなケダモノに、奪われてたまるかよ!」


その言葉は、まるで大地そのものが咆えたかのようだった。だが、熊は無情にもパウロへと襲いかかろうとしていた。牙が陽光を反射し、死の影が老人を飲み込もうとしたその瞬間――エンディは飛んだ。


空を裂くような迅さで、熊との間合いを一瞬で詰める。次の瞬間、彼の膝が獣の顎を捉えた。雷鳴のような衝撃音が畑に響き、巨大な熊は一撃で大地に崩れ落ち、動かなくなった。失神した獣の巨体が、麦の波に沈む。


静寂が訪れた。

パウロは鎌を握りしめたまま、目を丸くして立ち尽くす。遠くで様子を見ていた農民たちも、息を呑んでエンディを見つめた。彼らの視線には、驚愕と畏怖、そしてわずかな恐怖が混じる。エンディ自身、己の力に戸惑っていた。


四年前、記憶を失い、名も知らぬ放浪者としてこの世界を彷徨い始めたエンディ。誰なのか、何を背負っているのか、手がかりは一つも見つからない。だが、自身の身体能力が常人を遥かに超えていることには気づいていた。


かつて、遠洋漁業の漁師が巨大な鮫に悩まされていると聞き、海へ飛び込んだことがあった。十数分もの間、息を止め、深海を泳ぎ回り、二十倍の大きさの凶暴な鮫を見つけると、素手でその首を絞め、沖へと運び去った。


またある時、大陸戦争の残党――七人の武装したならず者が町を襲った。エンディはたった一人、素手で彼らを一蹴し、保安隊に引き渡した。


そして今、目の前には、瞬時に倒した巨大な熊。常人なら一瞥で逃げ出すような怪物が、たった一撃で沈んだ。エンディの瞬発力、脚力、そしてその果敢さは、人間という枠を超えていた。


だが、彼の心は驚くほど穏やかだった。臆病で、争いを好まぬ少年の心が、彼を突き動かしていた。危険を前にすれば、なぜか身体が勝手に動く。誰かを守るためなら、恐れを知らぬ自分になる。

「もしかして、俺は特別な存在なのか?」

そんな思いが、胸の奥で何度もよぎった。だが、エンディは決して驕らない。力を誇示するでもなく、ただ静かに、謙虚に生きてきた。


パウロがようやく口を開いた。

「…小僧、てめえ、何者だ?」

その声には、怒りよりも深い好奇が宿っていた。エンディは苦笑し、肩をすくめた。

「さあ…俺にもわかんねえんだよ、おじいさん」


だが、どこかで感じていた。この力、この衝動は、ただの偶然ではない。夢の中で見た血と涙の荒野。あの知らぬ男の悔恨。あの青空と太陽。すべてが、どこかで繋がっている。

エンディの足音が、麦畑を踏みしめるたび、星の鼓動がわずかに響く。

彼の旅は、まだ始まったばかりだった。

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