嵐の牢獄と怒りの風
インダス艦が水平線に呑まれてから三十分、ようやく港町に静寂が戻った。
その静寂を破るように、保安隊の足音が石畳に響く。
数十名の隊員が遅れて到着し、まるで嵐の後に漂着した漂流物のように、散らばって聞き込みや現場検証を始めた。
彼らのテキパキとした無駄のない動きは実に迅速で、どこか機械的だった。
丘の上の病院では、中年の医者が脂ぎった笑みを浮かべ、保安隊長サイゾーと副隊長クマシスから直々に事情聴取を受けていた。
「焦ったぜ、まじでよ。船から柄の悪いのがぞろぞろ降りてきてよ、ぶっ飛ばしてやろうと思ったんだが、奴ら俺にビビったのか、ガキども連れてさっさとトンズラしちまった。」
サイゾーは眼鏡の奥で鋭い視線を医者に投げ、冷静に言葉を返す。
「なるほど。そのガキどもというのがラーミアと、ラーミアと一緒にいたエンディという少年のことですね?」
「ああ。」
医者は昨夜の出来事を語った。
エンディがラーミアを背負い、血と汗にまみれて病院に駆け込んだこと。
朝、二人で海を見ながら穏やかに語り合い、港へと向かったこと。
その語り口は、まるで古い物語を読み上げる吟遊詩人のようだったが、金の匂いを嗅ぎつけるハイエナの目がちらつく。
まさに、絵に描いたような守銭奴だった。
「ところでエンディという少年は何者ですか?調べたところ、この町の住人ではなさそうですが。」
「さあ、知らねえな。それより隊長さん、有力な情報を提供してやったんだ、報奨金は?」
サイゾーは医者の欲に満ちた顔を一瞥し、冷たく切り捨てた。
「そうですか、お忙しいところすみません。ご協力ありがとうございました。それでは失礼します。」
医者は金にならぬと見るや、苦々しい表情を浮かべた。まるで腐った果実を噛んだかのように。
二人は病院を後にし、緑道を歩く。
サイゾーは七三分けの黒髪と眼鏡が映える、真面目な好青年の風貌。
対照的に、クマシスは気怠げな雰囲気をまとい、両目の下のクマとおかっぱ頭が彼の神経質な本性を際立たせていた。
「しかし妙だな、なぜ奴らはラーミアと一緒にその少年まで連れ去ったんだ?」
「そんな事どうでもいいよ。早く帰って寝たい。」
「おい、心の声が漏れているぞ。」
「はっ…も、申し訳ございません隊長、つい。」
クマシスは慌てて口を押さえ、サイゾーは呆れた視線を投げた。
二人の足音は、緑道の木々の囁きと重なり、まるでこの辺鄙な港町の秘密を踏みしめるようだった。
「それにしても、給仕1人探すのにここまで大規模な捜索をするのは変だと思っていたが…まさか旧ドアル軍が関わっていたとはな。」
「ですね、そしてこの町に来た大男はおそらくダルマイン。まさか生きていたとは。」
クマシスは親指の爪をガリガリと噛み、怪訝な顔で呟く。
その仕草は、まるで不安を噛み砕こうとする小動物のようだ。
サイゾーの声は決然と響く。
「これは俺たちだけでどうにかできる問題じゃない。軍にも協力を要請しよう。お前はできるだけ大きな船を手配しろ。準備が整い次第、すぐにインダス艦の追跡に向かう。」
「追跡とかまじでめんどくせえ!あんた1人で行ってくれよ!」
「お前…その心の声を口にする癖いい加減に治せ。」
クマシスは再び我に返り、慌てふためく。
サイゾーの呆れ顔は、まるで古い友の悪癖に慣れきった老人のようだった。
一方、インダス艦は嵐の咆哮に飲み込まれ、荒れ狂う大海原を突き進んでいた。
船はまるで巨獣の背のように揺れ、雷鳴がその咆哮を代弁していた。
ラーミアは船で最も広い部屋に閉じ込められ、ダルマインと二人きりだった。
二十畳の空間には、ダイニングテーブルと四つの椅子、三人掛けのソファがぽつんと置かれ、まるで忘れられた貴族の広間のようだ。
窓の外では嵐が牙を剥き、船の軋む音が不吉な調べを奏でる。
ラーミアはソファに縮こまっていた。
ダルマインはテーブルに置いたウイスキーを傾け、彼女を監視していた。
その目は、まるで獲物を値踏みする鷹のようだ。
「心配すんな。こんなの船乗りなら日常茶飯事だぜ?この程度で沈没なんかしねえからよ。それよりなんか食うか?」
ラーミアは答えない。
彼女の心は嵐の海よりも深い闇に沈んでいた。
「ちっ、愛想のねえ小娘だな。」
ダルマインの声は、まるで錆びた刃が石を擦るような苛立ちを帯びる。
一方でエンディは、船の最深部、五畳ほどの独居房に幽閉されていた。
光の届かぬ闇の牢獄。
窓も便所もなく、埃と苔が壁を這う。
まるでこの世の果てに忘れられた墓所だ。
鉄格子の外では、港町を襲った兵士の一人が酒に酔い、赤ら顔で看守を務めていた。
エンディは眠っていた。
いや、気絶していると言うべきか。
彼の意識は、奇妙な夢の淵に沈んでいた。
夢の中、山奥の集落が炎に呑まれていた。
無数の家屋が赤く燃え、真夜中の闇を切り裂く。
老若男女が逃げ惑い、下品な哄笑が響いた。
黒装束の五人の男たちが、まるで死神の使者のように立ちはだかる。
そして、激しい怒りが胸を焦がす"夢の主の男"。
この男は何者なのか。この怒りは夢の主のものか、それともエンディ自身のものか、判然としない。
すると突如、黒装束の男たちが"夢の主"に気づき、襲いかかってきた。
その緊張が頂点に達した瞬間、エンディは目を覚ました。
怒りを胸に宿したまま、彼の全身からは再び強風が迸った。
それは港町で兵士を薙ぎ倒した時を遥かに超える猛威だった。
突風は独居の壁を打ち砕き、鉄格子を粉々にし、巨大な穴を開けた。
そして、エンディは自らが無意識に空けたその穴から、荒れ狂う大海へと投げ出されてしまった。
海水が傷口を刺した。
夢の意味を考える余裕もなく、エンディは嵐の海に翻弄され、必死にもがいていた。
泥酔していた看守は、壁を破壊する轟音で目を覚まし、慌てて確認に向かった。
穴から海水が奔流となって押し寄せ、彼は悲鳴を上げながら上階へ逃げた。
「何事だ!?」
ダルマインが階段を駆け下りると、血相を変えた看守と鉢合わせた。
「提督、ここは危険です!突然壁に穴が開き、海水が浸水してきました!すぐに補填を!」
「なにぃ!?てか酒臭えなてめえ!エンディはどうした!」
「独居を確認しましたがいませんでした!おそらく海に逃げたかと!」
「なにぃ!?ふざけんなてめえ!泳いで捕まえてこいや!」
「無茶言わんでくださいよ!こんな暴風雨の中どうやって!」
ダルマインは怒りを抑え込むように煙草に火をつけた。
冷静さを取り戻し、とりあえず部下に補填作業を命じた。
「ちくしょう…ラーミアに加えてあのガキも差し出せば、大手柄だったのに…!」
ダルマインは壁を殴り、苦渋の表情を浮かべた。
エンディはインダス艦を追おうと試みた。
だが、まず海上に浮かび上がることもできず、荒波に呑まれ、そのまま意識を失ってしまった。
海はエンディを無慈悲に攫い、闇の深淵へと引きずり込んだ。