ラストステージ・ゼロ
500年前の記憶が蘇ったエンディとラーミアは、しばし互いの瞳を見つめ合い、まるで時間が止まったかのように微動だにせず立ち尽くしていた。
けれど、それは永遠ではなかった。
遺伝子の深奥にまで刻まれていた記憶の残響は、ほんの数秒の静寂を置いて、じわじわと霧のように薄れていく。
まるで目が覚めた途端、あれほど鮮烈だった夢の輪郭が溶けていくように。
朝の光が、夜の幻想を容赦なく打ち消してしまうように。
それでも、今の二人にはそれで十分だった。
自分の過去を知った。
自分の運命を知った。
もはや言葉などでは語り尽くせぬほどの感慨が、胸の奥に満ちていた。
「私…夢を見ているみたい。」
ラーミアは、茫然とした顔で呟いた。
「勝手に夢なんかで終わらせるなよ、これはれっきとした現実なんだから。」
エンディは苦笑しながらも、しっかりとした口調で応じた。
再び言葉を交わさず、二人は互いの瞳をまっすぐに見つめ合った。
言葉はいらなかった。
やるべきことが、もうはっきりとわかっていたから。
魔界城一階では、魔法族の残党と各国の連合軍による数万人規模の激闘が繰り広げられていた。
戦局を優勢に導いていたのは、光を取り戻すべく立ち上がった連合軍側だった。
かつて天星使たちが倒しきれなかった冥花軍は、すでに壊滅。
蝿の王ベルゼブも、ノヴァとエラルドの連携により討ち果たされた。
魔法族は、今まさに種の存亡すら危ぶまれるほどの窮地に追い込まれていた。
その勝利の軌跡はすべて、ナカタム王国の戦士たちの血と汗と誇りによって刻まれてきたものだった。
彼らの勇姿が、人々の心を揺さぶり、希望の灯を点した。
そしてその中心には、常にエンディがいた。
残る強敵は、ただ一人。
魔法族の首魁にして、その始祖たるヴェルヴァルト冥府卿。
——だが、その存在はあまりにも異次元。
倒せる未来など想像すらできない。
それでも、エンディは一切怯まなかった。
不思議と恐れは微塵もなかった。
背には、命を賭けて共に戦う仲間たちがいる。
双肩には、戦いの中で殉死していった者たちの想いが宿る。
ユラノス命導師に託された力があり、トルナドから受け継いだ意志がある。
そして、隣にはラーミアがいた。
もはや恐れるものなど、何もなかった。
総勢10名の天星使、そしてナカタムの戦士数名。
彼らはついに、ヴェルヴァルト冥府卿の待つ最上階へと到達した。
エンディとラーミアが、先頭を歩く。
整然としたその英雄たちの進軍は、まさに荘厳で、圧倒的な風格を湛えていた。
今という、かけがえのない時代を生きる新たな戦士たちは、己の想いを胸に抱き、巨悪を討つべくすべての準備を整えていた。
最終血戦は、いよいよその幕を引こうとしていた。
陰と陽、光と闇。
世界を二分する二つの力が、ついに最終的な決着の時を迎えようとしていた。
「また立ちはだかるか…愚かなる天星使共よ。世界など既に我が領土。郷に入ったら郷に従うべきだぞ?お前達はとうの昔に敗北しているのだからな。また犬死にしたくなければ、大人しく余に跪けばいいものを。」
ヴェルヴァルト冥府卿は、不遜な笑みを浮かべながら、悍ましい声で語りかけた。
「屈しないさ、俺たちは誰も。敗ける事に慣れて、戦うことをやめて、声を上げることすらせず、服従の道を選べば生存権も保障されるし、楽かもな。だけど…そんなもんは本当の自由じゃない!人はまやかしの中じゃ、心から笑うことも幸せを見つけることもできない!だから俺たちは…また生きてみんなで太陽の光を浴びるためにお前と戦い続けるんだよ!おいヴェルヴァルト!俺たちの覚悟をみくびるなよ?お前を倒すと決めた時から、命なんてとっくに捨ててんだよ!」
エンディは闇空に浮かぶヴェルヴァルト冥府卿の不気味なシルエットを、決意に満ちた瞳で真っ直ぐに見据えながら叫んだ。
「命を捨てる…か。聞こえは良いが、所詮は愚者の自惚に過ぎない。そんなものは崇高な精神でもなんでもない。弱者が語る理想論ほど無価値なものは無いと知れ。そもそも、世界など元より、救いようのないほどに汚れているではないか。余はこの空虚な空間を少し血染めにしただけ。この取るに足らぬ下らぬ世界で退屈そうに生きている人間どもに、ささやかな余興を与えただけだ。どうせなら、お前達も最期まで愉しめば良いものを。」
ヴェルヴァルト冥府卿は、嘲るように言い放った。
だが、エンディはその言葉を嘲笑うかのように強く叫んだ。
「汚れた世界?くだらない世界?ああ、大いに結構だ!生きるって事は綺麗事だけじゃ済まされない。だからこそ楽しいんだ!何も無いなら、自分で何かを見つければ良い!そこから何かを生み出せたなら、誰かに分け与えれば良い!毎日自分に恥じないよう真っ直ぐガムシャラに生きてれば、心から笑えるはずだ!なんにだって成れる!」
その言葉は、清々しいまでに真っ直ぐだった。
彼は、自分の信じる生を全力で肯定していた。
すると、カインがちらりと愛娘ルミノアを見た。
彼女は、アマレットの腕の中で、戦場の喧騒をよそに、すやすやと眠っていた。
カインは優しい目でその寝顔を見つめると、次の瞬間には鋭い眼光でヴェルヴァルト冥府卿を見上げていた。
「命は産まれる…。今こうしている間にも、どこかで新しい命が誕生しているんだ。つい最近までガキだった俺たちも、気が付けば護られる側から護る側になっていた。俺たちは、繋いでいかなきゃならねえんだ。だから生きなきゃならねえ。何がなんでもこの戦いに勝たなきゃならねえ。一端の大人ならよ、右も左もわからねえガキどもの背中を何回押してでも”生き抜け”って教えるもんだろ?」
それは、父として、そして人としての矜持を宿した言葉だった。
カインの声には、18歳とは思えぬほどの貫禄が滲んでいた。
「お前達をそこまで駆り立てるものは何だ?一体何をそんなに護りたいのだ?国か?世界か?人か?未来か?」
ヴェルヴァルト冥府卿は、理解に苦しむような声色で問うた。
すると、エンディは即答した。
「今。」
たった一語。
だが、それは彼の生き様のすべてを物語っていた。
「今の時代を生きる俺たちが戦わないで、一体誰が戦うんだよ!!」
一点の曇りもない澄んだ瞳で、エンディは叫んだ。
「お前は絶対に未来に遺さねえ。刺し違えてでも、ここで確実に潰してやる。」
カインはエンディの横に並び、決意の炎を灯した声で言った。
「どうやら、お前達とはまともな議論すら出来ぬようだな。人間とはつくづく脆くて弱い、哀しい生き物だ。良いだろう…2度と生まれ変われぬよう、魂諸共滅してくれる!まずは貴様だ!」
ヴェルヴァルト冥府卿はラーミアに狙いを定めた。
その判断は的確だった。
天星使の中でも特異な能力を持ちながら、戦闘能力は最も低いラーミアを標的にすれば、エンディの心も折れると見抜いていた。
禍々しい顔で羽根のない両翼を広げ、ヴェルヴァルト冥府卿は猛スピードでラーミアに向かって急降下してきた。
その体長、30メートル超。
空気が悲鳴を上げるようなその降下に、仲間たちは即座に身構え、緊迫の一瞬を迎えた。
エンディは本能的にラーミアを庇おうと前に出たが——
ラーミアの方が一歩、先に出ていた。
その決意に、エンディの心臓は一瞬凍りついた。
ラーミアは両手を突き出し、迫り来るヴェルヴァルト冥府卿を正面から見据えた。
「隔世憑依、聖なる祈り(オーブプリエール)」
その瞬間、両手から放たれた白光が、朝靄のようにヴェルヴァルト冥府卿の巨体を包み込んだ。
思考が停止した。
ヴェルヴァルト冥府卿の動きが、ぴたりと止まった。
光に包まれ、彼は両手で頭を抱え、苦悶の呻きを上げていた。
「貴方の闇の力の一部を消滅させたわ。これでもう、超速再生能力は使えない…!」
額に汗を浮かべながらも、ラーミアは勝ち誇ったように告げた。
「おのれぇ…貴様…小癪な真似を…!許さん!絶対に許さんぞ!!」
怒号が響いた。
ヴェルヴァルト冥府卿の全身に血管が浮き、凶暴なエネルギーが弾ける。
この世の物とは思えぬ硬質な肉体。
その再生能力はこれまで幾度となくエンディたちを絶望に追い込んだ。
だが、ついにその能力が封じられた。
一筋の希望が、夜空を裂くように光った。
エンディは呆然とその光景を見つめていた。
そんな彼の肩に、カインが手を置いた。
「行けよ相棒。この戦い、先陣切るならお前しかいねえだろ?」
「おれが…?」
エンディはまだ半信半疑の様子だったが、ノヴァが背中を強く叩いた。
「ほら、ぼさっとしてんじゃねえよ。お前の他に誰がいんだよ?」
そしてラーミアが、エンディの右手を両手で優しく握りしめた。
「エンディ、大丈夫だから…。」
その一言で、エンディの心に火が灯った。
深く呼吸を整え、前を向く。
そして凛々しい顔つきで、仲間たちを振り返った。
「みんな…やるぞ。準備は出来てるか??」
だが返事は、誰からも返ってこなかった。
皆の目は、すでに覚悟を宿していた。
抑えきれない闘気、みなぎる生気。
言葉など、必要なかった。
エンディは、微笑んだ。
サイゾーとエスタ、ジェシカとモエーネは、自身の未熟さを悟り、ロゼの護衛に回ることで戦いを支えようとしていた。
ルミノアを抱くアマレットは、ラーミアの援護に全力を尽くす覚悟を固めていた。
そして、ダルマインとクマシスは物陰で震えていた——が、それもまた彼らなりの戦い方だった。
「よし…いくぞーー!!」
エンディが吼えた。
金色の風を纏い、空へと翔ける。
風の戦士が、誇りを胸に先陣を切った。
遂に、最期の闘いが始まった。