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輪廻の風  作者: 夢氷 城
最終章
174/180

さらば戦友よ、永遠に眠れ


人体のみぞおちから下が欠損したアベルは、地面に倒れ、今にも息絶えそうな苦悶の表情を浮かべていた。



その顔は青白く、すでに命の灯が今にも消え入りそうなほどに微かなものとなっていた。


カインは、血の気が引いた顔のまま叫び声を上げ、アベルの元へと駆け寄った。


「アベル…アベル!お前…どうして…おいラーミア!早く来い!アベルを治してくれ…頼む!」


叫び声は裂けるようで、荒ぶる心を抑えきれない男の絶叫だった。


カインは、誰の目から見ても明らかなほどに取り乱していた。


冷静さなど跡形もなく消え、少年のように、ただただ愛する者を救いたい一心だった。


突然名指しされたラーミアは、思わずビクッと肩を震わせ、怯えるように目を見開いた。


そのままカインに促されるように、息を詰めてアベルの傍へと駆け寄った。


しかし、目に映ったアベルの変わり果てた姿に、ラーミアは悲鳴を上げそうになった。


彼女は思わず視線を逸らし、唇を震わせた。


そして直感した。——自分の治癒では、もう助けられない。


それは、アベル自身も悟っていた。


「頼むラーミア…アベルを治してくれ!お前なら出来んだろ??なあ、頼むよ…弟なんだよ。たった1人の弟なんだよ!!」


カインは涙と嗚咽を混じらせながら、地面に拳を叩きつけて懇願した。


理性が焼き切れ、願いという名の祈りが怒りに変わろうとしていた。


「兄さん…もう無理だよ。自分でも分かる。僕はもう…死ぬ。」


アベルは顔をわずかに傾け、今にも閉じてしまいそうな瞼を必死に持ち上げながら、か細く、しかし静かに言った。


声は空気に溶けそうなほど儚かった。


「アベル…何でだよ…なんで…。」


カインは泣きながらアベルの手を握り、苦悶に歪む顔を地面に伏せた。


「兄さん…僕が死んだら…悲しいの?」

アベルは苦痛に満ちた顔のまま、しかしどこか優しく、問いかけるような声音で尋ねた。


それは本音だった。


アベルは幼少期から、優秀すぎる兄カインに対する劣等感に苛まれ続けていた。


嫉妬し、憎み、殺そうとすらした過去があった。

だがそれも、今となっては遠い記憶のようだった。


2年前のユドラ帝国での決戦を経て、二人はぎこちないながらも、少しずつ距離を縮めていた。


会話は不器用で、分かり合えたとは言い難かったが——それでも、互いを兄弟として認め合っていた。


だからこそ、アベルは疑問に思ったのだ。

自分の死を、兄が悲しんでくれるとは思っていなかった。


「当たり前だろ…お前は大事な弟だ!弟が死んで悲しまねえ兄貴なんているわけねえだろ!」


カインは涙で濡れた顔のまま、即座に叫んだ。


その言葉には一切の虚飾も照れもなかった。

純粋な魂の叫びだった。


アベルの頬に、涙が伝った。


それは悲しみの涙ではなかった。


兄の言葉が、何よりも嬉しかったのだ。


「ありがとう…兄さん…。そんなこと言ってくれて…本当に嬉しいよ…。僕の人生捨てたもんじゃなかったなあ…。兄さんはね…僕にとって本当に自慢の兄だよ。だから死なないでね、兄さん。アマレットとルミノアちゃんと…幸せにね…。」


アベルは微笑んでいた。

それは、初めて見せた心からの笑顔だった。


声がどんどん小さくなっていく。

生の灯が、ゆっくりと風に吹かれる蝋燭のように揺れ、やがて尽きようとしていた。


水の天星使メルローズ・アベルは、最期の瞬間にようやく兄に想いを伝え、笑顔のまま息を引き取った。


カインは、その微かに開いたままの瞳に手を添え、そっと瞼を閉じさせた。


「バーカ…お前こそ、自慢の弟だよ。ありがとな、アベル。」


その声は震えていた。


生前に伝えてやれなかった言葉が、悔しさとなって胸を引き裂いた。


カインは静かに弟の身体に額を当て、嗚咽を殺しながら泣いた。


涙が止まらなかった。


そして、その対照に、エンディは動かず立っていた。


表情は硬く、茫然とした面持ちで視線を前に向けていた。


その先にいたのは、右胸から脇腹を抉り取られ、瀕死の状態で倒れているアズバールだった。


エンディは混乱していた。


なぜ、自分を憎んでいたはずのアズバールが、自分を庇ったのか。


かつての宿敵。

誰よりも執念深く、ナカタム王国に仇なした男。


その男が、命をかけて自分を守った。


理解が及ばず、心が追いつかない。

それが、今のエンディのすべてだった。


「アズバール…お前、なんで?何で俺を助けたんだよ…?」


エンディは恐る恐るその顔を覗き込み、声を震わせながら問いかけた。


「ククク…さあな。体が勝手に動いたまった。」

虫の息でかすれながらも、アズバールはどこか清々しい笑みを浮かべて呟いた。


その表情は、まるで長年の業から解き放たれたかのように穏やかだった。


「アズバール…ありがとう。」

エンディは静かにしゃがみ込み、真摯な眼差しで礼を述べた。


彼の目には、こらえきれぬ涙が滲んでいた。


もう長くないと悟ったからこそ、敵であったはずのこの男に、心からの感謝を伝えたかった。


アズバールは、それを聞いて照れ臭そうに微笑んだ。


「ククク…悪くねえ気分だ。戦いの中で死ねるのなら本望…ようやく願望が叶ったぜ。まあ悔いがあるとすれば…てめえにぶっ殺されるヴェルヴァルトの無様な姿を拝めねえことだな。」


その言葉の奥には、若い世代への信頼が滲んでいた。


自分では届かなかった場所へ、次の世代が辿り着いてくれることを、願うような声音だった。


アズバールは、ゆっくりと目を閉じた。

まるで安らかな眠りに落ちるように、静かに息を引き取った。


享年、42。

戦いの中に生き、戦いの中に逝った男だった。


アベルとアズバール。

二人の死を見届けたエンディの心には、深い痛みが刻まれていた。


戦争とは、かくも非情なものなのか。


同胞の死を弔う暇すらなく、次の戦いが迫ってくる。


死した者の想いを背負い、倒れるまで戦い抜くこと。


それが彼らへの、唯一の餞となる。


正義と悪、官軍と賊軍。

そんな言葉に何の意味がある?


エンディは心の底から問い直していた。


きっと、勝者であろうと敗者であろうと、死者はみな英雄なのだ。


その結論に辿り着いたとき、エンディはようやく前を向いた。


気を引き締め、両拳を握りしめ、臨戦態勢を整える。


その隣に、怒りに燃える男が立った。


弟を殺されたカインだった。


その顔は怒りと悲しみの交錯で歪み、目には殺気が宿っていた。


「フハハハハ!次はお前達だ!さてと、ゆるりと殺していこうか。安らかに眠れ、くるしゅうないぞ!」


ヴェルヴァルト冥府卿は、底知れぬ狂気の笑みを浮かべながら、二人を指さして不遜に笑った。


「はっ…いい笑顔してるじゃねえかよ、御闇さんよ。悪いが、こっちはてめえに安らかな眠りなんて生ぬるいもん用意するつもりはねえぜ?」


カインは憤怒を噛み締めながら、唇を吊り上げ、牙をむいて言い返した。


「あいつらの生き様はしっかりと見届けた…もう誰も死なせねえ!」


エンディは瞳を強く燃やし、闘志を宿した声で叫んだ。


エンディとカイン。

悲しみと怒りを乗り越えた二人の戦士が、今、最大の敵へと真っ向から立ち向かう。


戦いはまだ終わらない。

だが、彼らの心はもう、迷っていなかった。


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