最愛が牙を剥く時
「イヴァンカ、お前は俺の大切なものを傷つけすぎた。その代償、お前の命で償ってもらうからな。」
エンディの口から迸ったその言葉は、怒りに支配され、普段の彼らしくもない殺意に満ちていた。
激情が理性を押し流し、彼を異形へと近づけていく。
その刹那、彼の周囲で荒れ狂っていた烈風が、まるで神の命令を受けたかのように、ピタリと静止した。
大地は沈黙し、空すら呼吸を忘れたかのような、異様な無風状態に変わった。
「虚勢を張るのも程々にした方がいい。どうやら君は先の戦いで、自らの体を酷使し過ぎたようだね。もう風の力を発することすらままならない君が、私とまともに戦えるとは到底思えない。」
イヴァンカは皮肉げに笑いながらも、目に浮かぶ冷酷さは一寸の容赦もなかった。
だが、エンディはその嘲りにも動じず、堂々とその場に立ち尽くしていた。
次の瞬間、イヴァンカが鋭い斬撃と共に襲いかかった。
だがエンディは、それを軽やかに身を翻して避けた。
他の誰も視認できなかったイヴァンカの雷撃の如き剣速に、エンディは完全に順応していた。
まぐれとは思えぬ反応に、イヴァンカの目に一瞬の焦りが走る。
自らの失敗を否定するように、彼は気を取り直して再び斬りかかった。
その時だった。
エンディの拳が振り上げられ、瞬間、彼の身体から嵐の奔流が炸裂した。
剣でそれを受け止めようとしたイヴァンカの身体は、凄まじい風圧に弾き飛ばされ、大地を転がった。
今の一撃で全てを悟った。
エンディは周囲の風を完全に凝縮し、自身の肉体に内包していたのだ。
無風はその前兆であり、解放の瞬間に全てを撃ち抜くための布石だった。
「面白い…それでこの私と対等に渡り合えているつもりか?君の風など、我が雷で消し去ってみせよう。」
イヴァンカの表情は冷静を保ったまま、むしろ楽しそうですらあった。
彼の体から無数の雷光が迸り、辺り一帯を閃光が覆った。
風と雷が激突した。
天地を劈く轟音が鳴り響き、大気はその衝撃に軋んだ。
空間にすら亀裂が入るかと思わせる激しさで、二つの力は拮抗した。
イヴァンカの剣が振るわれるたび、エンディはその斬撃を生身の腕や脚で受け止めた。
だがその生身すら、今は台風の核のような風を纏い、ぶつかるたびに地形が変貌していく。
周囲の山脈は崩れ、空に届くバベル神殿すら今にも崩壊しそうだった。
やがて、激戦の中でエンディに一瞬の隙が生まれた。
イヴァンカはその刹那を逃さず、巨大な雷撃を放った。
しかしエンディはそれを、片手で受け止め、相殺してみせた。
「ばかな…あり得ない…」
その異常な光景に、イヴァンカの目が驚愕で見開かれる。
間髪入れず、エンディは彼を地面へと叩きつけ、無慈悲に殴りつけた。
その頃、ラーミアはゆっくりと意識を取り戻し、身体を起こした。
「気がついたか、ラーミア。」
モスキーノがそっと彼女に近づき、落ち着いた声で語りかけた。
「モスキーノさん…?」
彼の顔を見て安堵しながらも、ラーミアの目はすぐに戦場へと向けられた。
「ラーミア、この戦いはもうすぐに終わる。まずは自分の傷を癒しなよ。」
穏やかな口調ながら、その眼差しには緊張が宿っていた。
そしてラーミアの視線の先にあったのは、まるで理性を失った獣のように、イヴァンカに無慈悲な暴行を加えるエンディの姿だった。
「…あれは…誰?」
呆然としながら、ラーミアはエンディを見つめた。
彼女の知るエンディではない。
怒りと憎悪に飲み込まれたその姿に、心の底から恐怖を覚えた。
モスキーノは、彼女の胸中を見透かすように、静かに言葉を紡いだ。
「世の中で一番怖い人間は、最愛を知る優しい人間だよ。大切なものを奪われた時、その人間は理性を失い全てを破壊する。両親を殺され、目の前で仲間が傷つけられて…エンディはもう、“こっち側”に戻ってこれないかもしれない。もしかしたらイヴァンカを殺した後も見境なく暴れ回り、全てを破壊し尽くすまで止まらないだろうね。」
その言葉に、ラーミアの身体が震えた。
次の瞬間、彼女は何も言わずに立ち上がり、エンディへ向かって走り出した。
「え!?ラーミア!?何考えてんの、危ないから戻って!」
モスキーノの声も届かず、彼女はただ真っ直ぐにエンディの元へ走った。
その風圧で転倒し、砕けた岩脈の破片が身体に直撃し、何度も傷を負いながら、それでも止まらず走り続けた。
エンディには彼女の姿など映っていなかった。
イヴァンカへの殺意に飲み込まれ、理性を失っていたのだ。
白目を剥き、意識が混濁しかけたイヴァンカを容赦なく痛めつけていた。
首を絞め、腹部を風の拳で殴打し続け、最後には頭を踏みつけて巨大な風刃を振りかざしていた。
その時だった。
「エンディ!もうやめて!」
背後からラーミアが、力強くエンディを抱きしめた。
その声に、エンディの動きが止まる。
「お願いもうやめて…エンディのそんな姿、私見たくない。戻ってよ…優しかったエンディに…戻ってきて!」
ラーミアの涙交じりの声が、心の奥底まで届いた。
「ラーミア…?何してんだよこんなとこで…なんでそんなボロボロなんだよ…?」
ラーミアの体中に刻まれた傷。
それが自らの風によるものであると悟った瞬間、エンディの心は強烈な痛みに包まれた。
「ラーミア…ごめん!俺のせいでこんな…どうしよう…。」
彼は泣きそうな顔で動揺した。
ラーミアはその様子を見て、思わず微笑んだ。
「良かったあ…いつものエンディだ!」
「ラーミア…どうしてこんな危険な真似したんだ?」
「やだなあ、初めて会った時に約束したでしょ?あなたの力になりたいって。この先何があっても、私はこの約束は絶対に守るよ?あなたのためだったら、何だってする。」
その言葉に、エンディの目から涙が溢れた。
「エンディは本当に泣き虫だね?」
「う、うるせえよ!」
不意にからかわれ、エンディは慌てて涙を拭った。
「エンディがどれだけ辛い思いをしたきたか…私なんかじゃ想像もできない。だから復讐なんてやめてとか、憎しみを捨てて相手を許して、なんて無責任な事は言えない。だけど、自分を捨てた生き方だけはしないで欲しいの。私の知ってるエンディは、初めて会った時から何も変わらない…優しくて暖かい人だから。」
「ありがとう、ラーミア。」
その言葉は、エンディの心に深く刻まれた。
その時になって、彼はふと我に返る。
イヴァンカの姿が忽然と消えていた。
目を凝らすと、パンドラの方へ向かっている姿があった。
パンドラ。
それはユドラ帝国で唯一、レムソフィア家の当主しか立ち入りを許されぬ禁忌の地。
だがエンディは迷わなかった。
即座にその後を追った。
パンドラは古びたドーム状の建築物で、内部は広くもない。
だが、その中央には異様な存在が鎮座していた。
巨大な水晶玉。
そして、それを囲むように立ち尽くす無数の人型の石像。
「何だよ…これ…?」
その異様な風景に、エンディの背筋が凍りつく。
かつて夢で見た、光のない、闇に支配された世界。
そこに現れた、巨大で異形な悪魔のような影。
なぜかそれらの光景が、一瞬ではあるが、頭痛と共にフラッシュバックしたのだ。
「エンディ、これが何か分かるかい?」
イヴァンカが水晶玉の前に立っていた。
「死ぬ前に特別に教えてあげるよ。これはね、500年前に天星使によって封印された魔王だ。そしてこれを囲むこの夥しい数の石像は、魔王から闇の力を与えられた魔法族。彼らも悪魔と共に封印されたのだ。」
「どうしてそんなものが…?」
「500年前、我々ユドラ人の先祖は自らこの封印物を保管することを買って出た。こんな危険な代物を手元に置いておけば、誰も手出しなどしてこないからね…大方、抑止力として利用しようとしたのだろう。」
「お前、さっきから何でその水晶玉を触ってんだ?何をしようとしてるんだ?」
「感じないかい?5世紀にも永きに渡り封じられ続けてきた闇の力が、鼓動を取り戻してきているのを。私と君の巨大な力の衝突により、その封印が弱まってきているのを。」
冷たい笑みを浮かべながら語るイヴァンカ。
そして水晶玉に、小さな亀裂が走った。
そこから黒煙のような何かが、じわりと溢れ出す。
「やめろ!イヴァンカ!」
エンディの全身が本能的に拒絶した。
その煙を見た瞬間、細胞の一つ一つが叫んでいた。
イヴァンカはその黒煙を、自らの身体に吸収し始める。
瞬く間に彼の傷が癒え、生気が戻っていく。
そして、漆黒の羽衣を纏うように、イヴァンカは変貌を遂げていた。
「今君の目の前にいるのは、闇の力を取り込んだ雷の天星使だ。この私に敵うものなどこの世に存在しない。」
その気配は、かつての比ではなかった。
闇の底から蘇った雷帝が、ついに目を覚ました。




