恐怖の内通者と堕ちる英雄
イヴァンカに敗北したルキフェル閣下は、意識の境界線を漂っていた。
深く斬られた傷口からは大量の血が流れ出し、内臓は黒雷の直撃によって幾つも破壊されていた。
傷口の周囲では細胞が壊死し、もはや手足を動かす力も残っていなかった。
生と死のあわいで、ただ静かに時をやり過ごしていた。
それでも、ルキフェル閣下の瞼がかすかに震えた。
意識の濁流の奥から、どこか懐かしい声が聞こえたからだ。
薄く開いた目の端に映ったのは、己の肩を抱えるようにして運ぶ、見るも無惨な姿の男。
それは──ジェイドだった。
「ヒャハッ…閣下ぁ…お目覚めですか…。」
疲労と苦痛に歪む顔で、それでも茶化すような調子を崩さず、ジェイドが笑った。
「…ジェイド…さん…?」
ルキフェル閣下は微かに目を動かしながら、かすれた声で名を呼んだ。
驚愕とも安堵とも言い難い感情が、血の滲む唇に滲んでいた。
ジェイドは生きていた。
だが、その生命の灯火は今にも消えようとしていた。カインとの激闘で瀕死に追い込まれ、顔面は煤け、呼吸も掠れていた。
骨が砕け、筋肉が千切れ、それでも彼は動いていた。
「ヒャハッ…俺、カインちゃんに負けちゃいましたぁ。あの野郎とんでもねえ炎ぶっ放しやがって…ぜってぇ即死だと思ったんすけどねぇ…やっぱ俺みてえになまじ強え男は、中々死ねねぇのが玉に瑕っすねぇ…。」
ジェイドは喉の奥で笑いながらも、言葉の端々に滲むのは、自嘲と諦念の入り混じった虚無だった。
「ジェイドさん…あなた…何をしているんですか…?」
ルキフェル閣下は虚ろな瞳を横たえたまま、力の抜けた声で問いかけた。
その声音には戸惑いと、ほんのわずかな希望が混じっていた。
ジェイドは、城内四階の片隅、瓦礫が崩れて生まれた狭い空間に、そっとルキフェル閣下の身体を滑り込ませた。
すでに震える両腕では支えるのもやっとだった。
自分もその場に崩れるように座り込み、壁にもたれて天井を仰いだ。
「ヒャハハッ…俺が負けるなんて考えた事もなかったっすよ…こんな醜態誰にも見せたくねえからよぉ…人知れずひっそり息絶えようと思ったんすけど…もう死ぬと分かったら、最期にどうしても…あんたに会いたくなったんだ…閣下ぁ…。」
その声は、風に消える火の粉のように儚かったが、そこには一片の偽りもなかった。
その言葉が、ルキフェル閣下の胸奥に突き刺さった。
敗北の屈辱に喘いでいた彼にとって、その慈愛にも似た献身は、誇りを土にまみれさせる刃に等しかった。
「やめてください…情けなどかけないで下さい。私は敗けたんです…敗けた上に部下に情けをかけられるなど…!」
ルキフェル閣下は唇を噛み、怒りとも悲しみともつかぬ声音で呻くように言った。
頬は蒼白で、目には血の気がなかった。
「閣下は敗けてねえっす!閣下は誰にも敗けねえ!閣下は…閣下は何も間違ってねえっす!だからそんな情けねえ事言わねえで、いつもの閣下らしくビッとしてて下さい!」
ジェイドはうつむき、拳を握りしめて吠えた。
その双眸には涙が滲んでいた。
「ジェイドさん…。」
ルキフェル閣下は、微かに目を伏せたまま、その名を呼んだ。
感情がうねり、言葉が続かなかった。
「ヒャハッ…忘れないでくださいよぉ…俺は閣下のこと、絶大に支持してるんすからねぇ…。なんたって閣下は最強ですからぁ…!」
ジェイドの表情には、崇拝と愛情のすべてが込められていた。
彼は孤児だった。
かつて、ヴェルヴァルト冥府卿の手で壊された神国ナカタム。
その血と瓦礫の地獄の中を、ただ一人で生き延びた。
そのジェイドを拾ったのが──ルキフェル閣下だった。
戦いの技を教え、魔法を授け、信念を与えた。
その恩に報いるために、ジェイドは爪を研ぎ、牙を磨いた。
結果、冥花軍の筆頭にまで登り詰めた。
そんな彼のルキフェル閣下に対する忠誠心の深さは、測り知れない。
「ヒャハッ…閣下ぁ…死なないで下さいねぇ…。頑張らなくていいから…無理しなくていいから…とにかく生き延びてくださいねえ…。生きてさえいてくれりゃあ…それで…いいです…から…。」
ジェイドは、全身の力を振り絞り、今にも途切れそうな声で祈るように呟いた。
そして、静かに目を閉じ、そのまま動かなくなった。
ルキフェル閣下の右目から、ひとしずくの涙が音もなく流れ落ちた。
自分を信じ、慕ってくれた部下。
その死と、迫り来る自身の最期。
すべてを抱えて、ルキフェル閣下は小さく、誰にも届かぬ声で呟いた。
「ありがとうございます…ジェイドさん…。」
──
そして現在。
魔界城における戦力差は、魔法族五万三千に対してナカタム千。
冥花軍という脅威が潰えた今も、数においての劣勢は圧倒的だった。
天星使たちも限界寸前で、もはや頼れるのは、勝利への執念と奇跡のみだった。
──
五階には、イヴァンカの手によって斃された無数の魔法族の亡骸が転がり、雷撃による破壊で開いた天井の大穴が、最上階を覗かせていた。
「もう嫌だああぁぁ!!お家帰りたいよおぉぉ!!」
「チキショーー!!やっぱこんな所来るんじゃなかったぁー!!」
泣き叫ぶダルマインとクマシスの姿が、戦場の滑稽な陰影を浮かび上がらせていた。
だが、マルジェラたちはその声を無視し、穴の上方に目を凝らしていた。
そこには、エンディとヴェルヴァルト冥府卿──金色の風と闇の奔流がぶつかり合う、終末のような戦場があった。
「肌がヒリヒリする…。」
ラーミアが小声で呟いた。
己の中に芽生えた本能的な恐怖を、言葉にして吐き出すように。
「ラーミア、この3人は大丈夫そう?」
アマレットが、ルミノアを抱きながら不安そうに尋ねた。
「ノヴァ君とエラルド君は順調に回復しているけど…問題はロゼ国王ね…。意識は取り戻しつつあるんだけど、身体中の筋組織がボロボロで…。」
ロゼの命は、神槍ヘルメスの代償によって、今まさに擦り減ろうとしていた。
「国王様….!!」
モエーネは耐えきれず、嗚咽を堪えきれずに泣き崩れた。
「大丈夫…大丈夫だから…!」
ジェシカが泣きながらも、モエーネの背中をそっと撫でた。
「ロゼ…てめえ死ぬんじゃねえぞ!」
エスタは拳を握りしめながら叫んだ。
その瞳には、燃え尽きそうな誓いが宿っていた。
「おやおや愚民の諸君…こんな所で雁首揃えて、何を立ち止まっているんだい?」
イヴァンカの声が、静まり返った五階に響いた。
軽口とは裏腹に、その顔は血と土に汚れ、激戦の爪痕を物語っていた。
「イヴァンカ!?」
マルジェラはその姿に目を見張った。
傷だらけのイヴァンカが、悠然と歩いてくる。
それはつまり──あのルキフェル閣下を打ち倒したという事実を意味していた。
誰もが確信した。
あの不遜な戦士が、ここに立っているということは、決着はついたのだと。
しかし、それは同時に、イヴァンカをここまで追い詰めたルキフェル閣下の力の凄まじさをも証明していた。
戦慄が背骨を這い、戦場にいた全員が無言でその意味を噛みしめた。
「やっほー!みんな元気ぃ!?」
今度は、明るすぎる声が通路の向こうから弾けた。
満面の笑みで手をブンブン振りながら、モスキーノが登場した。
その姿に、五階の空気が一瞬だけ和らいだ。
「フフフ…どうやらみんな無事みたいだねえ。今の所は。」
続いて現れたのはバレンティノ。
飄々とした口調ながら、目の奥は鋭く光っていた。
その後ろからは、無言で歩を進めるアズバール。
何も語らずとも、全身に戦意が満ちていた。
最後に、ひときわ強い気配とともに姿を現したのは──カインだった。
「よう。」
カインは、まるで買い物帰りのような軽やかさでそう言い、悠然と皆の前を通り過ぎていった。
「これで全員揃ったね。さあみんな、早くエンディの加勢に向かおう!」
アベルが待ちきれないとばかりに声を上げた。
だが──
「待て、もちろん加勢には行くべきだが…全員で行くのはダメだ。」
冷静な声でマルジェラが言い放った。
その目には戦況全体を見渡す冷徹な判断が浮かんでいた。
「同感〜!下の階には、ざっと5万体位の魔法族どもがいる。ヴェルヴァルトを倒すのも大事だけど、そいつらを食い止めるのが先決だと思うよー!」
モスキーノが肩を竦めながら続けた。
笑顔の裏には、明確な戦術的思考があった。
「フフフ…ヴェルヴァルト1人に戦力を注いだ結果、大量の雑魚どもに一網打尽されちゃあ元も子もないからねえ。」
バレンティノも不敵に笑った。
「ククク…だったら二手にバラけるべきだな。」
アズバールは腕を組んだまま、低くうなずいた。
「上に行ってエンディの加勢に行く者と、下に行って大量の魔法族どもを撃退する者で戦力を分散させよう。」
マルジェラは、すでに脳内で分隊の構成を組み立てていた。
「その必要は無い。ヴェルヴァルトの首をとるなど、私1人で充分だ。雑魚どもの始末は君達に任せるよ。」
イヴァンカが、至極当然のように言い切った。
自負と挑発、そして揺るぎない決意が言葉の中にあった。
「おいイヴァンカ!勝手な事言ってんじゃねえぞ!」
カインは不快感を隠すことなく怒鳴り、イヴァンカを睨みつけた。
両者の視線が交錯し、まるで稲妻のような空気が張り詰めた。
──だがその時。
それは、あまりにも突然だった。
誰もが気づかなかった。
話し合いに熱を上げ、油断という名の隙を許していたことに。
そして、忘れていた。
この場には、まだ“内通者”が潜んでいるかもしれないという恐怖を。
──閃光。
それは、五階から天井の穴に向けて放たれた、一本の黒い破壊光線だった。
太く、重く、そして異常なまでに濃密な闇の奔流。
丸太のようなそれは、躊躇なく最上階を貫こうとしていた。
「おい…なんだよ今のは…!?」
カインは瞳を見開き、声を震わせながら天を仰いだ。
放ったのは誰だ?狙いは何だった?誰かが──味方の誰かが、エンディとヴェルヴァルト冥府卿との死闘に水を差したのか?
答えは、すぐに落ちてきた。
穴の向こうから、傷だらけのエンディが白目を剥き、重力に引かれるようにして緩やかに、しかし抗えぬ速さで、五階へと落下してきたのだ。
「エンディ…そんな…嘘でしょ…!?」
ラーミアは口元を両手で覆い、震える声で絶句した。あふれる涙が指の隙間を濡らしていた。
──
「余の戦いの邪魔をするとは…余計な真似をしおって。」
最上階。
ヴェルヴァルト冥府卿は、冷ややかな視線でエンディの落下を見下ろしながら、静かに呟いた。
その声音には、苛立ちと不快、そして”予期せぬ横槍”への警告が滲んでいた。
彼の言葉は、エンディに向けられたものではなかった。
それは──“内通者”へ向けられたものだった。
破壊光線を放ったその者を、目撃した者は一人もいない。たった一人を除いて──
──
魔界城最上階での戦い。
その第一の敗者──エンディ。
そして、疑念と恐怖は、今、戦場全体を包み込み始めていた。




