最初の選択
教室の空気が、再び落ち着きかけたそのとき。
ユベール先生は教卓から一枚の紙束を取り出した。
「さて――本日は、最初の“学院内課題”を配布します」
その一言に、クラス全体が小さくざわついた。
「課題といっても、難しいものではありません。学院の敷地内を探索し、指定された三か所を訪れて、そこに設けられた“問い”に答えていただきます」
そう説明しながら、ユベールは一枚ずつ用紙を配り始める。
その所作すら、丁寧だった。まるで、書類に込めた想いを一人ひとりに手渡しているような感覚。
「ただし、今回は“二人一組”で行動してもらいます。誰と組むかは、任意で決めてください」
その瞬間。
教室の空気がピキリと緊張した。
ざわめきが広がる前の、微かな張り詰め。
誰もが、自分の周囲を伺いはじめていた。
(なるほど、最初の“選択肢”か……)
俺は苦笑を噛み殺す。
貴族たちは互いに出方を見ている。家同士の関係、発言力、将来性。
そんな思惑が、この場でいきなり交差し始めた。
クラリッサは何も言わず、ただ静かに用紙を見つめている。
表情は変わらないが、その沈黙の意味を誰もが量ろうとしていた。
アリシアは……紙を受け取る手が少しだけ震えていた。
何も言えず、誰にも話しかけられず、でも必死に表情を保っている。
そして――俺には、すでに何人かの視線が向けられていた。
(うわ、来たな……)
王子である俺と組むということは、他の貴族に対して“並び立つ”という宣言でもある。
当然、軽々しく声はかけられない。でも、かける勇気を持つ者は……目立つ。
(さて、どうするか)
俺は手元の紙に視線を落としながら、思考を巡らせていた。
この課題、ただの探索ではない。誰と組むかで、すでに“試されている”。
そして、俺が誰を選ぶかもまた――見られていた。
(たしか……このタイミングで、ヒロインとパートナーになるのが“王道”だったはず)
俺は手元の課題用紙を見つめながら、記憶の引き出しをひっくり返していた。
前世で読んだ小説か、妹に聞かされたゲームの筋書きかは、もう曖昧だ。
でも確かに、ここは「王子とヒロインが最初に組む」フラグの発端だった。
(それが、アリシアとレオンハルトの距離を縮めていくきっかけで……ってやつ)
けれど。
目を上げて、改めてアリシアを見る。
彼女は誰にも話しかけられず、静かに用紙を見ていた。
わずかに肩を落とし、それでも気丈に表情を保とうとしている。
……たしかに“ヒロイン”感はある。
だが――
(……だからといって、今この場で彼女に声をかける理由、あるか?)
俺は、自問した。
いや、ほんとに。
彼女と俺に、まだ接点はない。
クラリッサのことすら、俺自身の立場と記憶の重なりでようやくバランスを取ってるような状況なのに、ヒロインにいきなり話しかけるとか、無理がある。
(むしろ、やったら「やっぱり殿下はああいう子が好みなのね」とか噂されそうだし)
目立つ。とにかく目立つ。
しかも、アリシア本人にとっても負担になる可能性大。
せっかくクラリッサがあれだけ整えてくれた空気を、王子様がぐいっと介入して台無しにする展開……ないわ。
(そもそも、クラリッサにどう思われるかも分からんしな)
俺は、彼女たちを見る。
クラリッサは机に肘をつかず、用紙の文字をじっと見ていた。
その静けさには、どこか“答えを待っている”ような気配がある。
……一方で、アリシアの手は少しだけ震えていた。
(……フラグ的にはアリシア。でも、現実的にそれを選ぶ理由は――)
まだ、なかった。
「選ぶより、選ばせるために」
「……あの、レオンハルト殿下」
声が届いた瞬間、教室の空気がまた一段と張り詰めた。
見上げれば、そこにいたのはアリシア・ホワイト。
目を逸らさず、まっすぐにこちらを見つめている。
「よければ……私と、組んでいただけませんか?」
彼女の声は震えていなかった。
勇気を振り絞ったその言葉に、俺は一瞬、返事をためらった。
(……どうする?)
この場で彼女と組むのが、シナリオ上は“正解”のはずだ。
それが王子ルートの始まり、ヒロインと急接近するきっかけだった。
でも――
(クラリッサが、いる)
目を逸らすことなく、彼女を見た。
机に座ったままのクラリッサは、表情ひとつ変えない。
まるで何も気にしていないかのように、静かに紙を見ている。
(いや、気にしていないわけがないだろう)
婚約者である自分が、平民の少女とペアを組む。
それは、政治的な意味でも立場的にも、決して軽い判断じゃない。
ここでアリシアの手を取れば、俺の“意志”として解釈される。
そしてクラリッサにとって、それは――
(……選べない)
俺は思わず息を詰めた。
どちらかを選ぶ、なんてできない。今の俺に、それだけの覚悟はまだない。
(……なら)
ふと、ひとつの案が浮かんだ。
それは、自分の立場を活かした、ある意味“ズルい”方法だった。
「アリシア嬢。少々、お待ちいただけますか」
そう言って、俺はクラリッサのもとへ向かう。
彼女は顔を上げた。けれど、眉一つ動かさず、ただじっと俺を見た。
「クラリッサ。お願いがある」
「……なんなりと」
「アリシア嬢と、ペアを組んでいただけるか?」
教室が静まり返る。
その問いは、決して軽くなかったと、自分でもわかっていた。
けれど――クラリッサは、ほんの少しも表情を曇らせなかった。
「殿下のご命令とあらば、断る理由はございません」
凛とした声。まっすぐな言葉。
その瞳には、誇りも、痛みも、迷いも見えなかった。
(……本当に、すごいな)
クラリッサは、いつだって誇りを選ぶ。
自分の感情より、立場と誓いを優先する。
そういう強さを、俺は今、目の前で突きつけられていた。
殿下がこちらに歩み寄ってこられたとき、私は当然のように、アリシア嬢と組むと告げられるものだと思っていた。
彼女はこの場で、誰よりも早く殿下に声をかけた。
身分も立場も、周囲の空気も考えれば、あの行動は決して軽々しいものではなかったはずだ。
そして私は知っている。
殿下は、そういう“勇気ある選択”を、決して踏みにじるようなお方ではない。
……私に対して、個人的な感情などないことも、よくわかっている。
王子と令嬢という立場上、定められた婚約であって、殿下が望んで選ばれたわけではない。
彼が私を“人として見ている”などと、思い上がるつもりもなかった。
だから、当然の流れとして、彼女と組むのだと受け入れていた。
けれど、殿下が口にしたのは思いもよらぬ言葉だった。
「アリシア嬢と、ペアを組んでいただけるか?」
……驚いた。
ほんの一瞬、答えに詰まりそうになった。
なぜ私に。なぜ、殿下自らが手を伸ばさず、私を通すという手段を選ばれたのか。
わからなかった。
でも、私の心は、確かに波だった。
それでも。
私は何事もなかったかのように背筋を伸ばし、手を組んだまま顔を上げる。
「殿下のご命令とあらば、断る理由はございません」
凛とした声で、まっすぐに答える。
それが私にできる、唯一の誠意だった。
あのとき確かに、私は“選ばれた”のではなかった。
けれど、信じられて、託されたのだと思う。
(私の殿下は、あのような勇敢な者を軽んじたりはなさらない。……それは、きっと誇るべきこと)
そう自分に言い聞かせながら、私は静かに胸の奥に言葉をしまった。
断られるとは思っていなかった。
いや、それどころか、殿下から声をかけてくるはずだった。
この場面は、何度も夢に見た。
物語の中で、王子がヒロインに手を差し伸べる、あの有名な一幕。
なのに。
(……なぜ、動かなかったの?)
彼は迷った。そして私を見たけれど、選ばなかった。
クラリッサ様に、私を任せるという形を取った。
それが彼なりの誠意であり、優しさであると、頭では理解できる。
けれど、胸の奥では別の感情が渦巻いていた。
(おかしい。何かが違う)
この学院は、前世で知っていた物語と同じはずだった。
登場人物も、展開も、イベントも。
けれど、たった一つの判断で――すべてが軌道を外れていく。
(まさか……この物語、“変わってる”?)
私は小さく息をのんだ。
そして思った。
なら、私も変わらなきゃ。
受け身のヒロインじゃいられない。ここで待っているだけじゃ、手を取ってもらえないのなら――
(自分で、動くしかない)