交錯、そして空気は凍る
第二の課題地点は、学院の南庭――普段は使われない温室の奥。
俺とロイドは、さっきの備品庫の課題を乗り越え、やや緊張もほぐれてきた頃だった。
……だったのに。
「あっ……」
そこに、見覚えしかない二人の姿。
クラリッサ・フォン・ルクレール。
アリシア・ホワイト。
まさかの、正面からの鉢合わせ。
空気が――止まった。
「……殿下」
クラリッサの声は、相変わらず静かだった。
でもその一語に、全身が冷えた。
怖い。怖い。いや絶対怒ってるでしょこれ無音で怒るやつだ。
「い、いや、これは、偶然だよ!? 本当にただの課題のルートで――」
「まあ」
クラリッサが一歩、こちらに歩を進めて微笑む。
にこやかに、完璧な礼儀で。だがその笑みが逆に怖い。
「殿下はその方と、お組になりたかったんですね」
「ち、違っ、いや、その、事情がというか、ユベール先生が……っ!」
動揺のあまり、前世のサラリーマン時代よろしく“上司のせいにする部下”ムーブが発動する。
その横で、ロイドが一歩すっ……と後退。
(えっ、逃げた?)
「わ、私は何もしておりません。先生に呼ばれただけで、決してそ、その、出しゃばったわけではなく……」
顔色を変えず、目だけで“俺を巻き込むな”と訴えてくるロイド男爵。
一方で、アリシアは一瞬目を見開いたが、すぐに視線を逸らして黙った。
まるで“私も気まずいから話しかけないでください”と全身で訴えているようだった。
俺たちは完全に、四人で空気を冷凍した。
「……アリシア嬢、行きましょうか」
「……はい」
クラリッサはにこやかに微笑んだまま、アリシアを伴って温室の扉へ向かっていく。
すれ違いざま、クラリッサがほんの一瞬だけ、俺を見た。
目は――全然、笑ってなかった。
俺の背筋が一瞬にして氷点下に突入する。
「……ロイド、俺、今死にかけた」
「はい、私も一瞬、魂抜けかけました。すみません、殿下、私そろそろ実家に帰っても……」
「だめ。逃げんな。頼むから一緒にいてくれ」
温室に続く小道で、あの姿が視界に入ったとき――
私の鼓動は、一瞬だけ跳ね上がった。
レオンハルト殿下。
そして、その隣にはロイド・バルニエ男爵。
並んで歩く姿は自然で、ほんの少しだけ、楽しそうにも見えた。
(……殿下、お元気そうでなによりですわ)
それだけのこと。ほんの、それだけのことなのに。
どうして、胸が少しだけ熱くなるのか、自分でもうまく説明できなかった。
この学院に入ってから、殿下と話す機会は限られている。
公の場で必要な言葉を交わす程度。
その距離を、殿下が望まれているのだとわかってはいたけれど――
(でも、会えたのですもの。……少しぐらい、嬉しいと思っても、罰は当たりませんわよね?)
気持ちが緩むのを自覚して、すぐに引き締める。
(なにを浮かれておりますの、私。そんな顔、殿下に見せてどうするの)
アリシア嬢の気配が横にあるのを感じながら、一歩だけ前に出る。
いつも通りの微笑みを浮かべ、静かに名を呼んだ。
「……殿下」
殿下が少し戸惑いながらも、すぐに返してくださった。
ああ、それだけで――
(……ほんの少しだけ、期待してしまいそうになりますわ)
でも、浮かれてはいけない。
殿下は私ではなく、ロイド男爵とペアを組まれた。
そして今、目の前で焦りながら言い訳をされている。
だから私は、笑顔を崩さずに口を開く。
「殿下はその方と、お組になりたかったんですね」
声が、少しだけ揺れたかもしれない。
でも、誰にも気づかせないように、微笑みをそのまま保った。
ロイド男爵が一歩下がった気配を感じる。
その反応に、ほんの少しだけ心が和らぐ。
(殿下の隣にいるというのは、それだけで緊張するものでしょう?
……私が少し、慣れてしまっているだけ)
アリシア嬢も気まずそうに黙っている。
誰も悪くない。けれど、誰の心も穏やかではない。
「アリシア嬢、行きましょうか」
「……はい」
二人で温室の扉へ向かいながら、私はほんの一瞬だけ、後ろを振り返る。
殿下がこちらを見ていた。
その視線が、まっすぐに私を見ていることに――胸の奥がまた、きゅっとなる。
(……こんなことぐらいで、心を揺らすなんて。私、どうかしていますわね)
でも、そんな自分も悪くないと思った。
殿下に会えて、嬉しかったのだから。
温室の扉が静かに閉まり、そこにあった気配がすうっと引いていく。
残されたのは、俺とロイド。そして――奇妙なほどの静寂。
俺はその場で立ち尽くしたまま、しばし口を開けなかった。
その横で、ロイドが小さく息をつきながら呟いた。
「……殿下」
「ん?」
「すみません、僕……冒険者やってきた身なんですが、今のは初めて感じました」
「何を?」
「“あの空気”です。あれは……恐怖です。魔物でも、刺客でもない、“人間の静かな圧”ってやつです……」
「…………うん、俺もわかる」
「特に、クラリッサ様の笑顔が一番効きましたね。
でも……あの、殿下。もしかして気づいておられないかもしれませんが――」
ロイドは真顔で俺の肩をぽん、と叩いた。
「横の方、アリシア嬢も、十分怖かったですよ?」
「……え?」
「目線だけで“話しかけてこないでください”オーラ出されてました。たぶん、“無関係風を装った内心爆発パターン”です」
「……まじかよ」
「はい。クラリッサ様の直撃も怖かったですが、あれは横の地雷が二重に設置されてました」
俺は両手で顔を覆って呻く。
「うわあああ……」
その俺を見て、ロイドがさらに一歩前に出てきた。
「で、殿下」
「はい……」
「なにをしたんですか?」
「いや、だから、何もしてないって……!」
「何もしてないのに、あの視線が飛んでくるわけないじゃないですか!?
しかも僕、今完全に“同類”だと思われましたよ!? 今後の学園生活に支障が出たらどうしてくれるんですか!」
「いやほんとごめんって……!」
「いいですか。ちゃんと誤解は解いてください。いやマジで。お願いします。これ冗談じゃないです」
ロイドはすっ……と俺から距離を取り、両手を胸の前で組んで、神に祈るポーズを取った。
「巻き込まれたく、ないんです……」
「わかった! わかったから!」
温室の扉を前に、俺たちはしばし現実逃避したくなるほどの気まずさに包まれていた。