プロローグ
その夜、エンディは血と涙の荒野に立った。
彼の身体は動かず、魂は知らぬ記憶に囚われていた。
太陽が無慈悲に光を投げかけ、青空が無情に広がる中、彼の心は、まるで別の人生の傷をなぞるように震えた。
夢だった。
だが、なぜその夢は、彼の存在そのものを揺さぶるのか?
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エンディは闇から引き裂かれるように目覚めた。
血の匂いがする。否、そんな筈はない。
心臓が肋骨を叩き、額には冷や汗が滲む。
息は乱れ、まるで溺れる者が水面を求めるように空気を貪った。
宿の薄暗い部屋は、埃と古木の匂いに満ち、窓の隙間から差し込む朝の光が、粗末なベッドの輪郭を浮かび上がらせていた。
軋むスプリングの音が、静寂を切り裂く。エンディは身を起こし、震える手で髪をかき上げた。
あの夢があまりにも鮮烈で、まるで彼の魂に刻まれた別の物語の断片のようだった。
急いで身支度を整え、彼は宿を後にした。
ボロい部屋だったが、雨風を凌げる屋根の下で一夜を過ごせたことに、かすかな安堵を覚えた。
外へ出ると、潮の香りを孕んだ風が頬を撫で、陽光が眩しく目を細めさせた。
昼を過ぎた空は、どこまでも清らかで、夢の重苦しさを嘲笑うようだった。
「なんだったんだろう…まあいいや」
エンディは呟き、気持ちを切り替えて歩を進めた。
ここは、ナカタム王国の辺境にひっそりと佇む港町。世界最大の軍事国家の片隅にありながら、都市部特有の輝きよりも、土と海の息吹が色濃い場所だ。
農夫の鍬が大地を穿ち、漁師の網が波を切り、市場では果実や魚の香りが風に舞う。
エンディはすぐにこの町を好きになった。
いや、正確には、知らぬ土地を歩くことそのものが好きなのだ。
見知らぬ街角、風に揺れる木々の囁き、石壁に刻まれた時の傷跡。
それらが彼の心に問いを投げかけ、答えを求めずとも魂を満たした。
だが、今日、足取りはどこか重い。
夢の残響が、彼の心に影を落としていたからだ。
市場の喧騒が耳に飛び込む。
商人たちの呼び声、魚の鱗が光る音、子供たちの笑い声。
その中で、ふと、刺すような会話がエンディの足を止めた。
「王室の給仕が攫われたんだって。物騒な世の中だねぇ」
「怖いわねえ…」
買い物籠を提げた婦人たちの声には、恐怖と好奇心が混じる。
エンディは一瞬振り返ったが、すぐに視線を外し、歩みを再開した。
だが、その言葉は胸に小さな棘を残した。
なぜか、知らぬはずの不安が心を掠めたのだ。
それよりも、彼を苛むのはあの夢だった。
夢の中で、彼は荒涼とした大地に横たわっていた。身体は血に塗れ、大の字に投げ出され、まるで命が大地に吸い取られているかのようだった。
痛みはなかった。夢なのだから当然だ。
だが、血の生温かさと、鉄の匂いはあまりにも鮮明で、五感を締め付けた。
視界には、果てしなく澄んだ青空と、まるで神の目のような黄金の太陽。
そして、すぐ隣に、もう一つの影。
同じく血にまみれ、動かぬ誰かだった。
その顔を見ようと、エンディは夢の中で必死に首を動かそうとした。
知りたい。知らねばならない。
この者が誰なのかを。
なぜここに倒れているのか。
だが、身体は石のように硬直し、わずかな動きすら許さなかった。
そして、涙。
頬を伝い、滝のように流れ落ちる大粒の涙。
理由はわからない。
だが、心の奥底から湧き上がる、名もなき悔恨が彼を押し潰していた。
まるで、失われた何かを取り戻そうと、魂が叫んでいるかのようだった。
涙が枯れる寸前、彼は目覚めた。
現実の光の中で、エンディは息を整えながら思う。
あの夢は、ただの幻だったのか。
それとも、彼の知らぬ過去が、魂の裂け目から溢れ出しているのだろうか。
考えるほどに、謎は深まるばかりだった。
記憶の断片は、彼を嘲笑うように霧の彼方に消えた。
だが、一つだけ確かなことがある。
あの夢は、終わりではない。始まりだった。
ここから、物語は動き出す。
エンディの足音が、知らぬ運命の扉を叩くように、静かに、しかし確かに響き始める。
輪廻の星が、その悠久の輝きを世界に投げかける瞬間が、今、訪れようとしていた。