この世で一番大嫌いな言葉は"ありがとう"
「ちくしょー!人っ子一人居やしねえ!」
破壊衝動に駆られたトルナドは、空を飛びながらそう叫んだ。
誰かを殴りたくて仕方がなかった。
だが、目に映るのは破壊され尽くした街と焼け野原ばかり。
魔法族に蹂躙されたこの世界には、もはや“壊す価値”すらない物しか残っていなかった。
人から感謝されてしまった自分自身に嫌悪を抱き、胸の奥で暴れ狂う怒りのやり場も見つからないまま、ひとり空を彷徨い続けていた。
そんな折――
枯れた大地にぽつんと立つ、朽ち果てた大木の根元に、二人の幼い男の子が腰掛けているのを見つけた。
どこからどう見ても兄弟とわかるほど、顔立ちは瓜二つ。
トルナドはニヤリと不敵な笑みを浮かべ、標的を定めた。
バッと着地し、兄弟の目の前に仁王立ちする。
二人は腐りかけた小さな人参を、ボリボリと音を立てながら食べていた。
だが、トルナドは思わず眉をひそめた。
流石にこんな小さな子供を殴る気にはならなかった。
それに、どれほど腹を空かせていたとしても、彼らの唯一の糧を取り上げることはできなかった。
それでもどうにかして憂さ晴らしをしたくて、無理矢理その場に現れたのだった。
「やいガキども!美味そうなもん食ってんじゃねえかよ!ああ!?踏み潰されたくなかったら金よこせ!!」
怒鳴り声を浴びせるも、兄弟は一切動じなかった。
冷たい目でトルナドを見つめるその瞳には、生き延びることの諦めが宿っていた。
服はボロボロで、体は泥と埃にまみれ、腕や脚には無数の擦り傷と切り傷。
明らかに魔法族の襲撃から逃れ、各地を転々とさまよってきた者たちだった。
「お金なんてないよ。」
兄のほうが、か細い声でそう呟いた。
「はっ!だったらてめえら誘拐して、てめえらの親から奪ってやるよ!やい!お前らの親はどこにいる!?近くにいるんだろ!?このガキ共がぐしゃぐしゃに踏み潰されてミンチにされてハンバーグになって食われたくなかったら身代金をよこせ!!」
辺りを見渡しながら怒鳴るトルナドに対し、弟のほうが静かに答えた。
「親なんていないよ。パパもママも魔法族に殺されちゃったもん。」
「お兄ちゃん追い剥ぎ?お金なんてあっても意味ないよ。国が滅びちゃったんだもん。もう貨幣の概念すら失われちゃったよ。」
トルナドは、思わず目を丸くした。
「かへー?ガイネン?ガキのくせしやがって難しい言葉並べてんじゃねえぞ!」
苛立ちが募る。
自分を恐れない子供たちを、どうにかして黙らせたくなった。
そこでトルナドは、自身の身体に風の力を纏わせ、小さな竜巻を作り出し、威嚇した。
ビュオオオッと風が唸り、周囲の砂塵を巻き上げた。
――だが。
またしても、予想外のことが起きた。
さっきまでどこか虚ろな顔をしていた兄弟の表情が、ぱあっと明るくなったのだ。
「すごい!お兄ちゃん、風を操れるの!?神様みたいでかっこいい!!」
「お兄ちゃん、それどうやるの!?ぼくにも教えて!」
無邪気な声が、乾いた空に響いた。
トルナドは呆然とした。
恐れさせるつもりが、まさか歓声を浴びるとは思っていなかったからだ。
「ありがとうお兄ちゃん!僕、こんなに笑ったの久しぶりだ!」
「一緒に遊ぼう!お兄ちゃん!」
――まただ。
悪意をもって挑んだというのに、返ってきたのは無垢なる感謝と喜び。
トルナドは目を逸らし、顔を赤らめながら叫んだ。
「うるせえ!馴れ馴れしくしやがって!今度見かけたら必ずぶっ殺してやるからな!」
怒鳴るや否や、その場を後にし、空へと舞い上がる。
またもや失敗。
悪事を働こうとして、感謝されてしまった。
悔しさで胸が潰れそうだった。
それ以上に、自分の中の“何か”が崩れていくような、得体の知れない恐怖に囚われていた。
「ちくしょー!なんなんだよどいつもこいつも!こうなったら仕方ねえ!今度こそ誰かぶん殴ってやる!相手がガキだろうと女だろうと爺婆だろうと関係ねえ!目に留まった奴は片っ端からぶん殴ってやる!」
怒りに任せて空を飛び、枯れた大地を縦横無尽に駆け巡る。
やがて――
一人の少女の後ろ姿が目に飛び込んできた。
「ワッハッハ…あの女、ぶん殴ってやる!」
トルナドは冷酷な笑みを浮かべ、少女を急襲する。
たった一人、荒廃した世界を白杖をついて歩いていたその少女に、トルナドは正面から立ち塞がった。
「え?なに??誰??」
少女は驚き、立ち止まる。
トルナドと同じ年頃に見えるその少女は、真っ白な肌に、漆黒の長い髪をたなびかせていた。
そして――両目を閉じていた。
長くカールした睫毛が、まるで涙のように頬を撫でていた。
あまりに美しいその姿に、トルナドは一瞬、言葉を失い、見惚れてしまった。
――殴る気なんて、微塵も湧いてこなかった。
「やい女!身包み置いていけ!」
そう言いながらも、声がわずかに震えていた。
少女はクスリと笑い、柔らかな声で返した。
「あら、随分と優しい追い剥ぎさんね?」
「はぁ!?何言ってやがる??」
「無理してそんな強い言葉を使っても、貴方からは隠しきれないほどの優しさが溢れているように感じるわ?」
――また、言葉を失った。
必死に取り繕うように叫ぶ。
「優しさ…だと?ふざけたこと抜かしてんじゃねえぞコラ!!」
全身に風を纏い、四方八方に強風を解き放つ。
だが、少女は風に髪を靡かせながら、嬉しそうに笑った。
「わぁ…すごい!荒々しくて乱暴だけど、どこか優しくて暖かい風ね。こんな心地の良い風に吹かれたのは生まれて初めてよ?素敵な贈り物をありがとう。」
屈託のない笑顔。
その瞬間、トルナドの膝がガクッと崩れかけた。
「ありがとう…?ありがとうだとぉ!?やい女!俺がこの世でいっちばん大嫌いな言葉を教えてやろうか!?それは”ありがとう”だ!今お前が俺に言い放ったその”ありがとう”ってクソみてえな言葉だよ!あんま人の事おちょくってると、例え女でも容赦なくぶん殴るぞ!」
トルナドは赤面しながら吠えるように怒鳴った。
だが――少女は優しく微笑んだままだった。
「ふふっ、貴方は嘘が下手ね。本当は嬉しかったくせに、素直じゃない。全部お見通しなんだからね。」
「…あぁ!?何がお見通しだよ!大体お前、さっきからなんで目瞑ってんだよ!?ははーん…さてはこの俺が怖いからだなあ?やい女!目を開けてみろ!恐ろしいもん見せてやっからよ!」
右手に風の刃を纏い、威嚇する――
だがその時、少女の笑顔がふと翳った。
「ごめんね…私、生まれつき目が見えないの。だからこの目は閉じたまま開かないんだ。だから貴方が私に見せてくれようとしてるものは見ることができない。わざわざ披露してくれたのに、本当にごめんね…?」
――トルナドは絶句した。
想像の遥か上をいく返答。
それは、心のどこかに鋭く突き刺さるナイフだった。
怒鳴り、威圧し、暴力をちらつかせる。
それしか知らなかった彼にとって――少女の“謝罪”はあまりにも眩しかった。
胸の奥で、何かが…確かに、動いた。
罪悪感――
独裁者にも似た精神構造を持つトルナドにとって、それは生まれて初めて抱いた感情だった。
そして彼は知ってしまった。
自分の中に、そんな“優しさの種”が芽生え始めていることを。
焦燥と混乱に苛まれ、トルナドはひとまずその場から逃げようと考えた。
――だが。
魔法族の脅威が渦巻くこの荒廃した地で、目の見えぬ少女を独り残していくのは、どうにも気が進まなかった。
どうすればいいのか分からず、彼は頭を抱えた。
「私ルミエルっていうの、よろしくね。貴方のお名前は?」
少女が微笑んだまま、静かに尋ねる。
「…トルナドだ。」
この瞬間こそが、全ての始まりだった。
――果てしなく長い物語の、最初の風が吹いた。




