色を知らない君へ
トルナドの傷口は、ルミエルの献身的な治療によって完璧に癒えた。
だが、失われた血液が戻るはずもなく、体力はまだ回復の途上にあった。
それでもトルナドは、ルミエルの前では努めて虚勢を張り、無理に元気なふりをしていた。
「ワッハッハー!全快だぜ!まさかお前が天星使だったとは思わなかったぜ!」
底抜けの明るさで笑い飛ばすトルナドだったが、彼の笑顔の裏には無理を重ねた青白さが滲んでいた。
彼は、天星使になってからも問題ばかり起こしていた。
神牢に投獄されることが日常のようだったため、ルキフェル閣下以外の天星使とはまともに面識がなかったのだ。
ルミエルはその強がりが空元気だとすぐに見抜いていた。
だが、彼女はあえてそれを指摘しなかった。
トルナドの気持ちを汲み、彼の顔を立てようと気遣っていたのである。
けれども、心の底では――ひどく心配していた。
なぜ、戦闘能力の低い盲目の少女が天星使として選ばれたのか。
その理由を、トルナドは本人に尋ねるまでもなく、直感的に理解していた。
ルミエルは天真爛漫で、ただそこにいるだけで場の空気を和ませる、不思議な資質を持っていた。
その優しさに触れた者は、たとえ血塗られた戦士であっても、心を穏やかにせざるを得なかった。
まるで、闇に光を灯すような、太陽のような少女だったのだ。
当時の天星使たちは、神に仕える神官とは名ばかりで、実情は暗殺者に近い集団だった。
「神や国に仇なす者には裁きを」
そうした大義名分を口実に、彼らは闘いを“楽しむ”者たちですらあった。
ユラノス命導師とて、その制御には苦心していたに違いない。
だからこそ、彼はその殺伐とした組織に新しい風を吹き込むため、あえて戦闘能力もなく盲目の少女――ルミエルを天星使として迎え入れたのだ。
その思惑は見事に功を奏し、ルキフェル閣下を除いた天星使たちは、少しずつ穏やかな心を取り戻し、やがて一つの“秩序”を形づくるようになっていった。
ユラノスは、自らの死後に少女が危険に晒される未来を予見していたのかもしれない。
だから彼は、ルミエルに“治癒”と“退魔”という特別な力を託した。
もしもの時に自分を守れるようにと。
そう考えれば、すべてに筋が通る。
トルナドは妙な納得を覚え、無言で頷いた。
ルキフェル閣下を撃退した二人は、ひとまずこの場を離れることを決断した。
再びルミエルがトルナドの背に乗り、トルナドは風の力を用いて宙へと舞い上がった。
言葉を交わさずとも、二人の息はぴたりと合っていた。
まるでずっと前からそうしてきたかのような阿吽の呼吸だった。
彼らは、さらに奥深い山中へと向かい、湖のほとりにひっそりと佇む小さな洞窟に身を潜めた。
夜は更けていた。
二人はこの場所を仮の隠れ家とし、一夜を明かすことにした。
トルナドは勢いよく湖に飛び込み、鮮やかな動きで大量の小魚を生け捕った。
両腕に抱えきれないほどの魚を携え、洞窟へと戻り、すぐに火を起こす。
木の枝を折り、手当たり次第に魚を串刺しにすると、味付けもせずにそのまま焚火で焼き始めた。
「ワッハッハー!やっと飯にありつけるぜ!お前も遠慮せずに食えよ!」
「うん!ありがとう!」
二人は久しぶりの温かな食事に、胸を高鳴らせながら笑い合った。
そして、トルナドの心にふと奇妙な感覚が芽生えた。
狩って、焼いて、食う。
こんな原始的な食事は、これまで何度も経験してきた。
それなのに、今夜のこの焼き魚が、なぜか信じられないほど美味しかった。
何が違う?
なぜ、こんなにも幸福に感じるのか。
トルナドは考え込んだが、答えが出なかった。
ただ一つ、彼の胸に浮かんだのは――
“誰かと一緒に食べるご飯って、こんなにも美味いもんなんだな…”という、素朴な感動だった。
「ワッハッハー!別に治療なんてしてくれなくてもよぉ!ルキフェルなんざ俺1人で充分倒せたのによぉ!お前にその勇姿を見せてやることが出来なくて残念だぜ!」
トルナドはまた強がりを言った。
本当は、感謝の言葉を口にしたかった。
だが、それがどうにも気恥ずかしく、つい見栄を張ってしまう。
「勇姿ねえ〜…見てみたかったなあ。目さえ見えればなあ。」
ルミエルは寂しそうに呟いた。
その一言に、トルナドはギクリとし、胸の奥を刺されたような気がした。
「ねえトルナド…私、貴方の顔が見てみたい。ねえ、貴方ってどんな顔してるの?」
意外な問いに、トルナドは目を瞬かせたが、すぐさま大げさに胸を張った。
「ワッハッハー!どんな顔って??そりゃあイケメンよ!俺ぁこの世に2人といないイケメンだぜ!モテすぎて毎晩悩みまくってるくらいだぜ!」
もちろん、そんな黄色い声援を浴びた経験など一度もなかった。怖がれることは数あれど。
けれども、ルミエルの前ではつい見栄を張ってしまった。
「イケメンか〜。わたし生まれつき目が見えないから、イケメンの基準が分からないんだよね。」
ルミエルは首を傾げ、難しい顔で言った。
「まあ要するに、めちゃくちゃカッコよくて良くて男前って事よ!」
「うん、それは知ってるよ。きっと素敵な表情で笑うんだろうなあ。だって貴方は心が綺麗だから、きっと笑顔も素敵に違いないわ?」
ルミエルがそう言った瞬間、トルナドは鼓動が跳ね上がり、あわや昏倒しそうになった。
「しかしあれだな、生まれつき目が見えねえってのも、難儀な話だな。」
「うん…でも私にとってはこれが普通だから。それに、悪いことばかりでもないわ?良いことばかりでもないけどね。」
「じゃあ、俺がお前に色を教えてやるよ!治療をしてくれた借りだ!これで貸し借りチャラだかんな!?」
「…え?」
ルミエルはぽかんとした。
これまで誰にも言われたことのない言葉に、胸を突かれたようだった。
トルナドは自信満々に語り始めた。
「まずは赤だ!赤ってのはな…なんていうかこう…バーっと燃え上がるような感じだ!そんな赤の激しさを鎮めてくれるのが青だな!黒はな、ズーンと暗い感じだな!黒ってのはまた厄介でなあ、黒いもんに寄ってけば、大抵のもんは黒くなっちまうんだ。んで、それと対をなすのが白だな!白ってのはな、まあ純粋の象徴みたいなもんなんだ!だけど黒と違ってな、いくら白になりたくても、そう簡単に白にはなれねえんだよ。白は染めるのも染まるのも至難の業だぜ?まあ…清廉潔白は1日にして成らずってこった!」
語彙力は拙くとも、心は込められていた。
トルナドは、色を知らぬ少女の世界に、一色ずつ、自分なりの言葉で彩りを与えようとしていた。
ルミエルは静かに聞いていた。
耳を澄まし、感情を染み込ませるように。
彼女の無色透明な世界に、風が少しずつ色を運んでいた。
「私はきっと、前世でいけない事をしたのね。だから今世では目が見えないまま産まれてきたんだわ。輪廻転生をしても、黒が白になる事はないのね…。」
俯いたルミエルの声は、切なげに震えていた。
「はぁ?前世?輪廻転生??何言ってんのお前??」
トルナドは目を丸くして呆れたように言った。
「私ね、輪廻転生ってあると思うの。地球の全ての生命体は、いつか死が訪れてもまた新しい命に生まれ変われる。輪廻転生は果てる事なく続いて、命の灯火は繋がり続けていると思うんだあ。ねえ、私達来世ではどんな人間に生まれ変わってるんだろうね?いや…ひょっとしたら人間じゃなくてワンちゃんやネコちゃんだったりしてね。お花になってるかも!」
ルミエルの声は弾んでいたが、その奥には切なさと希望が混じっていた。
トルナドは思わず吹き出し、子供のように笑った。
「ワッハッハー!お前はバカか!そんなもんあるわけねえだろ!人生なんて泣いても笑っても一度きりなんだからよ、来世がどうとか考えるのなんて無駄な時間だぜ!そんなこと考えてねえで今を精一杯楽しもうぜ!」
彼は、ルミエルの言葉を照れ隠しのように斬り捨てた。
「まあ考え方は人それぞれよね。でも…もし生まれ変わりというものがあるのなら、その時はちゃんと目が見えてたらいいなあ。そうすれば、生まれ変わったトルナドの顔も見れるね!」
ルミエルは明るく言った。
二人は、夜が更けるまで語り続けた。
どうかこの夜が、いつまでも明けませんように――
トルナドは、そんなことを思っていた。柄にもなく、切に。




